ショート サイン会
表紙を開き、その真っ白な部分にマジックペンを走らせる。目の前の女性は嬉しそうにその軌跡を追うので、ついつい名前を書いてあげようかと提案する。しかし、名前はいいんです、先生のサインが貰えるだけで十分なので、と返されてしまった。
ははあ、随分と謙虚な人なんだなあ、などと思っていると次から次に断られる。確かに、不特定多数の前で名前を言うのには抵抗があるのだろうが、約8割が無記名を希望していた。
書店の店員に聞いてみると、最近は多いんですよね、とどこか煮え切らない返答をする。
自宅へと帰り、ネットで自分の本の売れ行きやレビューなどを読んでいる時だった。検索結果に最新刊の文字と最近流行りのフリマサイトの名前を見つけ、ついついリンクをクリックしてしまった。
「話題の小説家のサイン入り、新品・美品」と書かれたその下を覗くと、価格はひぃ、ふぅ、本の値段のおおよそ5倍が付けられている。まさか、と思いいくつか調べてみると、過去にサイン会を行ったものが結構出回っていて、知っている作家のものも数多く出品されていた。
先程見ていた、自分の本のページを開き直し、よーく観察した。画面の拡大方法がよく分からないので虫眼鏡でじーっと見ていると、サインの隅に点が打ってある。何冊にもサインして疲れてしまい、後半は何度かマジックペンを落としてしまった。恐らくその時に付いたものの一冊なのだろう。
おのれ、読まないどころか金稼ぎに使おうというのか。久しぶりの怒りに身を震わせながら、今書いている小説を数時間で仕上げ、編集へと電話をかけた。
あとがきの部分にわざわざ一行書いた。
「サインが欲しい方に限ります」
このページ以外にはサインしないと会場に立て札を立ててもらい、ファンもそれには反抗しなかったようだ。
翌日、再びサイトを訪れると、やはり出品されていた。
「話題の勘違い小説家のサイン入り、新品・美品」
なに? 俺が勘違いだと?
そこまで言われて黙ってられるか、次のサイン会はいつだと電話で確認する。明日、別の会場でやりますと聞き、策を練った。
人数を限定して、犯人を特定してやろう。
会場には思ったよりも人が押し寄せていて、列を作っていた。片っ端からサインしていくと、思っていたよりも早めに100冊分のサインが終わった。
ふふふ、どうだ。これならオマエも困るだろう。
申し訳ありません、と店員が謝りながら、サインを貰えなかったファンを帰していく。先着順というのはさすがにやりすぎたかもしれない。
帰るなりパソコンを起ち上げサイトを確認する。ははは、今日のは二段仕込み、気付かずに出品していることだろう。
元よりサインは丁寧にする方ではない。少しぐらい読めれば後は分かるだろう、とぐにゃぐにゃ走らせているようなものだ。
人数をカウントしていて、最後の文字に数字を隠していた。これでどの人物かが特定出来る。
新着の出品一覧にある自分の本をクリックする。
「話題の勘違い小説家、痛恨のミスとサイン入り、100名限定品・美品」
何? どういうことだ。
画像を虫眼鏡で観察すると、やられた、と声を上げてしまった。肝心の部分が付箋で隠されている。これでは何人目に書いたものなのか分からない。しかし、この出品者の物を買った場合にはどうなるのだろうか。
価格を見ると、普段コイツの付けている5倍、本の値段からすると25倍もの価格が設定されている。
こんなヤツに払う金などはない。冷静に、次の策を考える。
翌日、新幹線で移動した後のサイン会。今日は本にサインしないと看板に書き、立てた。
持参した色紙やノートの切れ端、なぜかサッカーボールなどもあったが書けるものには書いた。
中には着ているTシャツや腕に書いてくれというものもあったが、洗ったら落ちてしまうではないかと問うと、いえ、これでいいんですと笑顔で返される。
帰りの新幹線の中。慣れないスマホ操作でサイトを確認すると、出品されていなかった。
そうだろう、本に書いて無ければ売れないだろう。小説家のサイン入りサッカーボールなど、胡散臭くて誰も買うまい。
ようやく勝った。
自宅に帰るなり買っておいたシャンパンを開け、一人虚しく酔いつぶれて、久しぶりにぐっすりと寝た。
翌朝のニュースで目が覚めた。どうやらテレビを点けっぱなしにしていたようだ。殺人がどうとか不祥事がどうとか、そういうニュースが流れていく。
「次のニュースです。最近話題のフリマアプリで一瞬出品されたものが――」
画面を見ると、それは肌色をしていた。もう、サインは書くまい。