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第29話 「キスしたい」

 いきなりの宣言に激しく動揺したものの、


「なんのつもりだよ」と、辛うじて口を動かせた。頭の半分くらいは今の彼女が下着を履いていないことと、若干横に流れている乳房の形が早くも焼き付いている。


 ……嘘言った。


 正直、頭の八割くらいが目の前の無防備な伊勢に持って行かれているな。その証拠に男の男たる部分に早くも血が流れていっているのを感じるし。


「別に」と、伊勢は右腕で目元を覆った。「この状況で、そういうことが無いのも逆におかしいし。自然な流れじゃん」


「確かにな」


 俺はあまり躊躇いなく寝ている彼女の上に体重を預けた。


 俺の体の稜線、突起をその身に感じたのか、彼女の体がギュッと縮まるように強ばる。が、暫くこちらがじっとしていたらゆるゆると手綱が緩むように体が開けてきた。


 手始めに右の乳房を手で包むと、彼女の息づかいが俄然激しいものになる。悦楽というよりは、大ぶりの雨を必死に受け入れている感じだ。


 続いてスウェットの中に手を差し入れると、間もなく俺のそれとそう変わらない、刺々しい毛の感覚に行き着く。が、彼女の態度は変わらない。


 これから起こることを全身で察知していて、それは多分彼女の中では危難信号なんだろう。


 ――なんか、おかしい。


 これでは……このまま続けたら、俺は自己嫌悪に陥ってしまうんじゃないか。俺は、俺が軽蔑する人間になってしまうんじゃないか。


 一旦体を離して、


「怖いよな」と聞いた。自然と小声になった。それが、客観的に見る今の俺というものだった。


 伊勢は自分の右腕の下で頭を振る。


 おかしなことに、困惑する俺と目の前の女性を愛しいと思う自分が俺の中に同居しているようだ。愛しいと感じる自分を、だ。


 どうして俺はこんな身勝手で、我が儘で、他人に優しくて、その癖俺にだけ冷たく当たる女に愛情――を、抱いているのだろうか。


 とはいえ現実として今、そんな女が無防備に俺の体温、体重の下体を開いているわけで。性欲とは別の突き上げるような感情が胸に溜まって、思わず――


「キスしたい」と、二歩進んで四歩下がるようなことを半ば命令口調で懇願する。


 伊勢は頭を振らなかった。代わりに首元から頬が見て分かる程赤くなっている。


「良いか?」


 更に聞くと、伊勢は口元の血の気が失せるほど唇を噛んだ。


 多分オーケーということだ、と解釈して彼女の右腕をどかすと――


「……!」


 泣いている彼女の顔がそこにあった。


 きっと、動揺が顔に浮かんだんだろう。伊勢は少し顔を傾けて、「い、……嫌なわけじゃ、ないんだけど――お……」と、声を震わせながら呟く。「こ、こんな罰みたいな初めて……」


「……」


「……」


 三秒後に俺は仰天した。


「はっ!? 初めてぇっ!?」


 潤んだ伊勢の瞳が揺れている。恥ずかしいのか、下唇をきゅっと噛む。


「お、お前、そんなんで、その癖に、あんな……こんな!?」


「…………」


「うわっ……お、おお……」


 むっつりとした表情の伊勢が上半身を起こす。


「あ、そう……ですかあ。へえ……ふうん……」


 自分でも分からないんだが、俺は何故か拍手していた。


 突如彼女の右腕が蠢いたかと思ったら、次の瞬間には顔面に強烈な衝撃がめりこむ。


 *


 慌てて洗面所に駆け込んで鼻血の始末をした。


 ――伊勢のストレートは中々侮りがたい。


 油断していたとはいえ、あれほど固い拳骨を持っていたとは。取りあえず、性欲も愛欲も淫靡な雰囲気もすっかい霧散したって感じか。……まあ、相変わらず下半身には血が溜まったままなんだけど。


 頭だけ冷やして部屋に戻ると、伊勢は体育座りのような姿勢で布団にくるまっていた。


「松尾が悪いんだし。私のこと馬鹿にしてさ」


「……別に馬鹿にしたわけじゃないって。あまりにも意外だったから」


「あー、ウザいウザいっ」


「いや。だってお前……まさか、恋人がいなかったわけじゃないだろ」


 伊勢の垢抜けっぷりは明らかに女性としてある程度経験のあるそれだ。端正な化粧にしろ、季節感を意識した服装にしろ。それで経験が無いというのは不可解この上ないことじゃないか。


「恋人くらい、いたし。高校の時にね」


「ふうん、高校にね。……で、なんで?」


「すぐ別れたんだもん」


「振られたんだな」


「決めつけるなし。……まあ、簡単に言えばそう、なんだけど」


「いつ頃まで付き合ってたんだ?」


 伊勢は、まだ赤い目をぎろりと光らせた。


「なんでそんなこと聞くわけ?」


「前に言った話だよ。お前が委員長の好きな人に粉掛けてた可能性。話を聞く限り二十の頃は普通に話せていたのに、いつの間にかブロックされていたってんだろ。男と別れたのが二十以降ってことならそのセンは濃くなる」


「高校からそこまで付き合って、何もないわけがないじゃん。……私が振られたのは、付き合って二ヶ月後のクリスマス前。新しい彼女作るからって」


 男子がクリスマス前に彼女をほっぽりだす? それは、振られた伊勢からすれば結構ダメージの残りそうな話だ。


「非道い男だったんだな」


「そうでもないのよ。仕方が無かったのかな」


 どうやらワケがあるようだ。俺は、居住まいを正して再び彼女が口を開くのを待った。


「高校一年に付き合ってすぐの頃にね、私のおばあちゃんが歩けなくなったの。家の階段から落ちて、下半身不随」


「――」


 言葉を失った。


「その頃にはもう結構な高齢でね。うちは両親が共働きで、私もおばあちゃんの介護をしなくちゃいけなかった。本当に元気でサッパリした性格の人だったんだけど、歩けなくなってからはあっという間に老け込んじゃって、終いには惚けちゃった。それが辛くって、精神的にも時間的にも彼に構えなくって」


「そうか……」


「あ、でも悪いことばかりじゃないよ。担任の先生が結構親身に相談に乗ってくれてさ。テスト勉強も出来なかった私に、空いた時間を使って勉強教えてくれたり、他の教科の先生に頼んで補講をセッティングしてくれたりしたんだ」


「へえ」


 俺は素直に感心してしまった。世の中には、それほど人間の出来た高校教諭がいるものなのか。彼女が教師という職業に憧れ、未来を決めたという話にも頷ける。


「お陰でどうにか家から通える教育大学に入学できたんだよ。流石に道外に出るのは無理だったけど、色んな先生が私の夢を叶えてくれた……」


「一応聞くけど、大学時代に恋人は」


「いるわけないじゃん。精々札幌で飲む時間くらいはあったけど、相変わらずおばあちゃんの介護しなきゃだったし。結局緑葉に勤め初めて一年目の冬に亡くなっちゃったんだけどね。私たち家族に残ったのは、介護向けにリフォームした家と介護ベッドだけで。そういう空間で暮らしていると、妙に虚しくなるっていうか。それで――」


「両親は札幌に。伊勢は北広島で一人暮らし、か」


「うん」


 ということは、伊勢は北広島に居残っていたわけではない。北広島から出られなかったという人生なわけか。


 ……以前、くるみちゃんという女の子に言いくるめられていた一幕を思い出す。あのとき俺は、伊勢をせせら笑ったんだっけ。


 彼女の人生で、少しだけ起こる出来事が違えば――あるいは――道外の大学に入学したりして、恋人を作ったりして、今頃結婚したりして……ということもあったのかな。


 勿論そんなことを言い出せばキリが無い。人間というものは、自分の運命に逆らうことができないからだ。だけど、もしかすれば――


 他人にだけは、ささやかな運命を授けられる、ということがあるのかもしれない。


「言ったでしょ。面白い話じゃないって」


「……確かに、愉快じゃないけどな」俺は爪で首筋を掻いた。「でも聞けて良かった」


「なんで」


「逆にこんな時じゃないと喋ること無いだろうし。――伊勢のこと、知りたかったから」



 *


 その日は結局、伊勢は俺の布団に、俺はリビングのくたびれたソファに眠り事なきを得た――


「…………」


 わけでは、勿論ない。


 困ったことに男という生き物は、幾ら不遇で悲しい話を聞いても、相手を慮る気持ちが働いても、例え明日世界が滅亡しようと、昂ぶった体は昂ぶったままなのである。


 ましてや、俺はさっき彼女の胸を……。彼女が今、薄い扉を隔ててそこに……。


 このままではいかん。


 俺は足音を立てないようにトイレへ行くと、然るべき手順でその日の始末を付けた。これほど自分のことを情けないと思ったのは初めてだったかもしれない。

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