第49話 「お前――月本、か?」
評価をいただきありがとうございます。
勢い込んでガラス扉の出入り口から外に抜けると、カッと熱したような暑気の中に汗水を浮かべて歩道を渡る通行人が何人もいる。
手で庇を作って通行人の顔を一人一人確認した。……が、見知った少女の面影を湛えた人はいない――か。
くるみちゃんに古本屋の情報を教えた女性は、『未雷』を昔読んだことがあるという。『未雷』の作者には非常に申し訳が無いのだが、この世界に、この北海道にあんなニッチな児童書を読んでいる人間がそういるはずがない。
それに、四キロ先の古本屋の在庫情報がその場でパッと出るほどの本の虫と言えば、俺の中では――月本しかいない。
月本が北海道に、札幌に、今この近くにいるんだ。
……いや、落ち着け、落ち着け。
熱気に晒されて、早くも浮かんだ汗を指で払いながら店内に戻った。こんな運命的な巡り合わせを信じるなんて俺らしくない。
「どうしたの? おっさん」と、出入り口の前には俺を追ってきたくるみちゃんが不思議そうな顔で見つめている。
「……ひょっとすると古い知り合いかもって思ったんだ、が。まさかこんなところでばったり会うわけがないよな……」
「さっきの人、おっさんの知り合いだったのお!?」目を丸くしたくるみちゃんが、慌てたように俺の腕を店内の方へ引っ張る。「そっちじゃなくて、こっち! 地下の方だよっ!」
「あっ、そうか」
この書店は一階の通りに面した出入り口の他に、地下二階からそのまま地下街に続く出入り口があるんだった。この暑い時期に好き好んで外を歩く人間はそういない。
一人分の幅しかないエスカレーターを走り降りると、後ろの方から「待って〜待って〜」と、くるみちゃんの悲しげな声が追ってくる。振り返ると、一生懸命一段飛ばしで降りてきているじゃないか。危険だ。
「くるみちゃんは、もう北広島に帰りな!」
走りながら声を掛けたが、
「やだあっ!」と、有無も言わせぬ迫力で否定してくる。「自由研究……!」
「ああっ。全く子供ってのは――」
俺は振り返って、くるみちゃんの手を掴んでやった。傍から見ればかなり問題がある光景な気がするが、後ろで怪我でもされたら敵わないしな。それから地下の出入り口までは少し歩幅を狭めて、しかし最大限急ぎながらも移動したのだった。
*
地下街への通路で、くるみちゃんが当該の人物を指差す。
「あの人だよ、あの人」
「……」
ひとまず後ろから観察してみた限り、目の前の女性は他の通行人と変わらない、立派な札幌の女性という感じではある。大地が海で絶たれているからか東京の女性と札幌の女性のファッションセンスはどことなく違っていて、何となくだけどこちらの女性は重ね着を重要視していて、少しだけエレガントな気がする。
そういう意味で、立派な札幌の女性。
ボーダー柄のシャツに、透け感のある黒いシャツ。下はフレアスカート。手にはさっきの書店の紙袋が提げられていて、購入したのは一冊だけじゃないらしい。
体型が分かりにくい洋装だ。この女性が、あの月本なのか。喉に絡まった唾液をのみ流して、
「あの、すいません」と、声を掛けた。
「はい?」
振り返った女性と眼が合って、お互いの時が止まる。さほど驚いた様子でもない、しかし、黒い渦を思わせる彼女の真っ黒な瞳はしかと俺の顔を捉えて、一瞬奥が煌めいた様に見えた。
俺の視野は、黒目の引力から段々と自由になっていった。つんととがった鼻に、ぐねぐねと癖のついた前髪、膨れた下唇。色黒の肌に、寸胴のような体型……こう要素を数え上げるとどう考えても美人ではない筈なのに、どうしてか俺の目に写る彼女は輝いて見えるのである。
「お前――月本、か?」
「――まっちゃん?」
北広島で伊勢と再開したあの日から動き出した、あの頃の物語が今、俺たちの間で動きを止めたようだった。




