第48話 「……『未雷』か」
隣に立っていた人間は俺より一回り小さくて――ポニーテールをひっつめた髪の毛は脳天がくるりと正円を描いていて――大ぶりなリボンを付けている――少女だった。
「おっ――どろいたあ。くるみちゃんじゃないか」
「あっ、おっさん」
くるみちゃん。
緑葉小学校で教鞭を執る伊勢の悩みの種であり、クラスの問題児。北広島ではスポーティな自転車であちこちを移動していて、どうもこの夏は俺を自由研究の対象にしている……らしいが。
慌てて周囲を見回した。保護者らしき人間の視線は無い。
「くるみちゃん、まさか一人じゃないよな?」
「くるみ、一人だよ」
「……小学生が一人で札幌に来るなんて……」
「今日はパパと遊んだ帰りだもん」
「あ、そう」
北広島から、わざわざ札幌へ父親に会いに来た――くるみちゃんの家庭事情が垣間見えるな。あんまり興味は無いけど。
「おっさんはなんで札幌にいるの?」
「なんでって、そもそも俺はこっちに住んでいるんだよ」
「えー!? エビセンと暮らしてるんじゃなかったの!?」
くるみちゃんは、大慌てて背負っていたリュックを床に置いた。それからノートを取り出して何やら書き付けている。
「まさか、まだ俺のことを研究しているのか?」
苦笑いを浮かべて尋ねると、こちらを見上げないまま「うん」と頷く。「だって、エビセンの家張ってたらよく見るし。結構データも集まってきてるんだよね」
マジかよ。
俺が最後にくるみちゃんの追跡を認知したのは前回アイスを奢ったまで。それからもデータを集めていたとなると、俺の知らないところでくるみちゃんの監視があったことになる。……夏休みの小学生、恐るべし。
「データって、具体的には……」
「えーっとねえ。来ている服がアロハシャツ三着くらいしかないこととか、くしゃみするときに二、三歩助走をこととか、車の運転ができないこととか」
ノートのページをめくりながら、楽しそうにそんなことを言う。全て事実だが、こんなことを調べて本人は一体何が楽しいんだろうか。
この子がプライバシーという概念を知るのは、一体何年後のことなのだろう。
「……あ、あとはきちんとした仕事をしていないこととか?」
「してるよっ! そもそも、俺はきちんと仕事をするためにエビ……エビセンの家に行っているんだからな」
「えー!? じゃあ、おっさんってエビセンの恋人じゃないの!?」
「違う。……取りあえず、そういうこと大声で言わないで貰えるかな」
「それじゃあ、自由研究書き直さないとじゃん! おっさんがエビセンの恋人じゃないなら、なんでエビセンの家に通ってるの!? ねえ! なんで!?」
忘れてた。小学生っていう生き物はこちらが黙れと言ったらさらにやかましくなるんだった。こうも大声で俺たちの動向をまくし立てられては……周囲の視線を感じる。
困りあぐねて辺りを見回すと、丁度良く書店内のブックカフェがあった。
「くるみちゃん。アイス食べないか? アイス。好きだろ?」
何時かのように分かりやすく物で釣ろうとしたらくるみちゃんは、
「アイス!? 食べる-!」と、我先にカフェのカウンターに走って行った。ちょろすぎる。
……ふう。
日頃からこんなのを相手にしているとは、伊勢が体力自慢なのも納得だな。
*
取りあえず、メロンソーダのクリームが残っている内はくるみちゃんの暴走にストップが掛かっているこの状況。机の下でぱたぱたと足を上げ下げする彼女の足が、導火線のように俺を焦らせる。
まさか、俺とてむざむざ伊勢とのことを自由研究として発表されるわけにはいかない。……なんとか、自由研究のテーマを変えさせなければ。
「くるみちゃんさ、もっと他に興味のあるテーマとか無いわけ? おっさん一人を調べ上げたって将来何の役にも立たないと思うんだけど」
「そんなこと言われても、もう学校始まるの一週間後じゃん。今更変えたって何もできないもん」
「一週間後……? そうか」
そういえばもうそんな時期か。同窓生捜しにうつつを抜かしている間に八月の下旬。
九月が近づいたといってもまだ残暑が厳しく、北海道中の少年少女が通学を再開し、伊勢の仕事が本格的に再会し、俺は東京に帰る――そんな時期が、今やもう目前まで迫っているのだった。
「でも、おっさんの言いたいことも分かるんだ。この間ノートに書いたおっさん情報を読み返してたら、なんか、自分がストーカーみたいだなっ……てなった」
「……みたい、というか、立派なストーカーなんだけどね」
「今日も、代わりになるテーマが無いかなって探してて、本屋に来たの。……あ、そういえば『未雷』読んだよ」
「おお、そうか。どうだった?」
「あんまり、ちょっとしか読めなかった」
「面白くなかったか?」
「じゃなくて、読めない漢字が多いから。時間が掛かっちゃうんだよね。読書感想文は多分遅れるけど、まあいいやって。どうせ小学生に宿題やる義務なんてないし」
「そうか」
いや、あると思うが……。まあ、いいか。
「そういえば、売ってるのかな?」
「ん?」
「ここの本屋おっきいし、売ってるかな? って」
「ああ。『未雷』が、か」子供はとにかく主語を抜かすんで喋りにくいな。「どうかなあ。あれも結構古い本だし、ことに大版の児童書ってのはそうそう置いてるとこなんて無いと思うけど」
だが、言われてみれば無いことも無いような気がしてくる。案外俺の知らないところで重版になっていたりするかも。流石に単行本にはなっていないと思うけど。
「……『未雷』か」
そんなことを考えていると、俺も久しぶりに「未雷」を読み返したくなってきた。丁度飛行機で読む小説を探していたところだ。
「ちょっと探してみようか。ひょっとすると埃被った在庫があるかも知れん」
「おっさん、暇なの? 私がこれ食べるまでちょっと待ってよ」
「――子供ってのは、勝手で良いねえ。はあ……」
*
残り少ない札幌での時間だというのに、なりゆきでくるみちゃんと書店を放浪することになった。
とはいえ北方先生への正式な報告会は明日に控えているし、月刊ヨミの面々とは送迎会が明後日の夜。けいちゃんに挨拶しに行くのもそれ以降のスケジュールだ。それ以外には、贔屓のラーメン屋に行ったり、北広島の土地を眺めて回ったりと個人的にやりたいことが目白押しになっている。
急に決まったフライトの前に、予定は色々詰まっているんだ。
しかし、タイミング的に今日という日だけはどういうわけか暇で暇で仕方ないのである。まあ、誉美にチケットを渡されたのが今日の出来事だから当たり前なんだが。
……伊勢にも、伝えないとな……。
「おっさーん」
「ん……」
一階で雑誌の表紙を眺めている俺の元に、店員に聞きに行かせていたくるみちゃんが戻ってきた。
「あるって!」
「ええっ!?」
殆ど期待していなかったのに、まさかあるとは……!
「何階? 小説? 児童書? というか、書棚に出てんのか?」
「えーとね……」
くるみちゃんはノートを捲ると、眉をひん曲げて読み始めた。
「さ、さっぽろし」
「札幌市?」
「きた二十じょう通り、ろく――」と、そこまで読んでまた別の方向に眉をひん曲げる。
「……何を読んでいるんだ。ちょっと見せてみろ」
「あっ!」
くるみちゃんの手からノートをひょいと取り上げて見ると、そこには非常に綺麗な文字で「札幌市北二十条通り六丁目の古本屋に在庫があるはずです」と書いてあるではないか。……何故、全く別の、しかも四キロ近く離れている書店の在庫情報が書かれているんだろう。今時の書店員はそれほどサービスが良いのか?
眉をひん曲げて考え込んでいたら、「私のノート!!」と、今度はくるみちゃんが俺の手から奪い返す。
「汚い手で触んないでよねっ。そういうの、プライバシーの侵害って言うんですけど!」
「お、おお」まさかくるみちゃんがプライバシーの概念を知っているとは。「それより、書店員さんがわざわざ書いてくれたのかよ。ちゃんとお礼は言ったか?」
「違うもん。店員さんに聞いたらそんな古い本無いって言ってたもん」
「……? じゃあ、何これ」
「あのね。隣で本を買ってたお姉さんが、その本なら私知ってるよって声かけてきて、ノートに書いてくれたの。昔読んだことがあるから、前に見かけたとき憶えてたんだって」




