第10話
◇ 終わりの音色 瘴気の源への道 ◇
瘴気の森を抜けた先に広がる景色は、言葉では表現しきれないほど不気味だった。地面は黒くひび割れ、瘴気の濃度が高まっているせいか、目に見えるほどの霧が辺りを覆っている。遠くには、いびつな形状をした塔のような構造物がそびえ立ち、その周囲を漂う光の粒子が瘴気の中心地であることを示していた。
カイは塔を睨みつけた。
「あそこか……瘴気の源っていうのは。」
「間違いない。」
イサムは背中の銃を調整しながら、険しい顔つきで答える。
「あそこに辿り着けば、全ての元凶を断つことができるかもしれない。だが、あれはただの場所じゃない……あの塔自体が生き物だ。」
リリィは一瞬息を呑み、カイの腕にしがみついた。
「生き物……?」
「喰らい花の最終形態だと思え。」
イサムの声には緊張が滲んでいる。
「瘴気の中心を破壊するには、あれを倒すしかない。」
カイはリリィの手を握り返し、強い瞳で彼女を見つめた。
「大丈夫だ、リリィ。俺たちなら、きっとやれる。」
リリィは少しだけ微笑んだが、その表情はどこか儚げだった。
「うん……行こう。」
三人は最後の決戦に向けて、一歩を踏み出した。
◇ 塔の内部 ◇
塔に近づくにつれ、瘴気の圧力が増していく。リリィは胸を押さえながら歩みを進めた。彼女の体に浮かび上がる花弁状の模様は、以前よりも鮮明で、皮膚から浮き上がるように脈動している。彼女はその痛みに耐えながら、カイの後を追った。
「リリィ、大丈夫か?」
カイは振り返り、心配そうに尋ねた。
「平気……」
リリィは笑顔を作ろうとしたが、それが偽りであることをカイは見抜いていた。
塔の入り口は自然に開いており、内部は不気味な静寂に包まれていた。壁は滑らかで、瘴気の結晶が散りばめられているように見える。進むごとに、奥から低い鼓動のような音が聞こえてくる。
「瘴気の心臓が動いてる音か……」
イサムが呟く。
カイは短剣を構え、リリィを守るように前に立った。
「気をつけろ。ここから何が出てきてもおかしくない。」
その言葉が終わるや否や、塔の奥から人型の影がゆっくりと現れた。その姿はかつて人間だったであろう面影を残していたが、体の半分以上が花弁に覆われ、異形と化している。
「……あれは!」
リリィが悲鳴に似た声を上げた。
「喰らい花の親衛隊ってところか。」
イサムは銃を構えた。
「戦うしかない。」
◇ 狂気との戦い ◇
怪物たちはゆっくりとした動きで近づいてきたが、その瞳には理性の欠片もなく、カイたちを捕食することだけを目的としているようだった。イサムが引き金を引き、轟音が塔内に響く。銃弾は的確に一体の喰らい花の頭部を撃ち抜き、崩れ落ちさせた。
「さすがだな……!」
カイは感嘆しながらも、別の怪物が自分に迫るのを見て短剣で応戦した。喰らい花の鋭い爪をかわし、素早く懐に飛び込み、喉元を切り裂く。
「リリィ、後ろだ!」
カイの叫びに応じて、リリィが素早く後方を振り向く。喰らい花が彼女に襲いかかる直前、リリィは自然と歌を口ずさみ始めた。
その瞬間、喰らい花は動きを止め、苦しそうにうめき声を上げた。だが、リリィ自身の体にも異変が起こる。彼女の模様がさらに鮮明になり、血のような色を帯びていく。
「リリィ、やめろ!」
カイが叫ぶ。
リリィは歌を止めると同時に膝をつき、息を切らしていた。
「ごめん……でも、もう時間がないの……」
◇ 決意の果て ◇
塔の最奥に辿り着くと、巨大な瘴気の塊が鼓動しているのが見えた。それはまるで心臓のようで、周囲には無数の喰らい花が壁に取り込まれたような形で存在していた。瘴気の中心――それが、目の前のものだった。
イサムは眉をひそめ、
「これが瘴気の源か……しかし、どうやって破壊する?」
と呟いた。
リリィはゆっくりと立ち上がり、カイの手を握った。
「きっと私の歌が鍵になる。でも……」
「駄目だ!」
カイが強く叫んだ。
「お前を犠牲にするなんて、俺は認めない!」
「カイ……」
リリィの瞳には涙が滲んでいる。
「私たちがここに来られたのは、私が歌う力を使ってきたから……。もしそれで、この世界を救えるなら……それが私の役目だと思うの。」
「そんなの間違ってる!」
カイは激しく首を振る。
「お前を失って、世界が救われたって意味がない!」
その言葉に、リリィは微笑んだ。
「でも、カイが生きていてくれれば、私の心はずっと生きていられる。」
◇ 終焉の歌 ◇
リリィはカイの制止を振り切り、瘴気の中心に向かって歩き出した。彼女が歌い始めると、周囲の瘴気が渦を巻き、中心が激しく脈動し始める。喰らい花たちが苦しむように断末魔の叫びを上げ、塔全体が崩壊しそうなほど揺れた。
「リリィ、やめろ!」
カイは叫びながらも、近づけない。瘴気の波が彼を弾き飛ばす。
イサムは銃を構えたまま、ただ見守ることしかできなかった。
「……これが、彼女の覚悟か。」
リリィの歌声は次第に高まり、その体は光に包まれる。そして瘴気の中心が弾けるように崩壊し、塔全体が大きな閃光とともに沈黙した。
静寂の中で
気がつくと、瘴気の霧は消えていた。塔のあった場所には瓦礫だけが残り、辺り一面が静寂に包まれている。カイはぼろぼろの体で立ち上がり、辺りを見回した。
「リリィ……どこだ?」
彼は震える声で呼びかけた。
瓦礫の中から微かな声が聞こえる。
「カイ……」
カイは急いで声の主の元へ駆け寄る。そこには光を失ったリリィが横たわっていた。
「リリィ……!お前……!」
カイは彼女を抱きしめた。
リリィは微笑みながら、弱々しい声で囁いた。
「カイ、世界は救えたよ……だから、泣かないで……」
カイの涙がリリィの頬にこぼれる中、彼女は静かに目を閉じた。
◇ 命の記憶 瓦礫の中で ◇
塔が崩壊した後、瘴気の濃度は目に見えて薄まり、冷たく澱んでいた空気に初めて清涼な感覚が混じった。だが、その静けさはカイにとって安堵とは程遠いものだった。
「リリィ……返事をしてくれ……!」
カイは瓦礫の上に崩れ落ちるリリィを必死に抱き上げた。彼女の顔は蒼白で、瞳はほとんど閉じられている。肌に刻まれていた花弁状の模様は、薄れていくどころか、赤黒い色合いを帯び、彼女の命を徐々に蝕んでいるように見えた。
「リリィ!」
カイの声が虚空に響く。
イサムは遠くで崩れた塔の残骸を見渡しながら、少しだけ目を伏せた。
「……瘴気の源を破壊した影響だろう。あの歌の力で崩壊させたんだ。普通の体で済むはずがない。」
「だったら……なんで……なんで彼女がこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
イサムは答えなかった。ただ、かすかに肩を落とし、地面に座り込んだ。その沈黙がカイの胸に重くのしかかる。
リリィの唇が微かに動いた。彼女は目を開けようとし、弱々しい声でカイの名を呼んだ。「カイ……」
「ここにいる!」
カイは必死に彼女の顔を覗き込む。
「お前を助ける方法を見つける。絶対に!」
リリィは微笑みを浮かべようとしたが、それさえも力が入らないようだった。
「……世界は、救えた……?私たちのしたこと、無駄じゃなかった、よね……?」
「救えた……瘴気は薄まってきてる。だけど……お前がこんな状態で……」
カイの声が震える。
「良かった……」
リリィはか細い声で続けた。
「だったら、私……」
「言うな!」
カイが叫ぶ。
「諦めるな!お前を置いて、俺だけ生き延びるなんて、そんなの……嫌だ!」
◇ イサムの提案 ◇
イサムが立ち上がり、カイに近づいた。
「まだ可能性はある。」
「……何だって?」
カイは目を見開いた。
「瘴気の源を壊したことで、狂花病そのものは進行を止めるかもしれないが、すでに取り込まれた部分が消えるわけじゃない。だが、この地上には、まだ瘴気に打ち勝つ力を持つ者たちがいるらしい。」
「どういうことだ?」
イサムは少し遠くを見つめるような目をした。
「俺は以前、瘴気の影響をほとんど受けずに生きている集団の噂を聞いたことがある。『花の守護者』と呼ばれる連中だ。彼らは瘴気を浄化する能力を持ち、喰らい花に対抗する力もあるらしい。」
カイはリリィを抱きながら、鋭い視線をイサムに向けた。
「本当なのか?その人たちがリリィを助けられるのか?」
「確証はない。ただ……今のままじゃ、彼女を放っておくことになる。それが嫌なら、俺たちは動くしかない。」
カイはリリィの顔を見つめた。彼女の体温はどんどん下がっている。時間は残されていない。
「場所は?」
イサムは口の端を少しだけ歪めた。
「東の大地にあると言われている。ここから三日かかるが……」
「行く。」
カイの声は迷いのないものだった。
「どんな危険があろうと、俺はリリィを助ける。」
◇ 旅路の始まり ◇
夜が明ける頃、瓦礫の地帯を離れ、東を目指す旅が始まった。カイは背負い袋にリリィをくるみ、傷ついた彼女の体を抱えながら進む。
イサムは先頭を歩き、周囲を警戒するように目を光らせている。
「どうしてお前がそこまで……?」
イサムが不意に問いかけた。
「リリィは……俺にとって家族みたいなものだ。」
カイは歩きながら答えた。
「妹を失った時、俺は何もできなかった。だから、今度こそ……俺が守る。」
イサムは短く息をついた。
「覚悟だけは立派だ。だが覚悟だけで乗り切れるほど、地上は甘くない。」
「それでも、やる。」
その言葉に、イサムは何も言わず、ただ前を向いて歩き続けた。
◇ 初めて見る青空 ◇
三日目の朝、彼らは森を抜け、広がる草原に辿り着いた。そこには、薄くなった瘴気の向こうに、かすかに青い空が見える。
「これが……空……」
カイは呟いた。
リリィが微かに目を開けた。
「空……見たい……」
カイは彼女を抱き上げ、空がよく見える場所に向けて歩いた。
「ほら、リリィ。これが空だ。」
リリィは疲れ切った顔に微かな笑みを浮かべた。
「きれい……こんな空が……あったなんて……」
彼女の目が再び閉じかける。
「リリィ!目を閉じるな!」
「大丈夫……カイがいるから……怖くない……」
◇ 希望の地 ◇
遠くに、一群の建物が見える。それは、瘴気の影響をほとんど受けていないかのように輝いていた。
「あれが『花の守護者』の集落だ。」
イサムが指差した。
カイは歯を食いしばりながら、最後の力を振り絞ってリリィを抱え、集落に向かって駆け出した。
「リリィ、もう少しだ……絶対に助けてやる!」