第31話 「おっさん」
「君は、エビ――じゃなくって、伊勢先生のクラスの子だっけ? 何で俺を追っかけてきてるんだ」
俺はすっかり目の前の女の子を追い詰めたつもりで気安く歩み寄った――が、彼女の手元に目を付けて、慌てて足を止める。
防犯ベル。
律儀なことに首からぶら下げたそれを、俺があと一歩近づいたら……! という必死の形相で掴んでいるではないか。なんでこんな部分に伊勢の教育が行き届いていやがるんだ。
いや、きちんとしてるけど。
「ちょ、ちょっと待て。落ち着け。……そうだ、アイス食べるかっ、アイス。暑いだろっ」
言ってから、いきなり俺は何を言ってんだと自分を殴りたくなった。大人ってモンは、子供の前でパニクるとすぐ懐柔しようとするんだから。そういうのが逆に怪しいってのに。
ところが、
「食べるー!」と、女の子は防犯ベルを放り出してコンビニに自転車を押し転がして行ってしまった。
やや呆然として彼女に続く。
あ。そういえばあの子、あまり学校に行ってないんだっけ? 子供の防犯意識ってのは、きちんと教育しないと駄目なんだな。
……後で伊勢に教えといてやろう。
*
コンビニの前が手頃な具合に日陰になっていたので、車止めに座って少女とガリガリ君の封を開いた。
「で。くるみちゃんだっけ?」
「うん。私くるみ。棚橋くるみ」
「くるみちゃん、ね。棚橋くるみちゃん。俺はね……」
スマホのケースに挟んだ名刺を渡した。
ところが、きょとんとした顔でくるみちゃんは受け取らない。
「名刺だよ。め、い、し。知らないのか?」
「それくらい知ってるよ。知ってるもん」引ったくるように名刺を取ると、目を細めて俺の名前を読み出す。「……ま、まつ、まつ……おっさん」
「それくらいの漢字はもう勉強してる筈だけどなあ。まあ、おにいさんでいいよ」
「おっさん」
「…………」
剃るか、無精髭……。
くるみちゃんは俺の名刺を綺麗に四つ折りにしてポケットにしまった。
「おっさんはエビセンのお婿さん?」
「……えーと……」
お知り合い、お友達、恋人に婚約者と飛ばしていきなりお婿さんときたか。
小学生的恋愛観からすればそういうもんなのか?
「違う。俺はあいつの……と、友達」
知り合い、ではない。流石に。
「ふうん。友達かあ」
くるみちゃんは奥歯でガリガリ君をガリガリ噛みながら呻いた。
「それにしても、なんだって俺のことを追っかけてたのかな」
「前からエビセンの近くうろちょろしてたもん。なのに学校じゃ見かけない顔だから」目を細めて、口を窄めた。「こりゃなにかあると思ったんだよねえ。だから自由研究にしようと思ってさ。エビセンに付き纏う謎の男の正体ってタイトルで」
「うーむ」
夏休みの子供のエネルギーは恐ろしいもんだ。担任の女教師と知らないおにいさんを勝手に研究対象にしちまうんだから。
「そりゃ光栄な話だけど、俺なんか研究するよか交通量とか調査した方が良いんじゃない。ここらへん車の通りだけは多いだろ。楽しい研究になると思うけどなあ」
「勝手にアドバイスしないでよ、生意気だよ」
「……。あ、そうですか」
まあ、二十後半に差し掛かってふらふらしている俺よか不登校予備軍の小学生の方がエラいのかな。
「でもね、悩みの種はこれなの」と、自転車のカゴに入れたバッグから一冊の本を取り出す。「なんか、本読んで感想書かなきゃいけないんだって」
それが緑葉小学校図書室という判のある児童書だったので、一気に懐かしい気持ちが咲き誇った。
「あ、読書感想文? どれ、みしてみ」
渡されて眺めた大判小説の表紙に、見覚えがある。
タイトルは「未雷」。
これで本編を読めば「みらい」と呼ぶことが分かると……俺は知っている。
確か、台風が通りがかったある夏の夜、少年少女の集まった秘密基地に墜ちた雷が、なんだかんだでタイムリープを引き起こす切っ掛けになるんじゃなかったっけ。
なんで俺がこのドマイナーな児童向け小説のあらすじまで知っているのかと言うと、実はこれが俺と月本の会話のきっかけになった小説だから。
まさか、十数年の時を経てこの手に戻ってこようとは……タイトルを忘れたもんで、探そうにも探せなかったんだよな。
「くるみちゃん、趣味良いんじゃん! 普段から本読んでんの?」
「ううん。だって、文字だけなんて詰まらないもん」
「え? じゃ、なんでこの本選んだの」
「私が選んだんじゃないもん。エビセンが選んだんだもん」
「えっ」
伊勢が、この本を選んだだと?
話題にもならない児童向けの本なんて、世間一般からすれば関心の対象にもならないくらいマイナーな筈。幾ら小学校の教師だからと言って、この本を児童に薦めるようなことにはならないと思うんだが。
「読みたい本なんてないって言ったら、この本渡してきたんだもん」
「……なんで?」
「なんかね、エビセンが小学校の頃に初めて読んだ小説がこれだったんだって。きっと気に入るから、最初の数ページだけでも読んでみなってさ」
「エビが――」
まさか、彼女が月本程に読書好きだったわけがない。
図書室の膨大な本の中からこの一冊を選んで読み切ったんだ。
何故か。理由は一つしか考えられない。
――俺が、帯を書いたから……。
思わず空を仰いだ。快晴なのに、雷に打たれたような衝撃が俺を貫いていた。
「ねえ、なんか賢い感想の書き方知らない? できるだけ楽できるやつ」
「ん? あ、ああ。そうだなあ」俺は「未雷」をくるみちゃんに返して言った。「良い感想ってのは、一にも二にも感想を読んだ人にその作品を読みたいと思わせるような感想だ。逆に言えば、全部読まなくたってその本の面白い部分だけを面白かったと書けば、それで良いんだよ」
まあ、つまり全部読むということになるわけだが。
「おー。なるほどね」と、くるみちゃんは俺の適当な言い分にも気付かず、頻りに首を縦に振っている。ガリガリ君はもう棒だけになっていた。「結構役に立つじゃん、おっさん。じゃ、私帰るから」
「はいはい。車に気をつけろよ」
*
「ふうん。くるみちゃんと話したの」
その後合流した伊勢と、車の中でさっきの話をした。「未雷」のことは、なんだか俺たちの今の関係ではデリケートな話題な気がして避けたが。
それを置いても彼女の態度が他所他所しいのは気のせいだろうか。会話が妙に受け身というか、俺に対する変な意識を感じる。
……それはそうか。昨晩はなんやかんやとあったし。一晩頭が冷えて今、俺に対する態度を決めかねているんだろう。
「どうも気難しそうな女の子だったな」
「ま、あの年頃はね」
「この間ちょろっと小耳に挟んだんだけど……不登校?」
「今は土俵際って感じ? あの子の家庭ってちょっと複雑でさ。――あっ! これ、他の人に言ったら絶対駄目だよ。児童の個人情報」
「誰に言うんだよ。しかし、ああいう子まで面倒を見るとなると結構大変なんじゃないかな」
「それは違うよ。真正面から向き合って大変じゃない児童はいないし。あの年頃じゃもう、一人一人が立派な人間なんだから、児童の指導には一切手は抜かないわよ」
「……ふーん。立派なこと言うじゃん」
雑に褒めると、伊勢は気を取り直したように鼻の下を擦った。
「子供の頃の出来事って、どんなに些細なことでも大人になるまでに凄い影響を与えるものだから」
そんな話、最近誰かから聞いた気がする。……バーのマスターか。
この年頃になると、どこに行ってもそういう話題が付き纏うものなのだろうか。人生というスケールの大きな時間軸を、対数的に捉えられるようになる、というか。
「ところで、本当に行くのお……?」
ハンドルを切って交差点を曲がった伊勢が、弱り切った声を上げた。
「なんだよ。苦手なのか」
「別にそういうんじゃないけど……あんまり接点無いし、微妙な距離感なんだよね。会って何を聞くのか知らないけどさ」
「別にエビが心配することじゃないよ。スカしたらその時はまた改めて考え直すだけだ」
「それにしてもねえ」言いながら、スピードをぐっと緩めて住宅地の隙間に車を滑らせていく。「鈴木さんなんて、今回の話に全然関係ない気がするんだけど」
鈴木さん。――シングルマザーの鈴木さん。
彼女に会えば、きっと委員長が伊勢をブロックしたワケを特定できる……気がする。
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