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第12話 「先生になるの、子供の頃から夢だったし」

「いらさませ~……あっ」コンビニのレジに立っている茅森が俺を指差した。「伊勢先生とただならぬ関係の人。なんでそんなに汗かいてるんですか?」


「馬鹿。雨に降られたんだよ」


 札幌で電車に乗った時は晴れていたのに、北広島に向かう道すがら空模様が悪化したのだ。雨降る時期はまだ一ヶ月ほど先な筈だが、どうしてこう降られてしまうんだろう。


 伊勢が雨女なのかな。いや、それを言うなら俺が雨男なのか……。


「なんすかなんすか。もう北広島に来ないって言ってた割に滅茶苦茶来るじゃないすかあ」


「仕方ないだろ。こっちで仕事受けちゃったんだから……」俺は商品には目もくれず、レジに手を突いた。「で?」


「はい?」


「伊勢が、不審者がどうのこうの言ってたけど。どうせあいつ、お前に話してんだろ」


「そうと分かってるなら直接聞けば良いじゃないすか」


「……それが大変そうだから、こうして下調べしてんの。あいつの様子はどうだった?」


「そりゃあ、もう!」茅森が大げさに手を広げる。「カンカンですよ」


 するりと俺の気持ちが滑る。


「ビビってんじゃないのかよ」


「怖がってもいますよ。暫くこのコンビニは来れないわね……って、今生の別れみたいな感じで言ってたし。さみしいなあ」


 俺は後頭部を掻きながら呻いた。


「あいつ、このコンビニでいつも何買ってる?」


「野菜ジュースとか、缶ビールですかね。あと、たまに無表情で食品類をカゴに入れまくってるとこ見ますよ」


「……俺はどうすれば良いと思う?」


 茅森は腕を組んで天井を見上げる。


「捕まえれば良いんじゃないすか? 不審者」


 *


 伊勢の家宅周辺に辿り着いて、さっと周囲の気配を伺ってみた。が、予想通り草葉が擦れる音以外に生物の気配はないように思える。不審者というのがどれ程熟達した不審者なのかは知らないが、少なくとも今は周辺にいないようだ。


 午後八時――北広島の住宅街は、既に深夜のように寝静まっている。


 ずんぐりと膨らんだコンビニ袋を持って、俺は伊勢の部屋のインターホンを鳴らした。すぐにツーンとスピーカーの電源が点く音がする。


「あ、伊勢。俺だけど」


「……」


 インターフォンからは何も聞こえない。カメラの電源ランプは点いているが。


「あれ。聞こえてないのか……。お~い」


「――聞こえてるんだけどっ」


「うおっ」


「なに」


「いや、なにって……」


「松尾にとって、私はどんなひどい目にあっても良い女なんでしょ。あ~あ。私ってなんて不幸な女なんでしょう。きっと、ストーカーに捕まって、ひどい目に遭わされて、遺体は山に埋められて、ヒグマに掘り起こされちゃうんだ。それで、取り残された児童たちは私の死を悼んで不良になっちゃうんだ」


 滅茶苦茶拗ねてる……。


「なに馬鹿なことを言ってんの」俺はカメラに向かってコンビニの袋を持ち上げて見せた。「これ。差し入れ」


「……はあ?」


「茅森から話は聞いた。コンビニ行くの控えるんだろ。あと、夜中はドカ飯してるって」


「してねえわ!!……毎日は」


「とにかく、色々買ってきた」


「はあ」


 溜息を最後にインターフォンのスピーカーから起動音が消えた。同時に、扉の錠がカチリと鳴る。中に入ろうとしたら、逆に伊勢の方がこっちに出てきた。風呂に入った直後なのだろうか、肌がつやりとしていて、頬が赤みがかっている。


「急に家に来られるの、困るんですけど。前もって連絡しようとか思わないわけ?」


「……お前が着拒したんだろ。馬鹿」


 伊勢は絶妙に目を合わせないまま、耳の横の髪をくるくる弄った。


「ちょっとさ、今、部屋片づけてないんだけど……」


「別に良いよ」


「あ、そう? あ、ははっ」


「お前の家に泊まるわけじゃないから」


「……。じゃ、何しに来たんだよっ!?」


「エビの警護」


「えっ――そう。――私を、警護にね」


 伊勢はようやく幾らか冷静さを取り戻したようだ。首の後ろを摩りながら、上目遣いに視線を合わせてくる。


「でも、部屋に上がらないって、どうするつもり? まさか一晩中外に立ってるってわけじゃないでしょ」


「車の鍵を貸してくれ。取りあえず今晩は軽の中で張り込んでみるから。それで異常が無ければ明日は引き上げる。……この辺りが俺にできる最大の譲歩だよ。それで良いよな?」


 まだ首を摩りながら、口元をぎゅっと窄めた。


「私は良いけど――張り込みってなんか、ドラマみたい。松尾、そんなことできるの?」


「一晩中交代無しってのは経験無いけど、まあなんとか。俺が近くにいればお前お安心するんだろ」


「……うん」


 伊勢は俺からコンビニ袋を受け取って、一旦玄関に引っ込んだ。すぐに車の鍵を持って出てくる。


「車の中、今の時期はちょっと暑いかも。エアコン付けて良いから」


「車のエンジン付けたら張り込みにならないだろ」


「あ、そっか。……なんか、ごめん」


「気にすんな。大雨の中、深夜に家から追い出されるより全然マシなんで」


「う……」


 *


 早速助手席に乗り込んで、シートを後ろに大きく倒した。これで外からは車に人が乗っていると分かりにくくなるだろう。


 車中は、予想していたような暑さではなかった。夜だし、雨が降っているからかもしれない。ただし、窓から見える視界は雨に滲んでやや不良。このまま雨脚が強くなったら周囲の異常には気づけないかもしれない。


 ……とか言って、大方取り越し苦労に終わると思うけどな。


 車中での張り込みは渋谷で調査員をやっていた頃に何度か経験がある。ただ身を潜めて様子を伺うだけの地味な仕事だが、これが結構過酷で辛い。基本暇だし、よそ見もできないし、眠るなんて以ての外。それに加えて、様々な生理現象が集中を妨げてくる。


 じっと雨音を聞いていた。


 車のルーフから、窓から、小気味よく、時には混沌と鳴っていた。


 滲んだ雨は伊勢の部屋の明かりを滲ませている。


 ――そのうち、部屋の明かりが消えた。


 今のところ周囲に異変はない。予想通り動きは無さそうだし、ちょっと抜け出してコンビニのトイレを借りようか――と、そのとき急にスマホが震えだした。


 明かりが漏れないように画面を確認すると、見慣れない通知が表示されている。……LINEか? タップしてみると、チャットの画面が出てきた。相手は「伊勢里映」。アイコンは「ちいかわ」のうさぎ。


 ――調子どう? という彼女からのメッセージ。


 なんだこりゃ。どうして俺のLINEに伊勢からメッセージが届いているんだろう。この間は結局交換しなかったのに。


 疑問をそのままぶつけてみると、


 ――電話番号から登録できんの。知らないの? と返ってくる。


 なるほど……。LINEにそんな機能があったとは。


 チャットを返すついでに友達追加というのをしてみると、邪魔なポップアップが消えた。同時に、すぐさま「里映伊勢」から着信が来る。


「お前、俺を着信拒否にしたんじゃなかったのか?」


「LINEは別だし。……ん――」伊勢の、気の抜けたような鼻息が聞こえた。「それで、外の様子はどう」


「異常なし、だよ。外は小雨が降っている。通行人無し。平和で、静か」


「暑くない?」


「意外と暑くなかった。今日が熱帯夜じゃなくてラッキーだな」


「ふふ、ん――ねえ、張り込みってやっぱり牛乳とあんパン?」


「牛乳は悪くなるから飲まないよ。俺はリプトンかな」


「何でそんな女の子みたいなの飲んでんの?」


「紙パックの飲み物ってあんま選択肢無いんだよ」


「――ん。紙パックじゃないと、駄目、なの?」


「うん。生理現象とか色々あるんで」


「生理現象……?……!! ちょっと、私の車の中で止めてよ!?」


「冗談だよ。トイレはコンビニのを借りるつもりだから安心しろ」


「はあ……ん――びっくりした……」


「……お前、さてはベッドに寝転がって電話してるな」


「えー! よく分かったねえ」


「そんな気の抜けた声で喋ってたらね。それにしても、結構寝るの早いよな」


「小学校の先生ですから。平日の朝は六時起きがデフォルトなんですよ、松尾君」


「ろ、く――」


 あまりのショックに絶句してしまった。そんな生活、俺だったら半年経たずに発狂している。


「先生ってほんとに大変な仕事なんだ。朝は早いし、責任は重いし、プライベート無いし、帰りは遅くなるし。これでも、結構マシになったらしいんだけどさ」


「何だってそんなに大変な仕事を」


「先生になるの、子供の頃から夢だったし」


「へえ……」


 音声の出力をスピーカーにして、ドリンクホルダーにスマホを差し込んだ。周囲に異常は無い。


「学校の先生に憧れること多くて。北方先生だけじゃなくて、中学、高校も素敵な先生にお世話になったからさ」


「恵まれた学生時代か。高校まで北広島なんだよな」


「うん。……松尾は札幌でしょ。そっちはどうだった?」


「あまり良い想い出はないかな……」


「ええ?」


 心なしか、伊勢の声色がますますとろんとしてきた。


「中学はちょっと前まで荒れてたところで、高校はなんちゃって進学校。なんか、校則厳しくてさ。教師のことはクズだと思ってたし、アルバイトも中々続けられなくて」


「松尾も北広島に戻ってくれば良かったんだ」


「それは――そういうの、自分で選べる年齢じゃなかったからな」


「ふ、ふ……」


「何か変なこと言ったか?」


「ううん。なんか不思議でさ。今、すぐ玄関の向こうで松尾が私のことを見守ってるんだ」


「――お前はベッドで高見の見物をしている」


 布が擦れる音がした。スピーカーから聞こえる伊勢の吐息が、大きくなって聞こえてくる。


「松尾」


「なに」


「――ありがと。今日、来てくれて――嬉しかった……」


「そういえば、張り込みの依頼料は貰えるんだよな?」


「――す……ん――」


「伊勢?」


「――ん」


「おい。エビ」


「…………」


 返答が無い。寝てしまったのか。


 ――あ、そういえばLINEって通話無料なんだっけ。


 ということは、このまま伊勢の寝息を聞き続けても、財布には痛くないということか。……なんか、面白い寝言でも言わないかな。


「――ん――ふす……」


「人を張り込ませといて、気持ちよさそうに寝るね。全く……。……!?」


 車外から、キッと甲高い音が聞こえた気がした。


 不穏な気配――


 慎重に窓を覗くと、オートロックの玄関前で傘を持ったまま自転車に乗っている男が、じっと伊勢の部屋の窓を見つめているではないか。


「おっ、と――」


 マジか。本当に出やがった。

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