第36話 「ね、夏が終わったらどうする?」
「……遊ぶ? 遊ぶって、何……?」
快諾してから、「遊ぶ」という言葉の聞き慣れなさに戸惑いが渦巻く。こちとら成人してからは大抵「飲む」くらいの付き合いしかしたことがない。コーンの縁に、溶け始めたソフトがつるりと迫ってきたので慌てて啜った。
「文字通り、遊ぶ、だよ。何だと言われてもこれ以上説明のしようがないし」
「だってお前、その日は研修で、交流会で、……夜から?」
「研修なんて言っても、今回は昼から始まって終わりが三時とか四時だし。交流会には行かないでそのまま松尾と遊びに行くってこと」
――交流会、業界の交流ではなく、俺との時間を取る。
心臓のあたりが喜んでふわりと軽くなったが、頭がその感情を却下した。
……なんか、変なこと企んでるんじゃないだろうな。
猜疑心が顔に出たのだろうか、伊勢はソフトの消えたコーンをくるくる回しながら喋り始めた。
「私たち、再会してから碌な用事で出かけたりしてないでしょ。二人で純粋な目的で飲んだのも最初の夜っきりだしさ」
「あれ、そうだっけ?」思い返してみると、伊勢の家で一緒に飯を食べたり映画を見たりはしているけど、確かに出歩いて遊んだことなんて無い、かも。喫茶店に行くのも全部仕事絡みだし、「そういえば、結局アウトレットにも行かないままだったな。そうか……」
「そうそう。中間報告も済んで一区切りついたし。一息つける、とか」
「あー……。じゃあ、酒はナシ?」
「行ってもいいけど、いきなりはイヤ。ちゃんと素面で歩いて楽しいところ」
正直、今の時点でそんな場所は全然思い浮かばない。
「分かった。どっか行きたいところ考えとけよ」
「ん。そっちもね」
*
すすきのに戻って、風呂に入りながら伊勢との行き先について色々と思考を巡らせてみた。
研修会終わるのが四時頃ってことだから、開始は夕方か。出会ってすぐに夕飯を食べるにはまだ早くて、何かをするには短すぎる時間がいきなり発生する。適当に大通公園をぶらつくのが良いかな。……って、そういえば今の時期はビアガーデンで埋まってるんだっけ。
そこまで考えて、げんなりと顔の半分を湯に沈めた。
――いきなり酒はなし、か。
プライベートなコミュニケーションの殆どを酒の席で熟成させてきた俺である。飲んで滅茶苦茶楽しいというわけではないけど、それでも時間が経つのは早く感じるし、間が持つというか。
そこに来て素面で、それも女性と一対一でということになると中々難しいもんだ。大体札幌なんて素面で歩いて楽しい場所なんてそうそう無いし、特にこの時期は屋外の熱暑がキツい。
何よりも伊勢がどういう趣向を好むのか。いつもは頼れるヤフー知恵袋だって、こと彼女個人のことに関しちゃ無力だろうし。
……俺って、あいつのこと何も知らないんだなあ。
*
結局、伊勢との用事にあれこれ苛まれたまま仕事を進める気にもならず、当日になってしまった。
約束をした日から俺は、割と入念に(主にインターネットで)情報を集めている。そして分かったのだが、こういったイベントは世間的にはデートということになるらしい。
「おつかれ、松尾」
「おおう」
札幌駅南口、前に彼女が一人で酒を飲んでいた大理石のベンチで待っていたら、いつもと変わらないテンションの伊勢が姿を現した。着飾ってはいるがフォーマル寄りで、何となく保護者参観の日の女教師を思わせる出で立ち。化粧はいつもよりちょっと濃いかな。
「外出たら暑いわー」と、ブラウスの襟で鎖骨を仰ぎながら呻いた。「中にいても良かったのに。待った?」
「いや。さっき着たとこ。研修会はどうだった?」
「恙なく終わりましたよ。今頃、交流会の会場に移動してるところじゃないかな」
「……じゃ、俺たちも行くか」
立ち上がって歩き出すと、伊勢は例の目元に皺を寄せるムカつく笑い方をして着いてきた。
「あ。ちゃんと行くとこ考えてる。よしよし」
こいつは俺を何だと思ってるんだ。
「取りあえず大通りの方の喫茶店で、飯の時間までゆっくりしようかな、と。お前も疲れてるだろ」
「夕食、予約取ってるの?」
「取ってないけど、近くの店は大体チェックしておいた。待つかもしれないけど別に良いよな? エビが食べたいところ選べよ」
と、スマホで食べログを起動しようとしていたら伊勢が俺から離れて変な方向に歩いて行ってしまう。
「喫茶店でも良いけど、ずっと座ってたから逆にちょっと歩きたいかな。テレビ塔の方行かない? 久しぶりに登ってみたいんだよね」
「お、おお。うん」
場当たり的で足場のフラついていたプランが一発で瓦解した。……まあいいか。
*
約三時間お勉強をしていたという伊勢の足取りは軽かった。この暑さの中だというのに、汗も垂らさず素早い歩行で建物の陰から陰を大通りの方へ縫っていくではないか。
普段は殆ど車の移動だったので気付かなかったが、意外と健脚なんだな。
入場料金を支払ってテレビ塔の展望台に到着する頃には、俺は制汗シートを二枚消費している。今は夏のシーズンまっただ中の筈だが、全面ガラス張りのここが意外と空いているのは、都民として喜ぶべきなのか、元道民として悲しむべきなのかよく分からない。
「お前っ、元気だなあ……」
展望窓からは一キロと五百メートルに渡る大通公園を一望できる。景観を背後にして、思わず手すりに腰掛けてしまった。
「なんでそっちはヘロヘロなのさ。東京じゃ徒歩移動ばかりのくせに」
「こっちじゃ殆ど車移動だし、さっすがに足が弱ったかな……く、くそおっ」
「ま、これでも私は小学校の先生ですから。児童に体力で負けてちゃ指導なんてできるわけないもんね-!」
体力で俺に勝っていることがよほど嬉しいのか、伊勢はその場で腰に手を当ててシャキシャキと足踏みをした。
俺は、何故か凄く悔しい。
「な、なるほど……」
考えてもみれば、激務で知られる小学校教師なんだよなこいつ。そりゃ、怠け癖のある調査員――じゃなかった。派遣事務員よりは体力がある筈だよ。
「そんなことより、見て! ビアガーデンすっごい賑わいじゃない!」
首を捻って見てみると、伊勢の言うとおりギョッとするような人間が巨大なテントから出入りしている。この時期のビアガーデンは各ビールメーカーがおよそ一丁半に渡る会場を設営して、どかどかと客を呼び込んでいるのだ。
「ケッ。あんなもん頭の茹で上がった大学生か観光客か暇してるおっさんおばさんさんくらいしかいかねえよ」
「なにツンツンしてるの。札幌の夏の風物詩じゃない」
「北広島住みが一丁前に言うなよな」
「そっちこそ東京住みの癖に」
日射の眩しさに窓から目を背けると、こちらを向いた伊勢の目がばっちり合ってしまった。
「ね、夏が終わったらどうする?」
ん?
「夏が終わったら? その頃にはこの仕事も終わってるだろ」
「うん。だから、仕事終わったらどうすんのって」
「どうすんのって、何?……普通に東京戻って、元の生活に戻るだけだよ」
「今の雑誌社だって雰囲気良いんでしょ?」
「そりゃそうだけど、派遣だぞ。住まいだって間借りだし」
「でも……」
「何度も言ったけど、今は一時の暮らしだからな。仮住まいってのも肩身が狭いし、早いとこ東京に帰りたいね」
伊勢がゆらりと重心を動かして腰を打ち付けてきた。
「――いつまでもここで暮らせば良いじゃん」




