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第40話 「……浮かない顔だな」

 体がざわついてソファから起き出すと、まだ深夜の三時だった。あれだけ興奮させておいておやすみなさい、って言うのも伊勢は男という生き物を理解していないよな。


 虚しかろうが伊勢の家だろうが構うもんか。ちょっくらトイレで性欲を吐き出すか――と、その前に寝ている伊勢の乳でも揉んでやろうと目を向けたら、サイドテーブルの間接照明がぬらぬらと彼女の寝顔を濡らしていた。


 そのあどけなさに、邪心を忘れてただ見つめている俺がいる。


 間接照明を消そうとサイドテーブルに目を落とすと、小さな写真立てが何枚か飾られていた。


 一枚は野っ原で同じ色の帽子を被った子供達に戯れられている伊勢。遠足か何かのワンショットだろうか。


 もう一枚は一転して雪景色。大きな雪像の前で整列している児童達。その横に笑顔の伊勢が立っている。これは大通りでやってる札幌雪まつりかな。そういえば、俺も小学校の頃は授業で見物に行ったっけ。児童の顔ぶれはさっきの写真と違う。もしかしたら、既に卒業した生徒たちかも。


 嘘ではないと感じた。


 彼女が北広島で過ごしたこれまでの年月に、白々しさや虚仮はない。何より彼女の笑顔は「本当」じゃないか。


 手に取った三枚目には、児童が一人しか写っていなかった。場所はどこかの家の庭で、グリルを囲む大人が数人。


 いや……。これは子供の頃の伊勢か。とすると、このお婆さんが。


 ――本当は、本当はおばあちゃんのことを……


 という言葉の続きは容易に想像が付く。


 過去は変わらない。伊勢という一人の女は、変わらない過去と変わってしまった未来の狭間に生きているようだ。……って、それは俺もじゃないか。人類全員がそうじゃないか。


 幼い頃の伊勢の顔を見ていたら、何故か鼻の奥で雨の匂いが漂った。


 *


「おまちどおさん。ほら、照会の結果」


 数日後、誉美はいつもの如くお構いなしに部屋の扉を開いた。ペラ一の紙を手で振りながら、扉を開きっぱなしにしてリビングに戻って行く。


「早くないですか?」


 誉美の後を追って、L字のソファで膝をつき合わせるように座った。


「東京と札幌じゃ依頼量も違うだろうが。今じゃネットのやり取りでパッパと結果出るしな。昔は一々電話で問い合わせてたもんだよ」


「それは確かに。にしても、昔の伝手がよく残ってましたね」


「この街には、俺に足を向けて眠れない社長さんが何人かいるんだよ。お前は俺たちのことちゃらんぽらんとか言うけど、ちゃらんぽらんなりにしっかりちゃらんぽらんしていたら、ちょっとしたことが出来るようになるもんだ。だはは」


「……俺、そんなこと言いましたっけ? まあ、そう思ってますけど」


 軽口を返すと、「ばかたれ、この」とおにぎりみたいな拳骨で軽く叩いてきた。俺の痛がるフリに満足したのか、机に紙を置いて、代わりに俺の缶ピースから一本取りだして火を付けた。


 さて、結果は……と。


 照会した人数が四名で、内三名がヒット。一名は空振り。基本的に氏名と生年月日からの調査結果なので、リストには四名以上の行がある。同姓同名か、姓を変えた可能性がある人間を含んでいるからだろう。現住所が記載されている行もあれば、勤務先が記載されている行もある。


 確か照会料で支払ったのは四十万円くらいだが、明らかに料金以上の行き届いた調査結果だ。


「どうだ。これで満足か」


「伝手ってのも馬鹿にならないもんですね」


「まあな。便利なもんだよ」と、缶ピースの蓋をひっくり返してそこに灰を落とした。「取りあえず、良かったじゃないか。平和そうで」


「確かに」


「……浮かない顔だな」


「一名空振りしているってのが、ちょっと」


 誉美が首の横皺を伸ばして俺の手元をのぞき込んでくる。


「月本、瞳。……姓を変えているとしたら厄介な名前だな」


「瞳って名前の女はザラにいますからねえ」乾いた頭皮を掻き毟りながら、俺もタバコを一本取って吸い始める。「月本が行方不明か、結婚しているか……それか……」


 思わず暗い想像をしたが、


「心配しなくても、今時偽名で働ける水商売なんてそうそうねえぞ」と、誉美が立ちこめた暗いものを吹き飛ばした。「――ところで、おい。仲介手数料は手加減しねえからな。これは仕事だ」


 俺は顔を顰めて机に紙を放った。


「分かってますよ、そんなこと」


 *


 案の定、この段になって取り分けた着手金の殆どが無くなってしまった。


 勿論、自分の財布に入れて持ち歩いていた金ってわけじゃないけど、無きゃ無いでどうも腰の辺りがふわふわとして落ち着かないんだよな。


 朝の十時頃、落ち着かない足取りで居候中のマンションを出ると、目の前の車道に一台のセダンが乗り付けている。後部座席には既に人の影が二人分。


 助手席に乗り込んだら、慣れない運転席に収まる伊勢と横目が一瞬合って、すぐ逸れた。気にせずシートベルトを締める。


「こんなことまで協力して貰って悪いな、委員長」


 バックミラー越しに車の所有者である委員長に声を掛ける。


「別に良いわよ。ドライブなんて久しぶりだしね」と、委員長が喋っている間に早速伊勢が車道に滑り出させる。なんとなく、いつもの軽よりは気品のある尻心地だ。「何より私が運転しないってのは上等だわ。行きはよろしくね、エビさん」


「あ、あんまり声かけないで。集中してるから」


「エビちゃんも車持っていた気がするんだけど、何でわざわざ委員長の車運転してんだろ」と、不思議そうに言うのは俺の後ろの席に座るけいちゃん。「この車、なんか花火みたいな匂いがするなあ」


「ごめーん、多分それタバコの匂いだ。臭かったら窓開けていいから」


「いや、別に気にしないからいいよ……で、何でこの車?」


「軽の馬力じゃ高速は危ないからな。この中で伊勢以外に車出せるの委員長くらいだし」


 ……そういうわけで、この面子である。


 同窓生行方調査の中核である俺、それと同窓会幹事でもある伊勢と、その相方のけいちゃん。


 委員長に関しては特別選定の理由はない気がするんだが、この間四人で飲んだ(?)流れがあるし、強力な情報提供者でもある、言わば株主だ。今更ハブにするってのも気が引けるし、まあ、レンタカー借りるよりは安く済むから良いか。


「それで、小樽? 行き先だけ言われて取りあえず出して来ちゃったけど。エビさん、道分かるよね」


「うん。あんまり高速使わないけど、カーナビでなんとか」


「データ調査で突き止めた元同窓生の一人の住所がそこなんだ。本名、小畑隆介と生年月日が一致している人間は他に数人いるみたいだけど、北海道に住んでいる奴は小樽の小畑だけ」


「ああ、小畑君なんだ。そういえば彼も連絡付かなかったわね。懐かしい……」


「小畑のこと、憶えてるか?」


 正直、これから会いに行く男と俺はさほど仲が良かったわけじゃない。改めて考えると、この面子で最も交友関係が狭かったのは俺か。クラスの中心だったけいちゃんとは親友だったけど、だからと言って他の友人と遊んでいたわけじゃないんだよな。


「ホワイトデーに、結構気の利いたクッキーの詰め合わせくれたことは憶えてるわね」


「なんだ、その局所的な記憶は」


「あら、贈り物を貰ったり渡したことって結構憶えているものでしょう。……まっちゃんがホワイトデー返してくれなかったことも、勿論憶えているわよ」


「……あ、えっと。そうだっけ……?」


 全く予想外の流れで、俺の額から冷や汗が垂れる。


「そういえば俺も返してないわ」と、けいちゃんは特に気負いもせず告白した。「というか委員長のくれたチョコって、クラス全員に配ってた、手作りのあれだべ? 毎年楽しみにしてたわ。また食べてみたいな」


 その言葉ですっかり在りし日の二月十四日を思い出すことが出来た。


 そうだそうだ。委員長は毎年のバレンタインに、クラス全員、男子にも女子にも手作りのチョコを渡して回ってたんだっけ。彼女がそんな感じで配るからか、あのクラスでは結構チョコとクッキーのやり取りが盛んだった気がする。


「まさしく少女時代の委員長って感じのエピソードだな……。本命、いなかったの?」


「いたわよ」と、大人になった委員長はあっさり言ってみせる。「小三辺りからは本命に渡すのが恥ずかしくて、大量生産して配ってたわけ。逆に一個だけ作るってのも大変だったしね。あ、エビさん、そこ曲がった方が多分早い」


「え? う、うん」


 突然言われた伊勢は、ハンドルに顔を近づけて狭い交差点をじりじりと曲がる。


「……そういえば、エビさん。あなた、まっちゃんに本命渡してなかったっけ?」


 突如、車体が上にドカンと跳ねた。

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