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第52話 「いやっ、私めっちゃ遅かったじゃん!」

 伊勢の家の玄関に胡座をかいて、ドライヤーで靴を乾かしている。


 靴下は替えがあるから、取りあえず中敷きだけも何とかすれば何とかなるだろう。伊勢が使っているドライヤーは俺の人生で使用した今までのモデルの中で一番性能が良い。ターボにすれば強力な暖風が出せる上、それほどうるさくない。


 そうしていると、後ろの扉を開いて伊勢がやってきた。俺の隣の壁に立ったままより掛かって、持っているカップをくびりと傾ける。


「乾きそ?」


「何とか、中はな」


 風量を一段落として答える。すると、伊勢は壁に背中を滑らして腰を降ろした。


「どうだった?」


「……ん?」


「つきもんと会ったんでしょ。どうだった? 彼女」


 いつの間にやら月本さんがつきもんに戻っている。……まあいいけど。


「拍子抜けするほど変わってなかったよ。昔の月本が大人の月本にそのまま成長したって感じかな」


「へえ……。昔のつきもんを、まず知らないんだけど」


「まあ、俺たちのこと無視したりしてたからな」


「うん」と、あっさり伊勢は頷いた。「別に私だからってわけじゃないと思うけど。言っておくけど、あのクラスでつきもんと仲が良かったのって――仲良くしようとしたのって松尾だけだったよ」


 言われてみればそうだった気がする。けいちゃんでさえ、月本とはあまり親しくなかったかな。


「面白い奴だと思うんだけどな。思慮深くて色んなことを知っているし。何より趣味も気も合う」ここでちょっとおどけて、「まあ、知能指数が離れているとコミュニケーションは成立しないって言うしな。きっと、あのクラスで俺と月本だけIQが飛び抜けていたんだろう」


「つきもんとまっちゃんが、仲良くなったきっかけは!?」と、更におどけて聞いてきた。


「これというきっかけは別に……いや、あったな。『未雷』だ……」


 伊勢がきょとんとした顔で素足のくるぶしを掻いている。


「あっ。『未雷』ってのは小説のタイトルで――って、そうだ。伊勢は『未雷』を読んだことがある……」と、迂闊にも言いかけてしまって、これが避けていた話題であることを思いだした。


「な、何で知ってるの?」


 不自然に言葉尻を濁らせた俺を伊勢は逃がしてはくれない。


「……くるみちゃんと話したときに、読書感想文が難しい、みたいな相談をされて。それで……」


「あっ、あー。くるみちゃんがね。そう」


 そこで言葉を切って、伊勢はばつが悪そうに首筋を撫でた。


「結構ちゃんと読んでるみたいだよ。漢字に苦戦していたけどな。あの子、読書感想文なんて後で出だせばいいやって開き直ってたぞ。良いのかよ」


「ええ……。良くないけど……」と、ぐるりと手を首の後ろに回してからパッと明るい顔を上げた。「まあいいわ。薦めたの私だし、私も初めて読んだときはそんな感じだったし」


「なんだ、そうなのか」


「うん。一回借りて、家で頑張って読んでみたんだけど……中々読み進まなくて。それで返却日がきちゃって、昼休みにいったん図書館に返したら、放課後別の人に借りられちゃってて。それで暫く間が空いて……どうにかこうにか、読み終えたって感じかな」


「それ、月本かもな。借りた奴」


 伊勢や月本の他にあの本を借りる小学生がいたとは思えない。俺は、月本の前に伊勢が『未雷』を読み進める努力をしていた、という事実を結構味わい深く飲み込んだ。


「あっ、そう?」


「あいつは、子供の頃から滅茶苦茶読むの速かったからなあ……月曜には返却されてただろ?」


「うん。それでもう一度借り直して、急いで読み進め……て……」


「その間に、俺と月本が仲良くなったってわけか」


「そんな感じだったかな。……うん。そんな感じだった。週明けの教室で、まっちゃんとつきもんが二人で楽しそうに話してて……」


「なんか面白い巡り合わせというか――まさか、今になって当時の『未雷』の貸し出し事情が判明するとはね」


「ね-!」


 俺はドライヤーをオフにして、中敷きの乾燥具合を確かめた。まあ、少し履くくらいなら靴下に染みはしないだろう、我慢できるだろうという具合だ。ドライヤーをコンセントから抜いて、浴室の元あった場所に戻し、リビングのソファで寛ぐ。目の前のテーブルにコーラを入れたコップを置いて、伊勢も隣に座った。何となくテレビを付けたら天気予報をやっている。


「月本、今はITエンジニアだとよ。本に全然関係ない仕事」


「あー。……理系?」


「なんか、文系だったんだけど合う仕事なさそうだからITエンジニアになったとか言ってたぞ」


「本はまだ読んでるの?」


「滅茶苦茶読んでるらしい。けど、そういう好きなことと関連する仕事には興味が無くて、取りあえず本を読み続けるために金を稼げればそれで良いって感じらしい。なんか、強烈だよな」


「うん。それにしても、北海道でITエンジニアで、よく見つからなかったよね」


「いや。それが勤め先が東京なんだよ。まあそれでもデータ調査で引っかからなかったのは謎だが」


「あー」


「今は帰省して北海道に来てたんだってさ」


「あー」


「ほんと、凄い偶然だ」


「あー……。近い?」


「近い近い。秋葉原。……?」渋谷から秋葉原って電車で何分だっけ。東京的なスケールの遠近ではやや遠い気がする。とはいえ、東京から北海道までの物理的な距離を考えれば、「まあ、近い。近い近い」


「いやっ、私めっちゃ遅かったじゃん!」


 と、隣に座った伊勢がいきなり笑いながら言った。


「なにが?」


「読むのが。『未雷』」


 そう言ったきり笑う口元から上を手で擦って、言葉が続く気配が無い。心底小説を読むのが遅かったことを後悔していて、とにかくその気持ちを吐き出したという感じだった。


 流しっぱなしのテレビでは、雨マークの模型を持った女性が可愛らしい声で大騒ぎしている。


「明後日の昼なら空いてるらしい。行けるよな?」


「……ん? あ、つきもん? どこに?」


「札幌。雨降ってるらしいし、こっから車で行っちゃった方が良いよな」


「松尾はすすきのの部屋からそのままいけるじゃない」


「ああ。そうなんだけど……まあ、そうだな」


 今の今まで忘れていたが、三日後――つまり伊勢と月本を引き合わせた翌日の早朝に俺は東京へ帰らなければならない。それまで、出来ることなら北広島で過ごしていたい、という気分があった。明後日はけいちゃんとも予定を付けているし、実は札幌より北広島からの方が電車で空港までは近いのである。それを、伊勢に伝えていない。というか、どう伝えれば良いのか分からない。俺は完全に彼女の家に泊めて貰うつもりでいた。


 いつの間にやら、テレビの右上の時刻が北方先生の家へ行く時間になっている。


 *


 大粒の雨を蹴散らしながら、伊勢の運転する軽はすんなりと北方先生宅前に停まった。伊勢が傘を取るために後部座席に体を捻らせたとき、図らずも、彼女の胸元のラインがあまりにもそのままにデンと目の前に出てきた。


 咳払いをして、彼女の手から傘を取り上げる。


「エビ。ちょっと待て」


「え?」


 幾ら傘を持っているからと言って、この豪雨の中では車から出た瞬間に濡れてしまう。先に車を出て、濡れそぼりながらさっさと傘を開いて、反対に回り運転席の扉を開いた。歩きにくい靴を履いているので、一応伊勢の手を取って傘の中に引き込んでやる。


「優しいじゃあんっ」


「俺はまだしも、お前が濡れたらコトだからな。高そうな服着てるし」


 そのまま、若干右肩を濡らしながら玄関口へ続くコンクリの階段を上がった。伊勢の体温を半身に感じながらも、この階段、冬はキツいだろうなあとどうでも良いことを考える。何しろ北海道の降雪だとこの手の階段はほぼ四十五度の傾斜になるのだ。雪を掻いたとしても底にはびっしりと氷がはってしまい、そうなるとつるはしでたたき壊すしかないのだが、コンクリを壊さないように氷を割る力加減は難しい。だが、そういう事情は東京に住まう俺には全く関係の無いことだった。

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