第07話
◇ 喰らい花の涙 ◇
地下の巨大空間で出会った異形の怪物――それは、リリィ自身が恐れる未来の姿だった。カイは動揺しながらも短剣を握りしめ、目の前の敵からリリィを守ろうと本能的に動き出した。しかし、リリィは震える声で彼を制止した。
「待って、カイ……その子は、たぶん私と同じ――狂花病が進んだ先にある“終わり”なの。」
リリィの言葉が耳に届くと同時に、カイは動きを止めた。目の前の怪物は、明らかに敵意を持ちながらも、どこか迷子のような佇まいをしている。異形化した花弁のような体がかすかに震え、空間に漂う瘴気がその周囲を渦巻いていた。
「私が歌ったら、この子が何かを思い出すかもしれない……!」
リリィはそう言うと、カイの制止を振り切り、一歩前に出た。
「リリィ、危険だ!」
イサムが怒鳴ったが、彼女の意志は揺るがなかった。
リリィの声が静かに響き始めた。彼女の歌声は、瘴気に覆われた地下空間を貫き、重く沈んだ空気に小さな光をもたらすようだった。その歌声は、ただの音ではなかった――それは狂花病に侵され、理性を失った存在に向けて放たれる、深い共鳴と癒しの力を持っていた。
怪物はその声に反応を示した。鋭い咆哮を上げようとした口元がかすかに震え、花弁状の体が萎れるように縮んでいく。そして、その中から現れたのは、かつて人間だったことを思わせるかすかな面影だった。
「私たちは同じなの……狂花病に侵されて、いつか人間ではなくなる運命を持つ者。でも、私はあなたを救いたい。」
リリィの声は歌から言葉へと変わり、その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
怪物はもがきながらも彼女の言葉に耳を傾けているかのようだった。その瞬間、カイは短剣を握る手をさらに強くしめた。彼女が歌い続けることで状況が好転する保証はどこにもない。それどころか、歌によって怪物が暴走する危険もある。それでも、彼女の覚悟を信じることにした。
「……ダメだ、もう時間がない!」
イサムが焦りの声を上げた。
彼の言葉通り、地下空間全体が徐々に崩壊し始めていた。瘴気の源から噴き出す圧力が限界に達し、天井から崩れ落ちる瓦礫が三人を取り囲むように散らばっていく。
「この状況でいつまでも怪物に情けをかけていられるか!」イサムは銃を構え、リリィを守るために怪物を狙った。
だがその瞬間、リリィが声を張り上げた。
「やめて! まだ……まだ可能性がある!」
イサムの指が引き金にかかりかけたその時、怪物が低く唸るような音を発した。そしてその瞳が、一瞬だが確かにリリィを見つめたのだ。それは、理性の欠片が戻ったかのような、かすかな光だった。
「見て! あの子はまだ完全に“喰らい花”になりきってない!」
リリィの言葉にイサムが動きを止める。
カイもその瞳に何かを感じ取った。希望――それは、この荒廃した世界でどれだけ探しても見つからなかったもの。しかし、リリィの歌が確かにそれを引き寄せていた。
怪物はゆっくりと動きを止めた。そして、花弁の隙間から人間らしい顔が覗き始める。それはかつて誰かの家族だった者かもしれない。いや、もしかすると、リリィ自身が目にしているのは「自分の未来」の投影なのかもしれなかった。
「ありがとう……」
そのか細い声が、突然リリィの耳に響いた。
彼女は目を見開いた。
「あなた……まだ、私たちの声が聞こえるの?」
だが次の瞬間、怪物の身体が激しく痙攣し、周囲に瘴気を撒き散らした。それは命の終わりを告げるかのようだった。リリィが手を伸ばそうとした瞬間、カイが彼女を引き戻した。
「危ない! これ以上近づいたら、君まで巻き込まれる!」
リリィの瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。だが彼女はその場で歌い続けることを選んだ。それが、その怪物にとって最後の「救い」になると信じて。
怪物がその体を完全に崩壊させると同時に、地下空間全体が震動し始めた。天井から大きな瓦礫が落ち、瘴気の源から噴き出す闇のエネルギーが周囲を飲み込んでいく。
「ここを出るぞ!」
イサムが叫び、カイとリリィを抱えるようにして走り出した。
彼らが出口にたどり着くまでの間、後ろから響く爆発音が彼らを追い立てる。その中で、リリィは何度も振り返った。目の前で消えた怪物の姿が、彼女の心に深く刻まれていたからだ。
「きっと、まだ救える人たちがいる……」
リリィは小さくつぶやいた。
地上に出た三人は、荒廃した空の下で深く息を吸い込んだ。瘴気の濃度は依然として高かったが、地下での激闘を思えば、外の空気がいくらか安らぎを与えるようにも感じられた。
「リリィ、あの時お前が見たものは何だったんだ?」
カイが尋ねた。
彼女は静かに答えた。
「あの子の中に、まだ人間の部分が残ってた……それに、私の歌が届いていた。たとえ一瞬でも、それが事実だった。」
「そんな甘い考えでこの世界を生き延びられると思うなよ。」
イサムが冷たく言い放つ。しかし、その目にはどこか彼女の言葉を否定しきれない葛藤が見えた。
「でも、信じたいの。」
リリィは強い意志を込めて答えた。
「この世界が完全に壊れる前に、まだ希望を取り戻せるって。」
カイはそんな彼女を見つめ、そっと手を握った。
「信じよう。君がそう言うなら、僕も信じる。」
三人は再び歩き始めた。瘴気の源はまだ完全に破壊されていない。次の目的地はさらに深い闇の中にある。
だが彼らの胸には、あの怪物の瞳に宿った微かな光が、わずかながら希望を灯していた。
◇ 影の裏切り ◇
地上に上がったカイ、リリィ、イサムの三人は、荒廃した世界を見渡しながら次の目的地に向けて歩みを進めていた。瘴気の源は地下都市のさらに深部、地底の裂け目の奥に存在するというイサムの情報を頼りに、彼らは隠れたルートを目指していた。しかし、地上の空気は地下とは比べものにならないほど重く、狂花病を抱えるカイとリリィの体力を確実に蝕んでいた。
リリィが足を止めたのは、夕焼けに染まる廃墟の中だった。
「少し休もう。カイ、顔色が悪いよ……」
彼女はそう言い、瓦礫の間に小さな空間を見つけて腰を下ろした。
カイは微かな笑みを浮かべ、リリィに続いて座り込んだ。
「君のほうが無理してるように見えるけどね。」
「私のことはいいの。それより、ちゃんと休まないと……私たち、先に進めなくなる。」
リリィの言葉に、イサムは一歩離れた場所から冷たい視線を投げた。
「ここで立ち止まっている時間なんてないんだ。瘴気の源が活動を活発化させている以上、俺たちが遅れるほど世界の状況は悪くなる。」
「分かってる。でも、私たちが倒れるほうがもっと悪いでしょう?」
リリィが毅然と答える。
イサムはそれ以上言葉を続けなかったが、その表情には焦燥感がにじんでいた。何かを隠しているような彼の態度に、カイは密かに警戒を抱いた。
◇ 廃墟の中で見つけた「声」 ◇
休息を終え、再び歩き出した三人は、ある奇妙な音に足を止めた。それは廃墟の奥深くから聞こえてくる、か細い歌声だった。風に乗ってかすかに耳に届くその音は、人間の声であるにもかかわらず、どこか狂花病の喰らい花たちが発する不協和音にも似ていた。
「誰かがいるのか?」
カイが声をひそめて言う。
「待て、これは罠かもしれない。」
イサムが警告を発したが、リリィは前へ進み出た。
「この声、ただの喰らい花のものじゃない……」
リリィの瞳がどこか引き寄せられるように輝いていた。
「私の歌と同じ匂いがする。」
「おい、やめろ!」
イサムが叫ぶ間もなく、リリィは瓦礫を超え、廃墟の奥へと進んでいった。カイは短剣を構えながら、慌ててその後を追う。
廃墟の中心には、瘴気に満ちた空間が広がっていた。その中心に立つのは、異様に長い腕と花弁のように裂けた背中を持つ喰らい花――だが、その怪物はリリィを見つめ、まるで彼女を知っているかのように動きを止めていた。
リリィの歌声が自然と口をついて出た。彼女の声が廃墟に響くと、喰らい花は苦しそうにうめきながらも、次第にその姿を変えていった。裂けた花弁の間から現れたのは、人間らしい面影だった。
「あなた……誰なの?」
リリィが問いかけると、喰らい花の唇が微かに動き、掠れた声を漏らした。
「……リリィ……私を、忘れたのか?」
その言葉に、リリィは息を呑んだ。声の主――それは、かつて彼女が孤児院で共に過ごした「姉」とも呼べる存在、ミラのものだった。
◇ ミラの記憶 ◇
リリィは呆然と立ち尽くした。ミラはリリィにとって特別な存在だった。孤児院で苦しい生活を送っていたリリィを、いつも優しく励ましてくれたのが彼女だった。だが、ある日突然、ミラは姿を消した。それ以来、彼女がどうなったのか、リリィは何も知らなかった。
「ミラ……本当に、あなたなの?」
リリィの声は震えていた。
「そう……私は、あなたを探していた……でも……狂花病が……私を……」
ミラの体が震え、再び花弁が裂け始めた。彼女は完全に喰らい花に変貌しようとしていた。
「歌をやめろ、リリィ!」
イサムが叫んだ。
「それ以上続けたら、逆に彼女を暴走させる!」
だがリリィは止まらなかった。涙を流しながら、ミラの名前を呼び続け、歌を紡ぎ続けた。その声にミラの瞳がわずかに揺れる。
「ありがとう……リリィ……でも……ここで、私を終わらせて……」
ミラの言葉に、カイは瞬時に状況を察した。
「リリィ、下がって!」
彼は短剣を構え、ミラに向き直った。
「待って! 彼女を傷つけないで!」
リリィが叫んだ。
「違う、彼女は自分を止めてほしいんだ。」
カイの瞳には苦しみと決意が宿っていた。
◇ 裏切りの銃声 ◇
カイがミラにとどめを刺そうとした瞬間、鋭い銃声が響いた。カイの腕が跳ね上がり、短剣が瓦礫の上に転がった。イサムの銃口がカイに向けられていた。
「何をするんだ、イサム!」
カイが怒りをあらわにする。
「お前たちに付き合ってる時間はもうない。」
イサムの声は冷たかった。
「ミラだろうが誰だろうが、この廃墟での戦闘は無駄だ。俺には俺の目的がある。」
その言葉にリリィが叫んだ。
「私たちを裏切るつもりなの?」
イサムは答えなかった。ただ、銃を構えたまま背を向け、廃墟の出口へと歩き出した。
「イサム!」
リリィが追いかけようとするが、カイが彼女を引き止めた。
「今は彼を追うべきじゃない……」
ミラは再び喰らい花の姿に戻りかけていた。彼女の体が瘴気に包まれ、完全に怪物化するまで時間は残されていない。
「カイ、お願い……彼女を助けて……!」
リリィが涙ながらに懇願する。
カイは迷いながらも短剣を拾い上げ、ミラに向き直った。
「分かった。彼女を、楽にしてやる。」
◇ ミラとの別れ ◇
「ありがとう、リリィ……私を、忘れないで……」
それがミラの最後の言葉だった。
カイの短剣が静かに閃き、ミラの体は光の粒となって消えていった。彼女が残した瘴気は一瞬にして薄まり、廃墟には静寂が戻った。
リリィはその場に崩れ落ち、涙を流した。
「ごめんね……助けられなくて……」
カイは彼女の隣に座り、そっと肩に手を置いた。
「君は十分に頑張ったよ。ミラもきっと、それを分かってくれた。」
「……でも、まだ救える人たちがいるなら……私は諦めたくない。」
リリィの瞳には新たな決意が宿っていた。
カイは彼女を見つめ、静かに肯いた。
「ああ、そうだな。僕たちはまだ終わってない。」
遠くに去りゆくイサムの影を見つめながら、二人は再び歩き出した。瘴気の源を目指し、そして裏切りの真相を確かめるために。