第02話
◇ 命の揺らぎ ◇
ショッピングモールの廃墟を覆う静寂を破ったのは、喰らい花の咆哮だった。その音は不気味に反響し、どこから敵が襲い来るのか分からない恐怖を三人に植え付ける。
「壁際に伏せろ!」
イサムが低い声で指示を出す。彼の手はすでに銃を構え、薄暗い廃墟の空間を見据えていた。
カイはリリィの腕を引き、柱の陰に身を隠す。彼女の肩越しにちらりと見えた怪物の姿に、彼の喉は凍り付いた。喰らい花は人間だった頃の面影をほぼ失い、体中に咲き乱れた花弁が闇の中で不気味に光っている。鋭い爪が瓦礫を掻き分け、肉食獣のような動きでこちらに迫ってきた。
「一体か?」
カイが小声で尋ねると、イサムは首を横に振る。
「三体だ。それも、近くに巣がある。」
その言葉に、カイは背筋が凍るのを感じた。喰らい花が単独で行動することは少ない。近くに巣があるなら、無数の怪物が押し寄せる可能性が高い。
「ここを突破しなければ、生き残る道はない。」
イサムはそう言いながら、銃口を向ける先を慎重に見極める。その目には恐れの色はない。
「俺が一体を引きつける。お前たちはその隙に抜けろ。」
「何言ってるんだ!そんなの無茶だ!」
カイが声を荒げるが、イサムは冷徹な表情で返す。
「いいか、ガキ。俺が死んだら、お前たちが歌を使って生き延びればいい。それが俺の仕事だ。」
イサムの言葉に、リリィの表情が一瞬硬くなる。
「私の歌が喰らい花を止められるって、あなた本当に信じてるの?」
「わからん。ただ、お前の歌は特別だ。試す価値がある。」
カイはリリィの顔を見つめた。彼女は迷いと恐怖の狭間で揺れている。喰らい花がどれほど危険な存在か、二人とも痛いほど理解していた。それでも、リリィの目にはどこか覚悟の色が宿っていた。
「分かった。やる。」
リリィが小さく頷くと、カイは強く反論するべきか迷ったが、彼女の意思を尊重することにした。
「俺が守る。お前の歌が終わるまで、絶対に。」
◇ 歌声の力 ◇
リリィは深呼吸をし、瞳を閉じた。そして、小さな声で歌い始めた。
その旋律は空気を震わせ、廃墟の中に響き渡った。それは悲しみと希望が入り混じったような旋律で、瘴気の充満した荒廃した世界にはまるで似つかわしくない美しさを放っていた。
喰らい花の動きが一瞬止まる。その異形の体が痙攣し、まるで何かを抑え込むかのように震え始めた。
「効いてる…!」
イサムが驚愕の声を漏らす。しかし、その刹那、喰らい花のうち一体が鋭い叫びを上げ、狂ったようにリリィに向かって突進してきた。
「リリィ!」
カイは叫び、リリィの前に立ちふさがる。短剣を振り上げた彼の腕は震えていたが、その目は決して怯えていなかった。
刃が喰らい花の腕を切り裂き、腐敗した花弁が舞い散る。しかし、怪物の力は強大で、カイは吹き飛ばされるように地面に叩きつけられた。
「カイ!」
リリィが叫ぶが、歌は止めない。
「いいぞ、続けろ!」
イサムが援護射撃を放ち、喰らい花の体に何発もの銃弾を撃ち込む。だが、怪物たちは倒れるどころか、むしろますます凶暴性を増しているように見えた。
「リリィ、もっとだ!」
カイは血を吐きながら立ち上がり、再び短剣を構える。その目は強い決意で燃えている。
リリィの歌声が高まり、旋律が一段と力強くなる。それはもはや音ではなく、空間そのものを震わせる力となっていた。喰らい花が一斉に動きを止め、頭を抱えるように地面にうずくまる。
「今だ、やれ!」
イサムが叫び、喰らい花にとどめを刺そうとする。しかしその瞬間、怪物の一体がイサムに向かって襲いかかった。
「イサム!」
リリィは歌を止めようとしたが、カイがそれを制する。
「歌を止めるな!それが俺たちの唯一の武器だ!」
リリィは涙をこらえながら歌い続ける。彼女の声が喰らい花の身体を切り裂くような力を持ち始め、ついに怪物たちは完全に動きを止めた。そのまま崩れ落ち、やがて瘴気の中に溶けて消えていく。
◇ 終わりなき闘い ◇
「やった…」
リリィはかすれた声で呟き、膝から崩れ落ちた。
「リリィ!」
カイが駆け寄り、彼女の体を抱きかかえる。彼女は顔面蒼白だったが、かろうじて意識は保っていた。
「歌いすぎたんだ。喉が焼けつくみたいに痛い…でも、まだ生きてる。」
イサムがふらつきながら立ち上がり、二人に近づく。彼の肩には深い傷があり、血が滲んでいたが、その目には安堵の色が浮かんでいた。
「お前たち…やるじゃないか。」
「リリィがいなかったら、俺たちは全員死んでた。」
カイが彼女を抱きしめたまま言う。
イサムはランタンを拾い上げ、周囲を見渡した。
「巣は壊せなかったが、一時的に危機を乗り越えた。これからが本番だ。」
三人は荒れ果てた廃墟を後にし、次の目的地に向かう。彼らが目指すのは、瘴気の源に近いと言われる「禁域」。そこにはさらなる危険が待ち受けていると分かっていたが、それでも彼らは歩みを止めることはなかった。
◇ 灰色の光景 滲む記憶 ◇
夜が訪れていたが、空は深い黒ではなく、常に灰色に濁っていた。星の光はおろか月明かりさえも届かないこの世界では、希望を探すことが何より難しかった。それでも、カイ、リリィ、イサムの三人は足を止めなかった。彼らは次の目標地点である「瘴気の塔」を目指して、荒れ果てた街を進んでいた。
「道中の葛藤」。
廃墟と化した建物群の中を歩きながら、カイはリリィの様子を観察していた。喰らい花との戦いで力を酷使した彼女は、顔色が明らかに悪く、疲労の色が隠せなかった。
「大丈夫か?」
カイが声をかけると、リリィは無理に笑みを作り、手を振った。
「うん、大丈夫。ただ少し…歌いすぎたかもね。」
その笑みが痛々しく、カイは胸が締め付けられる思いだった。彼女は常に皆を励ます役を自ら引き受けている。それがどれだけの負担を彼女に強いているか、カイは理解していた。
「お前は無理しすぎなんだ。」
カイがぼそりと呟くと、リリィは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに目を伏せた。
「だって、誰かがやらなきゃいけないでしょ。もし私が倒れたら、次はカイが歌ってくれる?」
彼女は冗談めかして言ったが、その声はどこか震えていた。
カイは言葉を返せなかった。ただ、彼女を守るという決意だけが胸の中で静かに燃え上がっていく。
◇ イサムの警告 ◇
「二人とも、集中しろ。」
イサムが先頭で足を止め、振り返った。彼の声には緊張感が滲んでいた。
「この先は瘴気が濃い。気を抜いたらすぐに飲み込まれるぞ。」
目の前には、濃密な瘴気がもやのように漂うエリアが広がっていた。その中では視界が極端に悪化し、何が潜んでいるか分からない。
「ここを進むのか?」
カイが眉をひそめると、イサムは無言で頷いた。
「避けて通る道はない。この先に塔への入り口がある。」
カイとリリィは顔を見合わせ、決意を固めるように頷いた。
「行こう。」
リリィの声は弱々しかったが、その瞳には確かな意思が宿っていた。
◇ 瘴気の中での試練 ◇
濃い瘴気の中に足を踏み入れると、空気が一気に重くなった。呼吸するだけで肺が焼けるように痛み、頭がぼんやりとした感覚に襲われる。
「リリィ、大丈夫か?」
カイが彼女を支えながら進むが、リリィの顔色はますます青白くなっていく。
「平気だよ…カイこそ、しっかりして。」
彼女はそう言いながらも、足元がおぼつかない。
「このままじゃまずいな。」
イサムが立ち止まり、瘴気に耐えられる簡易フィルターを取り出す。
「二人とも、これを使え。ただし効果は一時的だ。」
カイとリリィがそれを装着すると、少しだけ息が楽になった。それでも、瘴気の圧迫感は消えない。
「早く抜けるぞ。」
イサムが前を進むが、その声には焦りが滲んでいた。
その時、不意に瘴気の中から何かが動く音が聞こえた。
「気をつけろ…来るぞ!」
イサムが銃を構えると同時に、喰らい花が霧の中から現れた。
その姿は、これまでに遭遇したものとは異なっていた。巨大で、花弁はまるで棘のように鋭く、腐敗した香りが周囲を覆っている。
「なんだ、あの化け物は…!」
カイが短剣を構えるが、異形の怪物の威圧感に手が震える。
「リリィの新たな力」。
「私が歌う…!」
リリィが息を整え、歌を口ずさもうとするが、その瞬間、カイが彼女の肩を掴んだ。
「駄目だ、今のお前じゃ無理だ!」
「でも…私がやらないとみんなが危ない!」
カイの言葉を振り切るように、リリィは目を閉じて歌い始めた。
だが、その歌声はすぐに異変を起こした。いつもなら周囲を震わせるはずの旋律が、今度は自分自身の身体を侵食しているようだった。
「リリィ、止めろ!」
カイが叫ぶが、彼女の歌は止まらない。そして彼女の体から光のようなものが放たれ、それが喰らい花を一瞬怯ませた。
イサムがその隙をついて銃を放ち、怪物の動きを止めることに成功する。
「行け!」
イサムが叫ぶと同時に、カイはリリィを抱え、全力でその場を離れた。
◇ 喪失の記憶 ◇
瘴気の範囲を抜け出し、安全な廃墟に逃げ込んだ三人。
「リリィ、しっかりしろ!」
カイが必死に彼女の名前を呼ぶが、リリィは気を失ったままだった。その肌には狂花病の兆候と思われる赤い花弁状の模様が広がり始めている。
「これ以上彼女に無理をさせたら、本当に喰らい花になるぞ。」
イサムが警告するが、カイは怒りと悲しみで拳を震わせた。
「じゃあどうしろって言うんだ…!俺たちはここで諦めるのか?」
イサムは一瞬言葉を飲み込んだが、低い声で答えた。
「諦めるかどうかはお前次第だ。ただし、どんな代償を払うことになるか覚悟しろ。」
カイは震える手でリリィの髪を撫でながら、心の中で強く誓った。
「俺が絶対にお前を救う。どんな方法でも。」
その時、リリィの瞳が薄っすらと開き、微かな声で呟いた。
「カイ…ありがとう。」
彼女の言葉はまるで夢のように儚く、カイの胸に突き刺さった。
◇ 次なる試練へ ◇
翌朝、リリィはまだ完全には回復していなかったが、再び歩き出す意志を見せた。カイとイサムはそれを支えながら、瘴気の塔を目指して再び旅を始める。
彼らの目の前には、さらに過酷な試練と選択が待ち受けていることは明らかだった。それでも、カイは彼女を守り抜くと心に決め、歩みを進めていく。