第05話
◇ 希望の灯火 ◇
カイは立ち尽くしていた。目の前に広がる光景は、まるで夢のようだった。荒れ果てた大地、廃墟と化した都市の中に、突如として現れた小さなオアシス。その中心には、一輪の花が静かに咲いている。周囲には、静寂が支配していた。しかし、その美しさにはどこか不気味さが隠されているように感じられた。
「これは……」
カイが呟くと、隣で同じように佇んでいたリリィが言葉を発した。
「夢じゃないよね?本当に、花が……」
リリィの声は震えていた。彼女の目の前に広がる光景は、地上で見たことのないものだった。瘴気の影響を受けない一帯――その中に、なぜか一輪だけ、色鮮やかな花が咲き誇っていた。周囲の荒廃した景色に対比して、その花は異様に美しかった。
「なんでこんなところに、花が……」
カイが目を細めながら呟く。
イサムは静かに肩をすくめ、周囲を警戒しながら歩み寄る。彼の顔に浮かんだのは、いまだに解けぬ謎に対するわずかな不安だった。
「……あの花、ただの花じゃない。ここは危険だ。無駄に近づくな。」
イサムは冷静な口調で警告する。
だがカイとリリィは、その警告に耳を傾けることなく、花に向かって足を進めた。今の彼らには、少しの希望でも逃したくなかった。それがどれほど小さな光でも、絶望の中でそれがどれほど大きな力を持つかを知っていたからだ。
リリィが花の前に立つと、その花は静かに揺れ、まるで彼女を歓迎するかのように風に揺れた。リリィはそっとその花に手を伸ばし、花びらを指先でなぞる。その瞬間、花の周りに不思議な光が現れた。それはかすかな輝きで、まるで花が生きているかのように感じさせる。
「この花……」
リリィは目を輝かせながら、声を潜めて言った。
「まるで、私を呼んでいるみたい。」
だが、その言葉を聞いたイサムはすぐに身構えた。何かがおかしい。この異常な美しさには、間違いなく裏がある。花の周りの空気が、次第に不穏なものに変わり始めたからだ。
「リリィ、離れろ!」
イサムが叫びながら駆け寄ったとき、何かが弾けるように空気が震えた。その瞬間、花の花弁が一斉に広がり、辺り一帯に暗い影が広がり始めた。
カイは咄嗟にリリィを引き離す。だがその瞬間、花の周囲から奇妙な音が鳴り始めた。それは何かが蠢く音で、耳をつんざくような不快な音が空気を震わせた。
「これ、間違いなくただの花じゃない!早くここを離れろ!」
イサムが銃を構えながら後ろに下がるように促すが、リリィの体は動かなかった。
リリィの目は、完全に花に引き込まれていた。彼女の唇からは、微かに歌が漏れ出している。その歌声は、まるで何かに操られるように響き、周囲の空気がさらに重くなる。
「リリィ!しっかりしろ!」
カイは必死に彼女を揺さぶるが、彼女の体はまるで力を失ったように動かない。
「どうして……こんなことに……」
リリィの目からは涙がこぼれ落ち、彼女はふとつぶやいた。「私は、みんなを助けたかっただけなのに……」
その言葉がカイの胸を打った。リリィが歌うことで誰かを癒し、力を与えようとしてきたこと。だが、その力には恐ろしい代償があったのだ。リリィの歌声が周囲の喰らい花たちを引き寄せ、彼女が歌うたびにその影響が広がっていく。それを理解していたはずだった。
だが、彼女が歌わなければ、カイもイサムも助けられない。彼女の歌こそが、唯一の希望であったのだ。
「リリィ、今はまだ……」
カイが必死にリリィの手を握り、何度も呼びかける。しかし、彼女の目は遠くを見つめたまま、何も答えなかった。
突然、花が再び震え、周囲の空気が急激に変化した。花の中心からは、どこからともなく不気味な声が響き、まるで人の声と花の音が交錯していた。それはまるでリリィの歌に反応しているかのようだった。
「これはただの花ではない……」
イサムは銃を構えながらその場を動かずに見守る。
「奴らの罠だ、リリィ。お前が歌っていることを理解しているんだ。」
その言葉が終わると同時に、花の周囲から一気に喰らい花たちが現れた。彼らは理性を失ったように、ただひたすらに襲い掛かってくる。リリィの歌に反応して、凶暴性が増している。
「やっぱり、そうか……」
カイは拳を握り締めると、短剣を抜き、即座に戦闘態勢を取った。彼の目の前には、無数の喰らい花が迫っていた。だがその中で、最も恐ろしいのはリリィそのものであることを、彼は痛感していた。
「リリィ、お願いだ……目を覚ましてくれ!」
カイは再びリリィに呼びかける。その声が、花の間をすり抜け、リリィの耳に届く。
そして――
「カイ……」
リリィの声が震えながら返事をした。その声には、かすかな希望の光が宿っていた。
「ごめんなさい……私、わかってたの。歌は……私の命を削るだけだって。でも、私は……」
リリィはゆっくりとカイの方を向き、涙を流しながら言った。
「私は、あなたを守りたいだけ……」
その言葉とともに、リリィは無意識のうちに歌い続けた。その歌声は、ただの癒しの歌ではなく、リリィの本当の想いが込められた、世界を変える力となるのだった――。
◇ 絶望の先に ◇
地上に降り立ってから、カイとリリィは数度の危機を乗り越えてきた。だが、今、目の前に立ちはだかっているのは、これまでのどの敵とも違う、深い絶望だった。リリィの歌が引き起こした一連の喰らい花の出現――それは、彼女の力が瘴気に感染したことによるものであり、その力を制御できていない証拠でもあった。
リリィの歌がもたらした影響は、予想以上に大きかった。彼女の歌声が、喰らい花たちを呼び寄せ、荒れ果てた地平線から無数の怪物たちが群がり始めたのだ。怪物化した元人間たちは、理性を失い、ひたすらに喰らうことだけを求めている。その中で、リリィの身を案じるカイの心は張り裂けそうになった。
「リリィ、どうして……こんなことに……」
カイは必死に彼女を揺さぶりながら叫ぶ。だが、リリィは彼の呼びかけにも反応せず、無意識のうちに歌を続けていた。歌声は、次第に響きを増し、周囲の空気を震わせていく。その歌には、どこか悲しげな美しさがあった。
「リリィ、やめて!」
カイはもう一度、彼女の肩をつかみ、力強く揺さぶった。その手のひらが、彼女の体を感じ取る。彼女は温かい。だが、その温もりは、どこか遠い場所に感じられるものだった。
「私……歌わなきゃ……」
リリィの口から、か細い声が漏れた。
「私の歌で、みんなを救わなきゃいけないの。これが私の役目だから……」
その言葉にカイは胸を締めつけられた。リリィが抱える強い責任感、そしてその力を制御できない苦しみ――彼女は、自分が不完全な存在であることを理解しているのだ。それでも、彼女は止まらなかった。歌うことで、誰かを助けることができるなら、どんな代償を払ってでも歌い続けようとしていた。
「リリィ……お願い、俺を信じて。君は一人じゃない。俺が、俺たちがいる。だから、もう歌を止めてくれ!」
その時、リリィはようやく目を開けた。だが、その目にはすでに涙が溢れていた。涙は、頬を伝い、彼女の唇をかすめて落ちた。
「でも、カイ……私、怖いの。もし歌を止めたら、私がどうなってしまうのか、わからない。私の歌が、誰かを傷つけることになるかもしれない。それが、怖い……」
リリィは顔をゆがめ、震えながら言った。
カイは彼女をぎゅっと抱きしめた。彼の胸の中にリリィの頭がすっと収まり、そのまま力強く彼女を守るように抱きしめる。
「怖いのは俺だ。君が歌い続けて、俺が君を失うことが、何より怖いんだ。だから、もう……頼むから、俺のためにも、止めてくれ!」
その言葉に、リリィは静かに頷いた。彼女の唇が震え、彼女の目からこぼれる涙は止まらなかった。しかし、その涙は、悲しみだけではなかった。それは、カイへの信頼、そして彼への想いが込められているようだった。
「ごめんね……」
リリィは小さな声で言った。
「私は、カイのために、頑張るから……」
その瞬間、リリィは歌を止めた。周囲の空気が一変し、喰らい花たちが動きを止めると、静寂が戻った。だが、その静けさは、今度は深い不安とともに広がった。
「よし、これで……」
カイは息を呑んだ。だがその時、イサムの声が響いた。
「危険だ、すぐに離れろ!」
その声と共に、イサムが現れた。彼は冷静な顔をしていたが、その目には焦りが隠しきれなかった。
「もう遅い!」
イサムが叫び、銃を向けた先に何かを見つけた。
「離れろ!」
イサムの指示に従い、カイはすぐにリリィを抱えて後退した。だが、その時、何か巨大な影が迫りくるのを感じた。リリィの歌が止まったことで、喰らい花たちはその理性を取り戻したわけではなかった。その代わりに、リリィの歌声を封じ込めることができたが、同時に彼女自身が引き寄せた「力」が暴走し始めていたのだ。
突然、地面が揺れ、巨大な喰らい花の姿が現れた。それはまるで、何百人もの人間が一つに凝縮したような、異形の怪物だった。その体は花弁のように裂け、周囲に強烈な瘴気を放っていた。その瘴気が周囲を包み込み、空気が一瞬で重くなる。
「くっ……」
イサムは顔をしかめ、銃を構えた。
「だが、これが最後のチャンスだ。あれを倒さない限り、リリィも俺たちも生き残れない!」
その時、リリィがカイの胸から顔を上げ、強く息を吸い込んだ。彼女の目には、決意が宿っていた。
「カイ、私……もう一度歌うよ。」
リリィは、恐れを乗り越えたように言った。
「でも、今度は……違う歌を。」
カイは彼女を見つめた。リリィの決意を感じ取った瞬間、彼の心にも新たな力が湧き上がった。それは、リリィと共に進む力、そして、彼女を支える力だった。
「お前が歌うなら、俺も戦う。共に、必ず生き抜こう。」
リリィは頷き、目を閉じて再び歌い始めた。今度の歌声は、恐れを抱くことなく、純粋な願いが込められていた。