第01話
◇ 沈む都市 ◇
空気は重く、鼻を刺す瘴気の匂いが地下都市の暗がりに染み込んでいた。カイは狭い路地に身を潜めながら、鋭い目つきで周囲を見回していた。瓦礫の隙間から漏れる淡い光が、街全体に死の影を落としている。
「まだ追ってくるか?」
カイは小声で呟き、振り返った。後ろにはリリィが身を寄せていた。彼女の白い顔には疲労の色が浮かび、だがその瞳だけは強い光を宿していた。
「たぶん大丈夫。喰らい花も、私たちを見失ったみたい。」
リリィはかすれた声で言った。彼女の胸の中で抱えられている小さなリュックがカサカサと音を立てる。中には、この街で彼らが手に入れたわずかな水と乾パンが詰まっていた。
地下都市での生活は日に日に過酷になっていた。瘴気が地上から浸透し、都市全体を蝕んでいる。狂花病の感染者が次第に増え、感染者が喰らい花に変わる恐怖が人々の心を支配していた。
「次の安全地帯まで急ぐぞ。」
カイは短剣を腰に戻し、リリィの手を引いた。その瞬間、頭上で鈍い轟音が響き、土埃が舞い上がる。
「カイ! 崩れてくる!」
リリィの叫び声と共に、巨大なコンクリートの塊が彼らの進路を塞いだ。轟音はさらに広がり、地下都市の屋根が崩壊を始めているのがわかる。
「走れ!」
カイは叫び、リリィを強く引いた。崩れゆく瓦礫の中を、二人は必死で駆け抜ける。だがそのとき、耳をつんざくような咆哮が響き渡った。
暗闇の中から現れたのは、異形と化した喰らい花だった。人間だった頃の面影は一切なく、無数の花弁がただれた皮膚から生え、身体全体が爛れた茨で覆われている。喰らい花の赤い瞳が二人を捕らえた。
「リリィ、隠れろ!」
カイは短剣を抜き、喰らい花の前に立ちはだかった。恐怖に震える心を必死に抑え、冷静に相手の動きを見極める。
喰らい花が低い唸り声を上げると、次の瞬間には猛スピードで飛びかかってきた。カイはすんでのところで身をかわし、短剣を振り下ろす。刃は喰らい花の肩に突き刺さったが、まるで効果がないかのように怪物は動きを止めなかった。
「カイ!」
リリィの声が響く。彼女は恐怖に足をすくませながらも、必死に喰らい花を見つめていた。次の瞬間、彼女は震える声で歌い始めた。
「咲き誇る花よ、風に舞い…」
その歌声は、かすかに震えていたが、不思議と喰らい花の動きを鈍らせた。怪物はリリィに向けて伸ばしていた腕を止め、まるで彼女の声に聞き入るかのように立ちすくんだ。
「リリィ、やめろ!」
カイは叫んだが、リリィは歌い続けた。その声が響く中、喰らい花は苦しむように頭を振り、やがて断末魔の叫び声を上げると崩れ落ちた。
息を切らしながら、リリィはその場に膝をついた。カイが駆け寄り、彼女の肩を掴む。
「無茶をするな!」
「でも…私たち、助かったでしょう?」
リリィは弱々しく微笑んだが、その顔色は明らかに悪く、額には冷や汗が滲んでいた。
「お前の歌、何なんだ?」
「わからない。でも…これを歌うと、喰らい花が止まるの。」
カイは困惑した表情で彼女を見つめた。そのとき、再び地面が大きく揺れる。瓦礫が崩れ、二人の足元が突然割れた。
「リリィ!」
二人は避ける間もなく、暗闇の底へと落下していった。
暗闇の中で意識を取り戻したカイは、うっすらと光が差し込む先に横たわるリリィの姿を見つけた。彼女の肩を揺さぶりながら声をかける。
「リリィ、大丈夫か?」
リリィはゆっくりと目を開けた。だがその視線はカイの背後に向けられ、次の瞬間、彼女は怯えた声を上げる。
「そこ…何かいる。」
カイが振り返ると、そこには一人の男が立っていた。ボロボロのジャケットを羽織り、手には銃を携えたその男は、目を細めて二人を見下ろしていた。
「お前たち、生きてるとはな。運がいいのか、悪いのか。」
その男――イサムは、冷たい声でそう告げた。
◇ 瘴気の地 ◇
灰色の空が広がる地上。崩壊したビルの残骸やねじれた鉄骨が無秩序に転がる荒野の中、カイとリリィはイサムに連れられて歩いていた。周囲には不気味な静寂が漂い、風が吹くたび瘴気の匂いが鼻腔を刺激する。
「どこに向かってるんだ?」
カイがイサムの背中に問いかけた。彼の手は腰の短剣に触れたままだ。目の前の男が信用できるかどうか、まだ判断がつかなかった。
イサムは振り返らずに答えた。
「とりあえず安全な場所だ。地上じゃ『安全』って言葉が当てはまる場所は少ないがな。」
リリィが足元の瓦礫を踏み越えながら小声で呟いた。
「それにしても…瘴気、ひどいね。」
その言葉通り、地上の空気は地下都市よりも遥かに濃密な瘴気で満たされていた。息を吸うたびに肺が焼けるような感覚がある。カイは隣でリリィの顔色を窺った。彼女の頬はやや青白く、呼吸も浅い。
「無理するな。お前、瘴気に弱いんじゃないか?」
「平気だよ。」
リリィはそう言ったが、その声には力がなかった。
イサムが立ち止まり、二人を振り返る。
「お前たち、これをつけろ。」
彼はポケットから小さなガスマスクを取り出し、二人に渡した。
「これがあれば、しばらくは持つ。」
カイとリリィは無言でそれを受け取り、顔につけた。ガスマスク越しに見る世界はますます不気味さを増して見えたが、少なくとも息苦しさは和らいだ。
◇ 生存者の隠れ家 ◇
数時間歩いた後、三人は廃墟と化したショッピングモールにたどり着いた。巨大な建物の入口は瓦礫で塞がれていたが、イサムは慣れた様子で隙間を見つけ、身を滑り込ませる。
「ついてこい。ここは俺がよく使う隠れ家だ。」
中に入ると、わずかに瘴気が薄れているのがわかった。イサムは周囲を警戒しながら、火を灯すランタンを取り出して足元を照らした。かつては賑やかだったであろうモールの内部は、今では朽ちた店舗や壊れた什器が乱雑に散らばるのみだ。
「ここならひとまず安心だ。喰らい花が寄り付かない場所を探すのも、生き残る術の一つってわけだ。」
イサムが言いながらランタンを置いた。
カイはリリィを見やり、彼女が疲れ切っているのに気づく。
「リリィ、座れ。休めるときに休むんだ。」
リリィは頷き、崩れた柱の脇に腰を下ろした。だがその目は鋭い警戒心を失っていない。
「それで、イサムさん。あなたはどうして私たちを助けたの?」
イサムは苦笑を浮かべ、持っていた銃を壁にもたせかける。
「助けた? そんな気はさらさらない。ただ、お前たちを放っておけば喰らい花の餌になるだけだった。それだけだ。」
「じゃあ、どうしてここまで連れてきたんだ?」
カイが眉をひそめて問う。
「お前たちの中に、何かあると思ったからだよ。」
イサムはリリィに視線を向けた。
「特にお前だ、歌を歌ってただろう。喰らい花を怯えさせるような歌をな。」
リリィはぎくりと身を縮める。
「私の歌が…どうして?」
イサムは銃弾を磨きながら淡々と言った。
「俺も詳しいことは知らん。ただ、喰らい花が反応する歌があるって噂は聞いてた。実際に見たのは初めてだがな。」
カイがリリィをかばうように前に出る。
「それが何だって言うんだ? 彼女を利用しようってわけか?」
イサムはカイを一瞥し、肩をすくめた。
「お前たちがどうするかは自由だ。ただ、これだけは覚えておけ。ここにいる限り、全員が瘴気に侵されている。時間の問題だ。」
その言葉にリリィの表情が曇る。彼女は自身の腕を見つめ、そこにうっすらと浮かぶ黒い模様に触れた。それは狂花病の兆候だ。
「…瘴気の源を壊せば、この病気を止められるって本当?」
リリィが震える声で問う。
イサムはしばらく沈黙した後、静かに頷いた。
「そうだ。ただし、瘴気の源にたどり着く前に生きていられればの話だ。」
◇ 迫る危機 ◇
突然、遠くから低い咆哮が響いた。カイはすぐに短剣を握り、リリィも立ち上がる。
「来たか…!」
イサムが銃を手に取り、ランタンの火を消す。モールの外からは異形の足音が響いてくる。
「喰らい花だ。静かにしろ。」
イサムが低い声で命じる。
カイはリリィの手を握り締め、息を潜める。怪物の足音が次第に近づき、廃墟の中に響き渡る。
リリィの瞳が不安に揺れるのを見たカイは、そっと耳元で囁いた。
「大丈夫だ。俺が守る。」
彼の言葉に、リリィは微かに頷く。だがその時、瓦礫が崩れる音と共に喰らい花の姿が現れた。無数の花弁と歪んだ身体が暗闇の中で蠢き、異様な光を放っている。
イサムが銃口を向け、引き金に手をかけた。
「撃つぞ。」
暗闇の中で新たな戦いの火蓋が切られようとしていた。