第35話 「まだ調査は終わってませんから」
久しぶりに訪れた北方先生の邸宅は、いよいよ夏本番となった外の気温を全く意に介さない涼やかさだった。エアコンをフル稼働させている雰囲気もないのに板間の廊下はヒヤリと冷たく、何となくお堂をイメージするような芳香が全体にある。きっと、外気を通さない生活の知恵みたいなものが随所に施されているんだろう。
今日は中間報告にやってきた。与えられた期間の約半分が過ぎて七月下旬というこの時期、勉強会やらなんやらで少し忙しくなる伊勢のスケジュールに合わせたのだ。
初めてここに来たときは、家ノ前で伊勢とばったり顔を合わせて……なんか、微妙な空気だったっけ。一旦伊勢の家でゆっくり過ごしてから来た今日を考えると、この北広島にも少しは居場所ができた気がするな。
食卓の対面に座る北方先生は、報告用に印刷してきた紙をぺらりと捲って、ほうほうとフクロウのように唸った。
「仕事が早いじゃないか、二人とも。優秀優秀!」
「殆どは委員長の手配ですがね」
委員長の一件があってから、俺たちは割と素早くアクションを取った。改めて同窓会のLINEグループを作成して、今年か来年辺りに同窓会を開く、というメッセージを報せている。
今も面識を持っているクラスメイト達は多かったようだが、流石に同窓生グループという規模になって参加者同士の会話も盛んに進んでいるらしい。俺は鬱陶しいので通知を切ってしまったが。
「北方先生が参加するってことで、乗り気な人が多いみたいですよ」
伊勢がおべんちゃらを言うと、先生は照れたようにはげ上がった額を叩いた。
「いや、なんもだなんもだ。それもこれも二人のお陰さ。ああ、調査料はもう払った方が良いのかい?」
「まだ調査は終わってませんから」と、金を用意しかけた先生を慌てて止めた。「二、三割のクラスメイトと連絡が付いていないんです。元々行方不明だった人と、LINEのアカウントが動いていないって人もいて」
「それにしても大分集まったもんだよ。いやあ、皆立派になったなあ」
元教え子の名前が懐かしいのだろうか。俺たちには目もくれず、報告書をゆっくりゆっくりと捲っている。一応、最近の仕事も聞き込めたものは名前の横に記載しているからな。
「むしろ、調査の本番はここからですし、本格的に着手金を使うのもここからですよ。全員見つかるかどうかはお約束できませんがね。特にご意見がなければこの調子で続けますが、良いですか?」
「おうっ。よろしく頼むぞっ」
*
「北方先生、めっちゃ喜んでたー」
伊勢がシートベルトをロックしながら言った。
「そうだな。まさか、七月中に半分以上連絡を取れるまでになるとは俺も思わなかったよ」
「ね。八月入る前に、取りあえず開催できそうな人数集められて良かった」
俺がシートベルトを締めると、伊勢のストッキングを履いた足がすらりと伸びて車が動き出した。勿論、今日も彼女は正装している。こちら側からは耳元の小さなピアスが光っていた。
伊勢の走らせた車は、最早見慣れた市街地と農耕地帯の狭間の道路を走り始める。マップを見る限りもっと近い道があるんだが、この道を走るのが好きなんだろう。
窓を開くと多彩な匂いが車内に流れ込んできた。プンとする肥料の匂いに、草花の花粉の匂いに、べたついた砂埃の匂い。これが意外と不快じゃなくて、田舎なりに生命の営みが活発であることが分かって何となく嬉しくなったりする。
「八月頭がちょっと忙しいんだっけ?」
「そ。教員研修って言って、教育委員会とかが企画する勉強会に参加するの。先生だって結構勉強するんだから」
「ふ~ん。札幌で?」
「多分ね。ちょっと前まではオンライン研修とかもあったんだけど、最近はどっかの会場で、とか。多分交流会って名目で飲み会もやるんじゃないかな。そっち目的で来る人もいるし、お金出るし」
「あ。そう……」
飲み会か。……飲み会ね。
ま、そういう業界の付き合いとかもあるよな。
「……」
どうしても、思考が伊勢のまだ見ぬ交友関係に向かってしまう。北広島じゃ出会いが無いとかなんとか言ってたけど、そういう場所で声を掛けられて……とか、ありそうなもんだけどな。
学生時代に嫌な思いをしたからか、教師という人種には何かとマイナスイメージが付いて回ってしまう。
「何さ、変に黙りこくっちゃって」
「……別に。税金で飲み食いできるってのは気持ちが良いんだろうなって思っただけだよ」
「馬鹿言ってえ」と、笑い飛ばした。「ところで、今後の調査って具体的にどうするわけ? 今のところ着手金はガソリン代……と飲み代くらいしか使ってない気がするけど、本当にあんな大金使い道あるわけ?」
「ん? あるよ。例えば、探し人が道東の方に向かったってことになれば、ガソリン代は勿論宿代とかも要るだろうし。それ以外にも色々な」
「それにしたってあんなお金使う?」
「世の中には、会員登録制の有料データベースっていうのがある。業種によってはそれで失せ人が見つかったり、手がかりが掴めたりすることがあるんだ。勿論俺たちは非会員なわけだけど、知り合いの会員に金を払えば一件幾らって具合に照会することができるだろう」
「へえ……」
「それ以外にも、色んな事情で管理されているデータベースがある。無料で閲覧できたりするものもあれば、特別な交渉で照会できたりするものもあるかな。世の中にはデータマニアってのがいるからな」
「……データベース……」
相づちの途絶えた伊勢の横顔を見ると、目線は前方に向いているが意識が思考に飛んでいるような気がした。
「エビ?」
「んっ、ああ、何?」
「どうかしたか?」
「べ、別に……? あっ」
特に相談も無く、住宅街にポンと建っているような喫茶店の前に片輪を乗り上げて停める。何かと思って見ていると、パタパタと小さな店内のレジに向かった彼女が少ししてソフトクリームを両手に駆け戻ってきた。
俺はダッシュボードに乗り出して運転席の扉を開いた。すぐさま伊勢の尻がずい、と乗り込んでくる。
「ここのソフト、マジで美味しいんだって。食べよ食べよっ」
少し外に駆け出ただけで額に汗を浮かべている。この頃は目が痛む程の紫外線だからな。
「エラい急だなあ」
若干勢いに押されつつも、両手が塞がってちゃ不便そうなのでソフトクリームを受け取る。
「最近、町内会のLINEで話題でさ。なんか、酪農家が親戚にいて、凄い新鮮な牛乳で作ってるんだってさ」
「道産の新鮮な牛乳で作ったソフトなんて、同じ売り文句のものが東京にも山ほどあるぞ」
「良いから食べてみって」と言いながらもう、舌で押しつぶすようにクリームの冷たさと形を味わっている。「あーっ。夏って感じ!」
俺は歯を立てて先端をかじり取った。
「うん。確かに美味い」
冷たく甘い感触の中に、ガツンとしたバターの風味を感じるな。
美味いが、滅茶苦茶話をはぐらかされた気がするのは気のせいだろうか。
「でしょ!? 東京じゃ、こういうの味わえないね。絶対」
「どうだろ。一人じゃ絶対に食わないし」
それから、暫く黙々とソフトクリームを食べる時間が続いた。至極どうでも良いことだが、舌でクリームの隆起をなぞるように舐めとる伊勢と、がぶがぶと噛みついていくスタイルの俺は随分食べ方が違うらしい。こういうのって性格が出るのだろうか。
食べ方の違いのためにソフトの形に随分違いが出てきた頃、伊勢がこんなことを言い出した。
「……で。私、研修で札幌行くんだけどさ。五日後」
「うん」
「その日空いてる?」
「空けることはできるんじゃない。急な仕事が入るかもしれないけど」
「せっかく札幌行くし、遊ばない? その日」
「ん? 良いよ」




