第38話 「今夜は、一緒に伊勢の家に行く」
ビアガーデンで一杯引っかけてからは、近頃できたココノススキノという新しいランドマークに行った。札幌にしては東京チックなエンタメに溢れる複合商業施設で、様々な飲食店、雑貨店、服飾店を始めゲームセンターに映画館と中々豪勢な場所だ。
勿論、俺の目当ては映画館。特に話をしなくてもゆっくり時間を過ごせるし、中だるみの時間を埋めるには丁度良いだろう。……と、思ったのだが――
「ねえ、これほんとに観る……?」
伊勢が上映中のホラー映画のポスターの前で苦そうな顔をこちらに向けた。
元々の予定では無難な海外のエンタメ映画が上映していた筈なんだが、伊勢の思いつきに振り回されたんで思いっきり時間がずれてしまった。どういう因果か、今すぐ観られるのはこのジャンプスケア満載(な気がする)ホラー映画一本のみ。
腕を組んで逡巡した後、意を決して口を開いた。
「当然だろ。行くぞ、ほら」
*
ビアガーデンの陽気もどこへやら。酷く疲れて映画館を出て、フロアのエスカレーターを降る。
「なんか疲れちゃった」
「あの手の映画は、常に音で驚かせようとしてくるからな。好き好んで劇場に行く連中は須く馬鹿に違いない」
エスカレーターの一段下から俺を見上げる伊勢の目が、細く陰険なものになった。
「……この馬鹿! じゃ、なんでわざわざ入ったの!?」
「それより、確かここにカジノ遊びが出来るバーがあるんだよなあ」
「また強引に話をはぐらかして」肩を落として溜息を吐くと、目のラインが人をムカつかせるような曲線に戻っている。「……カジノ遊びぃ? 賭け事じゃないでしょうね」
「違うよ。多分、ゲーセンのメダルゲームみたいなもんじゃないかな。すすきのらしくて良いじゃん」
「……小学校の先生がカジノってどうなんだろ。誰かに見つかって不良先生のレッテルなんか貼られたら……」
エスカレーターを降りて、もじもじと立ち竦む伊勢の腕を掴む。札幌は第二のホームだとか豪語しておきながら、すすきのという土地には腰が引けているらしい。
「お前はキャラの割にそういう真面目なところで損してるんだよ。全く……。余計なこと考えてないで、付いてこいっての」
「それ褒めてんの?」と言いつつも、軽い足取りで、表情は眉を上げて大人しく付いてきた。「分かったから落ち着きなって。もー」
*
総じて、なんだかんだで楽しい一日だった気がする。
伊勢の思いつきに身を委ねたり、彼女の行かなそうな場所へは俺が率先して……。歩いたり座ったり、喋ったり遊んだり、踏んだり蹴ったり。まあ、俺と伊勢なんて一緒に過ごしていれば大概そんなもんだけど。
夜も十時を過ぎて、ぼちぼちという時間になってきた。当然のように駅の方に向かおうとしたら、伊勢は俺の意思に反するがごとく行く先をくねくねと変えてしまう。その先に目的地は無いようで、ひたすらに駅の入り口を見かければブロックを曲がることを繰り返しているらしい。
「おい。お前一体何時まで遊び歩くつもりなんだよ。いい加減こっちはネタ切れだぞ」
「一々何処かの店に行かなくたって、こうして歩いてるだけで楽しいんだよね」
「はあ」
「大学の頃は、飲みに行ってもこんな時間までは長居出来なかったし」
「……そうか」
伊勢はつい最近まで祖母の介護で殆ど自由な時間が無かったという。ヤングケアラーというやつだろう。
とはいえ、深夜に女性を一人で帰らせるというのも気が引ける。
「夜の散歩はまた今度付き合ってやるから、今日はもう帰った方が良いよ。な?」
「…………」
「エビ?」肩を掴んでこちらに顔を向けると、悲惨な笑顔を浮かべた彼女だった。泣いてはいないが、様々な諦めきれないことに諦めを付けたような顔。「どうした。急に、一体」
「別に。松尾の言う『また今度』が何時になるのかなって。仕事始めたら一ヶ月なんてすぐでしょ。夏が終わったら東京に帰るんでしょ」
「え……うん」
「それで、こんな風に遊べる日は次いつになるわけ。東京帰ったらそうそうこっちには戻らないでしょ。同窓会とか? それだって、今年にできるかどうかも分からないのに」
俺は眉毛の端を掻いた。
正直、同窓会に参加するかどうかは分からない。
そりゃ人を集める手前参加前提みたいな態度でいるけど、東京から北海道にとなると交通費も馬鹿にならないし、それ以上に東京では忙しい生活が俺を待っている筈だ。
……伊勢の言葉でようやく気がついた。
俺たちに残された時間って、あんまり無いのか。
「――分かったから、ほら。駅に行くぞ」
腕を引っ張ると、散歩に帰りを嫌がる犬のように腰を落として突っ張られる。
「帰りたくないっ!」
「馬鹿。今日帰らないで一体どうすんだ。まさか俺の居候先に泊まるつもりか? 迷惑だから普通に止めろ。前回だってヒヤヒヤしたっていうのに」
「……」
無言で、俺の腕を伸ばす伊勢の必死さに、星の見えない夜空を仰いで――
「だから、お前の部屋で良いだろもう」と、観念して言った。
「え?」
「今夜は、一緒に伊勢の家に行く」
冷静に考えれば論理が捻れている気がするが、何故かこの場ではこれが最適解な気がする。居候先に女を連れ込むこともなく、ホテルに泊まって作り物のような雰囲気に侵されることもなく、ただ、居慣れた伊勢の部屋に二人で一晩を過ごす。
「……松尾は良いの?」
「まあ今から北広島に行くってのも疲れるけど、明日忙しいわけじゃないから」
変なことをしないまでも、いつもの朝昼みたいにNetflixを観る、というのも良いんじゃないか。どうせ今日の疲れでは淫靡な雰囲気もなく疲れて眠るのがオチだろうしな。
*
新千歳空港行きの電車を降りて北広島駅。既に人気も無くなった駅構内から伊勢の家に近い出入り口を出た。
田舎の昼と夜は雰囲気がガラリと変わるから面白いもんだ。街の明かりは極端に消え失せているように見えるし、昼にも増して人気の気配が無いのは車の通りが少ないからだろう。
「本当に北広島来ちゃったじゃん」
「だって、エビが寂しがるから……」
「私がいつ寂しがったってえ? オイ」
「ホームに戻ったらいきなり威勢が良いなお前。性根が田舎モンだよ」
そんな軽口を言い合いながらで伊勢の家のオートロックを抜けて、狭い玄関に上がり込んで、扉を閉める。
先に入った伊勢がローファーの右を蹴り飛ばすように脱いで、廊下と玄関の敷居を跨いだ――そこで、変な格好のままピタリと止まる。そんな彼女が目の前にいるんで、俺は靴を履いたまま狭い玄関で立ち往生してしまった。
「…………」
やっぱり、帰った方が良いんだろうか。いや、この時間じゃもう――
そう考えたところで、片足だけ靴を脱いだ伊勢が、ゆらりと振り向いて俺に寄りかかってきた。脱いだ方の足を腿の裏に絡めてくるので身動きもできず、背中がどしんと扉に当たる。
肌よりも熱い感触が、唇に触れる。人の体内、臓器の温かさだ。それはキスだった。俺たちはキスをしている。
伊勢からキスをしてきた――その事実が俺の中の何かを捻じ切ったのだろうか。
月本のことや、疲れた体のことなんかを全て放擲して俺は、彼女の口腔内の体温を啜ろうと一生懸命になり始める。舌先が触れ合うと、俄然彼女の抱きしめる力が強くなった。
夜の北広島なんて、視界が開けている割にどこまで行っても歩いているのは俺たちだけだった。さっきまでは平静に軽口を叩き合っていた。家の扉が閉まったその瞬間、彼女の頑強な理性が爆ぜたのか。こんなに無防備に醜態を晒す本性が彼女の中にあったのか。
根が真面目だった分、太く巨大なものが地面から引き抜かれたようだ。
暫くそうしていた。肌に触れる彼女の顎には、垂れた唾液が粘り着いていた。




