第21章 目覚める邪竜
「ちょっとこれは、ただごとではないわね」
ラザラ・ポーリンがフィラーゲンの元へとやってきた。
「・・・そのようだ」
フィラーゲンは警戒の目を黒い沼へ向けていた。
黒い沼の中から、何かがゆっくりと姿を現した。黒い泥を外套のようにまとい、徐々にそれが巨体であることをあらわにしてゆく。
泥の中で、怒りに満ちた黄色い目が光った―――そしてそいつは、大きな翼を広げる。
泥が次第に滴り落ち、その隙間から緑色のうろこが顔をのぞかせた。
苦々しく、フィラーゲンとポーリンは顔を見合わせた。
緑色の竜であった。
「まさか、こんな人里近いところにドラゴンがいるなんて・・・!」
ポーリンは驚愕した。
神に最も近い種族と畏れられるドラゴン族は、一般的には人里離れた山奥や絶海の孤島で暮らしていることが多いとされる。少なくともサントエルマの森の教科書には、そう書いてあった。
「ポーリン、本物のドラゴンに遭遇したことは?」
「あるわけないでしょう?あなたは?」
「むろん、ない」
竜のような風貌と言われ、眉目秀麗な外観からしばしば”白髪の美丈竜”と呼ばれるフィラーゲンであったが、本物は全く別物だと思い知った。
感情のない黄色い目はギラギラと輝き、無数の牙が生えた口元からはよだれがしたたりおちる。一見して、人に害なす邪悪なる存在・・・けれども、その姿はちっぽけな人間たちには荘厳で、神がかってみえた。
フィラーゲンは、あることを思い出し、はっとしたように言った。
「五十年ほどまえ、黒い森の近隣の人々は、森の神の怒りにふれ多くの死者を出したという話を聞いた。こいつが・・・”森の神”だったというわけか」
緑竜は眠そうに一つあくびをすると、愚かにも彼女の寝床を荒らしたちっぽけな存在たちを探した。そして、沼の岸辺にいる二人を見つける。
「人間・・・ちっぽけなる人間よ・・・われわを夢から引きずり起こすとは、いい度胸だ」
ドラゴンは首をもたげ、翼を開き、威嚇の態勢をとった。その咆哮は沼の水面を走って二人のサントエルマの森の魔法使いを打った。
二人は、恐怖に足がすくんだ。
指が震え、身体がいうことをきかない。けれども、頭は必死に恐怖を振り払い、身体に命令を出していた。このままでは、即死する・・・
ドラゴンは威嚇の態勢から大きく口を開けた。
そして二人へ向かって、死をもたらす毒の息を吐きつけた。
そのドラゴンの名をフィンガルバドルという。
もう何歳生きたのか覚えていないほどに長生きをした、雌の緑竜だ。
かつていくつもの大戦に参戦し、名誉の傷も受けたし、それ以上に多くの敵を屠った。子どもたちも巣立っていって久しい。
老境を向かえ、百年ほど前にこの地へやってきた。
暗く深い森に囲まれたこの沼は、彼女にとって格好の寝床となった。気ままに数十年という惰眠をむさぼり、余生を静かに送るつもりだった。
五十年まえ、たまたま目がさめたフィンガルバドルは、近くに住む人間どもが森を荒らしていることに気づいた。静かな寝床を侵されることに怒った彼女は、近隣のいくつもの村を破壊し、人間どもを食べた。
邪竜は恐怖で人々を支配する。
二度と土足で森へ踏み込まぬよう、恐怖の烙印を人間どもに与えるのだ。
そして再び長き眠りにつき、しばしば目覚めて気ままに鹿や熊を食べるものの、基本的には穏やかな余生を過ごしていた・・・そして今日である。
教訓を忘れた愚かな人間どもには、再び恐怖を刻み込んでやる必要がある。
彼女は死をもたらすブレスを吐くとともに、大きく翼を羽ばたいて沼面から浮上した。翼が強い風を起こし、泥交じりの水面にも激しく波が立った。
彼女のブレスを直撃して生きている人間はいない。自分が吐き出した毒の霧が晴れるのを待ち、死んだ愚か者たちを確認しようとした。
けれども、どうやったのか、二人の人間は彼女がブレスを吐きつけた場所とは全然違う場所へと移動していた。
「?」
フィンガルバドルはまだ自分が寝ぼけているのかと訝ったが、その人間たちが魔法使いであることを示すローブを着ていることに気づき、納得した。
「なるほど、魔法の使い手か・・・」
年老いて有害性を増した猛毒の涎を滴らせながら、ぼそぼそとつぶやく。しかし、次の言葉ははっきりと、人間どもにも聞こえるように言った。
「魔法使いを食らってやろう。ただの人間よりは、ずっと美味いはずだ」
そうして、緑竜は強く翼を打ち、空へと舞い上がった。
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黒い沼のぬしの挿絵:




