迷子の悪魔 前編
ここヴァレンティノ地方は年間を通して温暖で、広大な土地を生かしたワイン用の葡萄の栽培が盛んだそうだ。有名なワイナリーはこの地方を中心に数多く点在し、国内流通しているワインのおよそ三割がヴァレンティノ産だという。
特に領主であるユリウス・ヴァレンタイン伯爵の屋敷があるリュペスの街は、統治する彼の魔力が大地に染み渡る影響で魔族にとって高品質の葡萄が出来るため、その葡萄で作られるワインは最高級品として非常に高値で取引されているらしく、街の財政はかなり潤っているのだという。
そんなことを教えてくれたのは、この屋敷の庭師であるフレッドさんだ。使用人たちの多くが吸血種である中で彼は唯一の人間であり、日光に弱い吸血種たちに変わって隣接する大きなローズガーデンを一人で世話している。
天辺が綺麗につるりと丸く禿げ上がっているが、それでも御歳八十歳になるとは思えないほど若々しくとても元気だ。背筋はピンとまっすぐで、何なら一輪車に必要な道具をすべて乗せて私よりも軽快な足取りですたこらさっさと歩いていくし、主人であるユリウスよりも健康的な顔色をしている。……吸血種に血色を求めてはいけないかもしれないが。閑話休題。
「旦那様は四十年前、この世界に迷い込んだ儂を手厚く保護してくださった方でなぁ。むこうには帰る場所がないのだと言ったらここで庭師の仕事を与えてくださった。チヨも運が良かったなぁ」
なんてしみじみ言われたが、私は乾いた笑いしか返せなかった。何せ! 私がこっちに来た原因も! 帰れない原因も! 全部あの人のうっかりのせいですからぁ!
そんな魂の叫びを無理矢理飲み込んで、私はこのフレッドおじいさんと一緒にローズガーデンのお世話を手伝っている。向こうに帰れない間暇で仕方ないからだ。
『君から私の魔力が抜けるまで一ヶ月ほどかかるだろう。せめてもの償いとして、君をもてなそう。ゆっくり過ごしてくれ給え』
なんて部屋を用意してくれたけど、何が「ゆっくり過ごしてくれ給え」だ。そもそもあの人のうっかりのせいで一ヶ月こっちに滞在する羽目になったんでしょうが。
そんな諸悪の根源たる当の本人は現在向こうの世界に出張中。あれから三日が過ぎたが、未だに例のこちらからの迷い人が見つかっていないらしく、げんなりとした顔で出かけていくのを三回ほど見送っている。早く見つけ出さないと女王陛下にお小言を言われてしまうとか何とかぼやいていたのは昨晩のことだ。
貴族も大変なんだな、とほんの少しだけ同情した。出会い頭に血を啜るという暴挙を仕出かしてくれた手前、ほんの少しだけだ。これがイケメンじゃなかったら「お巡りさん、こいつです」と突き出していたところである。……地位的に揉み消されそうだけど。
「そういえばフレッドさん、例の向こうに迷い込んだのってどんな魔族なんですか?」
「さぁなぁ。その手の仕事は儂ら使用人には聞いたところでどうこうできる話でもないし、旦那様もお話にはならん」
「ふーん」
「ま、心配しなさんな。旦那様ならすーぐ見つけてくださるさ」
何せあの方はとっても優秀なお方だからな、とフレッドさんは笑った。
優秀、ねぇ……。
ほわんほわんと彼の人を脳裏に思い描く。
うっかり仲間とはぐれ、うっかり行き倒れて、うっかり現地人を襲った挙句に気絶した相手を慌ててこちらに連れ帰ってしまったうっかり八兵衛も真っ青なうっかりのピタゴラスイッチを華麗に決めてくれた人物が、果たして本当に優秀なのだろうか。うっかりがゲシュタルト崩壊しそうである。もしかしてあれはわざとなのか?
いまいち信用ならないなぁ、と思いつつも私は彼の食事である大輪のバラを丁寧に収穫するのだった。
◆◆◆◆◆
夕方六時を回る頃、屋敷の使用人たちが起き出して賑やかになる。彼らは私たち人間と違って昼間に眠り夜に活動する。そんな彼らにその日収穫した主人用のバラを届け、日中にあったことを引き継ぎすることでフレッドさんの仕事は終わる。
七時、起きてきたユリウスと挨拶を交わして、食卓を共にするのがここ数日の光景だ。
もてなすと言った言葉通り一応私はユリウスの客人という扱いになっているらしく、すこぶる丁寧にもてなしてもらっている。なのでフレッドさんの仕事をお手伝いしてると言ったら、客人に仕事をさせるなどと彼は渋い顔をした。屋敷から出ることも出来ずに暇だからと言ったら納得してくれたが、せっかく相手してくれるフレッドさんの不利益にはならないよう、仕事の邪魔だけはしないように気をつけるようにしている。
私の前には吸血種の使用人達が特別に作ってくれた人間用の食事と、彼の前には私が収穫したバラが一束と赤ワイン。なんだかとても不思議な光景だった。
「チヨ、ここでの生活は如何かね?」
「えっと……今日はフレッドさんにバラの品種について教えてもらって、楽しい一日でした」
「そう、それはよかった。何か困った事はないかい?」
「今のところ特には」
「何でもいいのだよ? こちらの都合で引き止めてしまっているのだからね、必要なものがあれば何でも言いなさい」
「無事に家に帰れればそれで十分です」
言外に「ちゃんと帰せよ」と念を押しておく。しかし彼はその事に気づいているらしく「そう」とだけ返し、決して帰すと明言はしなかった。これは早いところ彼からしっかりと言質を取っておいた方がいいかもしれない。
「ところで、例の行方不明者は見つかりそうですか?」
今はまだ深追いをしない方が良いだろうと判断し、とりあえず私は話をそちらに逸らすことにした。すると彼はうっと言葉を詰まらせ、それまでの貼り付けた笑みを崩して途端にしょんぼりとした表情を浮かべて言う。
「それが全く。あちらに渡っていることは確かだが、どうにも足取りが掴めなくてねぇ。実に厄介だよ」
そう言うと、彼は憂い顔で血のように赤いバラを一輪手にして、そっと唇を寄せた。途端に瑞々しいそれは花弁だけでなく茎まで枯れ果て、灰となって音もなくかき消える。ゴシックホラーの代名詞とも言える吸血種らしい耽美さとでも言うべきだろうか。
一歩間違えば寒々しい絵面になりかねない仕草も、こうして一枚の絵画のように成り立っているのは、この無駄に作画コストの高そうな整った顔立ち故だろう。中身のうっかり八兵衛さを簡単にかき消すほどのイケボなイケおじマジックってすごい。そんなことを考えながら私は彼の言葉を反芻してから尋ねた。
「こちらの住人が向こうに渡ると、結構簡単にわかるものなんですか?」
「あぁ。世界の裂け目が出来るとそこから魔力が向こうの世界に流れ込むから、その地点だけ魔力濃度が極端に低下するし、何かしらが通り抜けると乱れが生じるからね」
「へぇ。……って、魔力が向こうに流れ込むって、それ大丈夫なんですか?」
結構な大問題だと思うのだが、どうやらそうでもないらしい。
ユリウス曰く、向こうの世界はほぼ魔力値がゼロに等しく、裂け目からこちらの魔力が漏れたとしても大抵はすぐに霧散してしまうのだという。尤も裂け目周辺の魔力値は上昇するので、それに引き寄せられて死霊なんかが寄ってくることがあり、そのまま何らかの対処しなければ即席心霊スポットの出来上がり、ということらしい。嫌な副産物だ。
「あ、ちなみに今の君は私の魔力が移っているから、そのままあちらに帰ればもれなく死霊たちが両手を広げてお出迎えしてくれると思うよ。魔力を食らってうまく進化すれば、君とおしゃべり出来るようになるかも!」
「魔力とやらが抜けるまで、一ヶ月きっちりみっちりお世話になります」
ふざけんな、そんなの絶対に嫌だ!
ギッと睨みつけると、彼はにこにこと楽しそうに笑って「冗談だよ」と白々しく返してくるが、とんでもない輩である。そもそも誰のせいでこんなことに、と言いたいことは山ほどあるものの証拠隠滅と言わんばかりに放り出されても困るので、私は大人しく豆と野菜のコンソメスープをもぐもぐと咀嚼した。
「それにしても参った。早くあの子を連れ戻さないと、そろそろ本格的に面倒なことになりそうだ」
「あの子? もしかしてお知り合いですか?」
「知り合い、というかねぇ……」
どうやらいなくなった人物自体は判明しているようだが、しかし彼から白々しい笑みが消え、代わりに見送りの際によく見る心底げんなりした顔で長い長いため息をつくところを見ると……何となく嫌な予感しかしない。
「いなくなったのは知り合いの悪魔なのだよ。何というか、無邪気な子どもが無駄に力だけ付けたような子だから、飽きたら何をしだすかわからない」
だからちょっと苦手なんだよね、とまた一輪バラを指で摘まんで弄ぶその目は、上から厄介ごとを押し付けられて乾いた笑いを浮かべる会社の上司のそれによく似ていた。うーん、中間管理職がんばっ!
◆◆◆◆◆
きらきらひかる よぞらのほしよ
光で溢れる都心の夜空では、より強い光を発する星しか見えない。そのなかでも特に光る星は夕暮れの空にすら光り輝き、いち早く見つけてもらえる。夜が来てようやくここだと叫べるようになる頃には、私よりもきらきらと光る星ばかりが夜空で誇らしげに煌めく。
ならば、強く光る星を全て消してしまえばいい。
「ふふ」
彼女は上機嫌だった。
また一つ、自分よりも光る星が消えた。そうして一つ一つ丁寧に消していけば、きっと私が一番星になれる。
「わぁ、この子はとっても美味しそぉ」
私の横を物音ひとつ立てずに通り過ぎたのは、眩いほどに美しい銀糸の髪。月の光を浴びてきらきらと不思議な光を帯びたそれを揺らし、無邪気な子どものように血溜まりを踏むその人が楽しげにそう声を上げると、光を失って転がる星の亡骸へとしゃがみ込む。
そこに何があるのか私には見ることが出来ない。だが彼には私には見えない特別な何かがはっきりと目に見えているらしい。まるで大事なものを両手で救い上げるような仕草をすると、月明かりに翳してしげしげと観察している。そしてひとしきり観察し終えると、大きな口を開けて……
こくり。
そんな嚥下の音すら聞こえてきそうだった。
「もっともっと、たくさん食べさせてあげる。だから私の願いを叶えて、カミサマ」
振り返るその人は、満月によく似た金の瞳に愉悦を滲ませ、にんまりと哂った。