第08話
◇ 選択の刻 ◇
カイとリリィは、ミラとの別れから立ち直る間もなく、再び瘴気の荒野を歩き出していた。ミラが最後に残した微かな笑顔は、カイの胸の中で痛みを伴いながらも強く焼き付いていた。リリィもまた、瞳の奥に涙の跡を隠し、真っ直ぐ前を見据えている。
「次はどうする?」
カイが問いかけた。その声には微かな疲れが滲んでいたが、彼の決意は揺るがない。
リリィは一度深く息を吸い込むと、静かに答えた。
「……イサムを追うべきだと思う。彼にはまだ隠していることがある。それに、私たちだけでは瘴気の源に近づくのは難しい。」
「でも、あいつが裏切ったら?」
カイは短剣を握りしめた。彼の頭の中では、イサムがミラとの再会を遮った銃声の音が何度も蘇っていた。
「それでも、確かめなきゃいけない。私たちには時間がないんだもの。」
リリィの言葉には揺るぎない強さがあった。
◇ 道中の闇 ◇
二人が進む先は、瘴気の濃度がさらに増している地域だった。植物は異様な形に変貌し、かつての人間の住居や施設も、瘴気に侵食されてぼろぼろに崩れ落ちている。リリィの足元に生える奇妙な花弁が、微かな光を放ちながら不気味に揺れた。
「ここ、嫌な感じがする……」
リリィがつぶやいた。
カイもまた、その異様な空間に違和感を覚えていた。瘴気が身体に染み込むような感覚に、彼の狂花病の症状が僅かに悪化していることを感じ取る。彼はリリィを気遣いながら問いかけた。
「リリィ、大丈夫か?」
「ええ、まだ平気……」
彼女の返事は力強かったが、その頬にはうっすらと汗が浮かんでいる。
突然、周囲の空気がピリリと張り詰めた。
「気をつけろ……来るぞ。」
カイが短剣を抜き、リリィの前に立った。
廃墟の影から現れたのは、三体の喰らい花だった。彼らの姿は人間の面影を完全に失い、裂けた花弁から瘴気を放ちながら異様な動きをしている。それぞれの目は、濁った色をしていながらも、獲物であるカイとリリィを確実に捉えていた。
「下がって!」
カイが叫ぶと同時に、一体の喰らい花が襲いかかってきた。
危機と力の覚醒
カイは短剣を巧みに操り、喰らい花の攻撃を捌いた。二体目が背後からリリィに向かって跳躍する。リリィはその場で歌を口ずさみ始めた。彼女の歌声は喰らい花の動きを一瞬止めるが、その効果は短かった。怪物たちはさらに凶暴化し、二人を取り囲む。
「このままじゃ持たない……!」
カイが息を切らしながら叫ぶ。
その時、リリィの瞳が鋭く光った。彼女の歌声が変化し、周囲の空気に揺らぎを生む。音の波紋が喰らい花たちを包み込むと、怪物たちは苦しげに体を震わせた。
「リリィ……?」
カイが驚いたように彼女を見た。
リリィの体から淡い光が漏れ出し、その光は喰らい花たちに向かって収束していった。怪物たちは光に触れた瞬間、一瞬のうちに動きを止め、花弁が崩れ落ちていくように砂となって消えていった。
「……私、どうして……」
リリィはその場に膝をついた。彼女の顔は疲労で青ざめている。
「リリィ、大丈夫か?」
カイが駆け寄り、彼女を支えた。
「平気……多分。でも、今のは……」
リリィは自分の手を見つめた。その手には微かな光が宿っていたが、すぐに消えていった。
「君の歌には、まだ僕らが知らない力があるみたいだ。」
カイはリリィの手を握りしめた。
「でも、その力を使うのは危険かもしれない。無理はするな。」
リリィは小さくうなずいた。
「分かった。でも、この力をどうにか活かせないかな……」
◇ 再会と問い ◇
二人が進む先には、イサムの姿があった。彼は廃墟の高台に立ち、双眼鏡で何かを観察しているようだった。リリィは怒りを抑えきれず、彼に声をかけた。
「イサム! どうして私たちを裏切ったの?」
イサムはゆっくりと振り返った。その目はどこか冷静で、リリィの怒りを全く意に介していないようだった。
「裏切った? 俺はただ、自分の目的を優先しただけだ。お前たちと行動する必要がないと判断した。それだけだ。」
カイが一歩前に出た。
「お前が何を考えているのかは知らない。でも、俺たちが行くべき場所は分かっているはずだ。協力してくれ。」
イサムはしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「……お前たちが何を考えているかなんてどうでもいい。ただし、この先は俺の道案内がないと進むことさえできないぞ。」
「なら、何故ここで待っていた?」
カイが鋭く問い詰めた。
イサムの顔に一瞬の動揺が走ったが、すぐに平静を取り戻した。
「簡単だ。お前たちがどこまでやれるか見たかった。そして、案の定だ――リリィ、お前の力はやはり瘴気に関係している。」
「私の力が……?」
リリィが驚きの表情を見せた。
イサムは再び双眼鏡を構えながら言った。
「この力をどう扱うかによって、お前たちはこの世界を救うことも、破壊することもできる。お前たちの選択次第だ。」
◇ 別れた目的地へ ◇
リリィはイサムの言葉に動揺しながらも、強い意志を持って問い返した。
「それでも、私たちは進むしかない。瘴気の源を破壊するために。」
イサムは小さくため息をつくと、地図を取り出した。
「なら、このルートを行け。瘴気の源に最短で到達できる道だ。ただし、そこに待つのはお前たちが想像する以上の地獄だ。」
カイは地図を受け取り、冷静にうなずいた。
「分かった。お前の助けは感謝する。でも、次に俺たちを裏切ったら……」
イサムは笑みを浮かべた。
「その時はお前の短剣でとどめを刺すといいさ。」
三人はそれぞれの決意を胸に、新たな危険へと足を踏み入れた。瘴気の源はすぐそこに迫っている。しかし、カイとリリィの身体を侵す狂花病もまた、確実に進行していた。
◇ 瘴気の源に続く道 ◇
廃墟に広がる暗雲の下、カイ、リリィ、イサムの三人は、イサムが示した地図のルートをたどっていた。周囲は次第に瘴気の濃度が高まり、喰らい花の襲撃頻度も増している。廃墟に佇む建物は朽ち果て、苔のような瘴気の結晶に覆われていた。空気は粘つくように重く、肌に触れるだけで何かが浸食してくるようだった。
カイが口を開いた。
「この道、本当に瘴気の源に続いているのか?」
「間違いない。だが、その前に通らなければならない場所がある」
イサムが地図を見つめたまま答えた。
「『喰らい花の巣窟』だ。この先、奴らの数が桁違いに増える。無策で突っ込めば、命はない。」
リリィが不安げに尋ねる。
「それって、どういう場所なの?」
イサムは険しい表情で答えた。
「喰らい花は、瘴気が濃い場所に群れを作る習性がある。そこには、異常なほど瘴気を溜め込んだ『核』のような存在がいるんだ。それを倒さない限り、先には進めない。」
カイは短剣の柄を握り直し、イサムに視線を向けた。
「核を倒す方法は?」
「単純な話だ。やつを粉々にして再生できなくする。だが、それにはお前たちの協力が必要だ。特にリリィ、お前の力が鍵になる。」
「私の力……?」
リリィは不安げに自分の手を見つめた。前回の戦いで喰らい花を消滅させた光。それはリリィ自身にとっても未知の力だった。
「お前が歌う時に放つ波動、あれが奴らに効いているのは間違いない。ただし、それを制御できなければ――」
「暴走するってこと?」
カイが険しい表情で口を挟む。
イサムは無言でうなずき、双眼鏡を覗いた。
◇ 喰らい花の巣窟 ◇
三人は高台から見下ろした。その先には、広大な荒野にぽっかりと口を開けた巨大な洞窟があった。洞窟の周囲には、瘴気の濃霧が漂い、いくつもの喰らい花が徘徊しているのが見える。遠目からでも分かるほど異様な数だった。
「中にはもっといるだろう」
イサムが静かに言った。
「どうやって切り抜ける?」
カイが尋ねる。
「単純に突破するのは無理だ。まずは奴らを引き離し、洞窟内の『核』にたどり着く。そのために、リリィ、お前の力で奴らをおびき寄せられるかもしれない。」
「私の歌で?」
リリィが眉をひそめた。
イサムは短くうなずいた。
「喰らい花は音に敏感だ。特にお前の歌声には反応が強い。だから、ある程度奴らを引きつけることができれば、その隙に核を叩くことができる。」
リリィは戸惑いを隠せなかった。
「でも、私の力が制御できなかったら、どうなるの?」
「その時は俺が止める。お前たちを危険にはさせない。」
「信じられるわけないだろう。」
カイが鋭い口調で返した。
イサムは冷たい笑みを浮かべた。
「じゃあどうする? 俺を信用しないなら、ここでお前たちは終わりだ。」
カイは短剣を握り直しながら、しばらく沈黙した。そして、リリィを見つめる。
「……お前が決めてくれ。」
リリィは自分の手を見つめ、震えを抑えながら小さくうなずいた。
「やるわ。私にできることがあるなら、やる。」
◇ 決死の突入 ◇
三人は洞窟の入り口まで慎重に移動し、作戦を開始した。
リリィは洞窟の外側で歌を歌い始めた。その声はどこか悲しげで、どこまでも響き渡る旋律だった。喰らい花たちはその歌声に引き寄せられるように動き始め、洞窟の外へと出ていく。
「いいぞ、そのまま続けろ!」
イサムが声を張り上げた。
カイは短剣を構え、リリィを守るように立ちふさがる。喰らい花の一部が気配を察し、彼女に向かって襲いかかろうとするが、カイの正確な一撃で次々と倒されていく。
洞窟内に入ったイサムは、カイに合図を送り、「核」の元へと突き進んだ。洞窟の奥は異様な光で満ちており、瘴気が濃密に渦を巻いている。その中心には、異形の巨大な花弁状の「核」が存在していた。周囲には、さらに多くの喰らい花が徘徊している。
「これが……核か」
イサムは銃を構えた。
◇ 核との対峙 ◇
イサムの攻撃で核の一部が砕けると、洞窟全体が激しく揺れた。核は異様な咆哮を上げ、周囲の喰らい花が一斉にイサムに向かって襲いかかってきた。
その時、カイとリリィが洞窟に駆け込んできた。
「イサム、引け!」
カイが叫ぶ。
「手間をかけさせるなよ!」
イサムは不機嫌そうに銃を撃ち続けた。
リリィは再び歌い始めた。その歌声は洞窟全体に響き渡り、喰らい花たちの動きを鈍らせた。しかし、核はその影響を受けるどころか、瘴気をさらに強めていく。洞窟の天井からは岩が崩れ落ち、全員を飲み込もうとするかのようだった。
「リリィ、もう少しだ!」
カイが短剣で喰らい花を倒しながら叫ぶ。
しかし、リリィの体力は限界に近づいていた。彼女の額には汗が滲み、その光はさらに強さを増していく。
「お願い、もう少し……!」
リリィは震える声で歌い続けた。
やがて、核が再び咆哮を上げた。その瞬間、リリィの歌声が極限に達し、洞窟全体を揺るがす光が放たれた。
核は悲鳴のような音を立てながら崩れ落ち、周囲の喰らい花もまた砂のように消え去っていく。
◇ 勝利と代償 ◇
静寂が戻った洞窟には、崩れ落ちた核の残骸と、ぐったりと地面に倒れ込んだリリィがいた。カイは急いで駆け寄り、彼女を抱き起こした。
「リリィ、大丈夫か? しっかりしろ!」
リリィは微かに目を開け、弱々しい声で答えた。
「……よかった、みんな無事で……」
イサムは核の残骸を冷たく見下ろし、淡々と呟いた。
「これで先に進む道が開けた。だが、この代償は大きいな。」
カイはイサムを睨みつけた。
「彼女が力を使いすぎたんだ……無茶をさせるから!」
◇ 命の重み ◇
イサムは一度だけ肩をすくめ、歩み寄ってリリィの状態を確認した。
「あの力を使い続ければ、彼女の命を削ることになる。覚悟しておけ。次はもっと苛烈な戦いになるだろうからな。」
カイはイサムの言葉に歯を食いしばり、リリィの顔を見下ろした。彼女の頬は青白く、その小さな体が軽く震えている。彼女の胸元に手を当てると、微かにだが確かに心臓の鼓動を感じ取れた。
「リリィをこんな目に遭わせるくらいなら……俺が全部やる!」
カイは短剣を握りしめた拳を震わせた。
イサムはそれを静かに見つめ、
「その言葉、忘れるなよ」
と冷静に返した。
◇ 休息の地 ◇
洞窟を抜けた先に広がっていたのは、廃墟に覆われた広大な谷だった。そこは瘴気が薄く、短い休息を取るには適した場所に見えた。カイはリリィを背負い、崩れた建物の陰に彼女を寝かせると、その隣に座り込んだ。
リリィの呼吸は浅く、額には冷や汗が滲んでいる。カイは彼女の髪をそっと撫で、
「無理させすぎたな……ごめん」
と呟いた。
イサムは離れた場所で火を起こしながら、彼らを横目で見ていた。
「休むのもいいが、時間は限られている。この谷の先には、『瘴気の源』がある区域に入る。」
「どれだけ先なんだ?」
カイが低い声で尋ねる。
「おそらく、あと2、3日の距離だ。ただし、そこに近づけば近づくほど、瘴気が濃くなる。それに応じて、喰らい花も強力になっていくだろう。」
「それでも、進むしかないんだろう?」
カイはリリィの寝顔を見つめながら、短剣を研ぎ始めた。
イサムはその言葉に答えず、炎の中をじっと見つめていた。
◇ リリィの覚醒 ◇
夜が深まり、静寂に包まれた谷に微かな音が響いた。リリィが目を覚まし、ゆっくりと体を起こしたのだ。
「リリィ、大丈夫か?」
カイが心配そうに彼女に駆け寄った。
「……うん。少し、体が軽くなった気がする。」
リリィはそう言いながら、両手を見つめた。そこにはかすかに光が宿っている。
「力が……制御しやすくなってる?」
彼女の声には驚きと戸惑いが混ざっていた。
「何が起きてるんだ?」
カイが尋ねると、イサムが近づいてきて答えた。
「核を破壊した影響だろうな。お前の力は喰らい花の瘴気に反応している。それが濃密な瘴気の塊を破壊したことで、何らかの変化をもたらしたのかもしれない。」
「それがいいことなのか、悪いことなのかは……まだ分からないってこと?」
リリィが不安そうに尋ねる。
イサムは短くうなずいた。
「だが、一つだけ確かなことがある。お前の力は、瘴気の源を破壊する鍵になる。次は、もっと大きな試練が待っているだろう。」
◇ 静かな決意 ◇
その夜、リリィはカイに言った。
「カイ、私、怖い。でも……この力を使わなきゃいけないって、分かってる。」
カイは彼女の手をそっと握った。
「無理をするな、リリィ。お前がいなければ、俺はここまで来られなかった。だから、これからは俺が――」
リリィは小さく首を振った。
「ダメだよ。カイばかりに頼るのは……。私も戦いたい。たとえこの力が私の命を削るものでも、使わなきゃいけない時が来たら、私は歌う。」
「……分かった。でも、絶対にお前を一人にしない。俺が必ず守る。」
二人の間に静かな絆が結ばれた。その絆は、瘴気の暗闇に飲み込まれそうな彼らにとって、唯一の希望だった。
◇ 次の旅路へ ◇
翌朝、三人は再び谷を越える旅に出た。瘴気の源に近づくにつれ、空の色は不気味な紫がかり、地面は黒い瘴気の結晶に覆われていく。周囲には喰らい花の遠吠えが響き渡り、緊張感が漂っていた。
リリィは歌う覚悟を決め、カイは短剣を、イサムは銃を携え、前に進み続ける。
「瘴気の源がどんなものか、分からないが……ここまで来たら引き返すことはできないな。」
イサムが呟く。
カイは無言でうなずき、リリィを見つめた。その目には、彼女を失いたくないという強い決意が宿っている。
「もうすぐだ……」
リリィは呟いた。
カイはその言葉に応えるように、
「俺たちで終わらせる」
と言い放ち、さらに歩みを進めた。
廃墟の中、三人の姿は瘴気の濃霧に消えかかりながらも、その心には確かな光が灯っていた。