第53話 「一ヶ月間、ご苦労様でしたっ」
北方先生の家で振る舞われたのは、またも寿司だった。北方夫人は続けて同じ料理を振る舞うことに引け目を感じているようで、頻りと「すいませんねえ、この人、お寿司好きなものだから」と、北方先生のせいにしている。
俺はというと、全然ウェルカムである。他人の金で食べる寿司なんて一ヶ月続いても美味しく食べられる自信があるからだ。なので、全然気にしていない、ということと、フライトの前に北海道らしい食事ができて嬉しい、というようなことを言った。
「そうだよなあ。道産子はみいんな寿司好きなんだから。言ったべや」
北方先生は全然悪びれる風もなく、機嫌良さそうにそう言う。寿司が好きというのは事実らしい。
「そういえば、松尾とは北方先生の家に来たときしか食べてないよね。お寿司」
「ああ。そうだな。……でもラーメン食べたよな。ジンギスカンはけいちゃん家で食べたし、寿司も食べたし、ビアガーデンも一応行ったか」
「あとはスープカレーでコンプ?」
「あ、そうだな。割と新興の名物感あるけど。……ってか、別に名物をコンプしようとは思ってなかったんだけど」
「それじゃあ、夜食べに行こっか」
伊勢がカロリーを度外視した提案をしてくる。
「良いじゃない。そこまで制覇したなら、却って心残りになるでしょう」
何故か北方夫人が加勢してきた。
「いや。今晩は職場の送迎会があるんだ。行けるとしたら……明日、かな?」
「明日明後日雨よ〜?」夫人が空いた皿を重ねながら忠告してきた。
「明明後日には東京行きの飛行機に乗らなきゃ行けないんですよ」
「えっ!」伊勢は驚いた拍子に寿司を変な風に飲み込んだらしい。慌ててお茶を飲んだ。「三日後!?」
「うん。だから、行けるとしたら明日くらいしかないんだよな」
「松尾、もっとゆっくりしてけえ!」
「昨日急に決まったんですよ。人に都合して貰ったチケットなんで、キャンセルできるようなものじゃないんです」
「そうかあ。そりゃ寂しくなるな」北方先生は、本当に寂しそうに寿司で出張った腹を撫でた。
「それじゃあ、明日行こう。車でさ」
「いいよ。スープカレーな。職場の連中に良い店聞いとく」
一応、明日は個人的にやっておきたいことをするために空けておいた一日だ。とはいえ大雨のようだし、伊勢と一緒に過ごすのが趣旨から外れているわけではない。
それから、どこそこのスープカレー屋が美味しい、という話題に流れて、いや、あの店は注文がスマホでややこしいんだ、この間行ったときは結局店員さんに手伝って貰ったじゃないか。あら、伊勢先生みたいな若い人にはへっちゃらでしょうみたいな感じでやり取りしているうちに、いつの間にやら北方夫人がテーブルに31アイスクリームの大きな箱を持ってきている。
「このお店のアイス、前から食べてみたかったのよ。けど、おじいさんとおばあさんが二人で食べるのって変でしょう?」
……ということらしい。
それで、アイスは何とか平らげて、寿司は少し残して、というところでようやく本題の報告会になった。結構きちんと綴じた報告書は用意してあって、そこにはこれまでの調査のあらましが大体書いてあるのだ。こういう書類作成技能を、俺は一応持っている。
「結局、最後の一人には連絡が付かなかった、という結果になります。申し訳ありません」
「いや、なんも! なんも! それだけ集められたんなら、大変立派だ」
「一応、最後の一人の居住地は当てが付いているんです。本州で……多分、メールは届いていると思うんですがね。参加の意思が無いか、メールに気付いていないか、ということになるかと思います。俺が東京に引き上げてからも、伊勢の方から定期的にメールを送ってみる予定で、後から参加、ということになるかも知れませんが」
「いや、嬉しいねえ……月本さんかい?」
「いえ、月本とは、偶然連絡が取れたんです。東京住みなんで参加できるかどうか、ってところなんですがね」
「そうかい! 月本さんがねえ……。元気してたかい?」
「元気でした。今はITエンジニアで」
北方先生は、在りし日の担任教諭の面を取り戻していた。不吉な喩えだが、とても幸せな走馬灯を見ているような目付きで瞳を潤ませている。そんな彼の背後を通りすがって、北方夫人が横の椅子に座った。手には結構膨らんだ茶封筒を持っている。
「あなた、ほら」
「おっ? おっ! おおうっ!」
やや自分の世界に入っていた北方先生が、慌てて茶封筒を受け取る。その手触りと重さをしっかり確認してから――
「それじゃ、松尾。伊勢先生」
「はい」
なんとなく、伊勢と一緒に立ち上がる雰囲気になった。座っている北方先生の前に並んで気をつけをする。なんだか卒業式みたいだ。
「一ヶ月間、ご苦労様でしたっ」
茶封筒を、両手でしっかりと受け取る。これほどの金額なら大体銀行振り込みで受領するもんだし、現金ということもある。ただの報酬金という以上に重みのある茶封筒だった。
「こちらこそ、ありがとうございました。……」
「寿司のことなら、ちゃんと引いているから気にすんなや!」
「こらっ。あなたっ」
「冗談だあ。う、う、は、はははは!」
別に面白い冗談というわけではなかったが、北方先生の風船を割ったような笑い声に釣られて俺たちも笑ってしまった。適正な前金に、上々の調査結果に、適正な報酬と顧客の笑顔。……良い仕事ができた。甲斐の庇護下になくとも、自分と相棒二人で何とかやったんだ、という手応えがあった。
しみったれた依頼の多いこの職種じゃ非常に珍しいことだ。
今回の経験は、きっと今後の人生で時折思い返すことになるだろう。その度、俺は自尊心を取り戻すことができる気がする。
*
北方邸を辞する、というタイミングに伊勢がトイレに行った。
中途半端に腰を降ろす格好になった俺を前に、北方先生と北方夫人が意味深げに一瞬眼を合わせる。すぐさま「松尾さん」と、夫人がちょっと前のめりになって話しかけてきた。なんだろう。
「なんです?」
「あなた、伊勢先生と一緒に暮らしていきたいとは思わないの?」
「……なんですってえ?」
あまりに突拍子のない質問に、俺は間抜けな声を挙げてしまった。
「おい、母さん。もうちょっと言い方ってもんが……」
「こういうのに言い方も何もないわよっ」
「……」
北方先生は、それきりしょんぼりと縮まってしまった。意外と尻に敷かれているのか?
「伊勢先生、あなたが帰ると知って切ない顔しているじゃないの。松尾さん、あの子と結婚したらどうなの?」
「えっと……」
「余計なお世話だと思って聞いて頂戴ね。伊勢先生は、相当! あなたのこと気に入っている様子よ。あの子が今までお婆さまの介護で大変だったというお話は聞いているでしょう?」
「まあ、ええ」
「可哀想でしょう? それに、あの子は新任の頃から……いいえ、教育実習の頃から私たちとは懇意にしていて、北広島でのあの子の親代わり、という感じもあるのよ。ご両親にはおこがましいですけれどね」
「はあ」
夫人がマシンガンのように捲し立ててくるのは、今にも伊勢がトイレから帰ってきそうだからだろう。俺の相づちがそっけないわけじゃなくて、そもそもこちらが話す暇を与えてくれないのだ。
「私たちは、あの子のことを心配しているのよ。結婚には良い年齢だし、ポッとそこら辺のよく知らない人とお付き合いするくらいなら、あの子の本当に気に入る人と結婚してくれたら良いなって話をしていたのよ。そこにきてあなたという人は……ぴったりだわ!」
言う程か? と訝しがった。俺のポッと出具合も中々自慢できると思うが。
「北方先生」
「う」
「まさか、俺と伊勢をくっつけるために、今回の仕事を?」
「う。いや。そういうんでも」
「そうよ!」
「いや。母さん。違うぞ、松尾。違うからな。こういう話をしたのは、仕事を頼んで、あの二人お似合いだべや、って話をして、どんどんヒートアップしちゃって……」
「あなたっ!」
「母さんっ!」
「とにかく、このままお別れしては伊勢先生があまりにも……。まるで結婚詐欺みたいじゃないの」
「さ、詐欺? 詐欺ですか……」
「多いのよ。最近。あなた、ほら、陶芸教室の! 宗像さんところの! 娘さんも! この間!」
「う」
そこに、ハンカチで手を拭う伊勢が戻ってきた。
「……ん? どうかしました?」
「いえ。いいええ。何でも無いのよ。ね? 松尾さん」
「はあ……」
こちらに向けられた夫人の目線には、強烈な圧があった。
*
ようやく、北方邸の玄関を出ると、来たときと同じように俺が傘を差して伊勢の先導を務めた。彼女が濡れないように、転ばないように最大限の注意を払いながら運転席に案内して、俺は少し濡れて助手席に乗る。
その瞬間――
「あああっ!!!」
腹の底から大声が出た。




