占い~今日のラッキーコラム、読後にポイントを入れると良いことがあるかも~
朝、テレビや新聞にある「今日の占い」私は結構好きである。スーパーや電車内のテレビ広告ですら今日の運勢は? なんてのが流れるとつい足を止めて見てしまう。
たいていは星座、たまに血液型、干支。それぞれちょっとした演出はあるものの、書かれていることの信憑性についてはそれほど気にしない。見て5分もすればきれいさっぱり忘れてしまう。それでも見てしまうのは、1日の始まりでなんでもいいから「ちょっといいこと」を目にしたいからだ。今日の運勢が少し良いというだけで、なんだか気分が良くなって1日楽しく過ごせそうな気がする。
我ながら単純である。
実際、この手のちょっとした占いは日本中に溢れている。厄年だって、いわば干支占いみたいなものだ。
お正月、神社でお参りするとくれる本にも一白水星とか六白金星とか陰陽道の占いみたいなものが書かれている。
年末になると六星占術とかで火星人だの水星人だのの来年の運勢本が出てくる。地球人のはなぜないのだろうかと毎年思う。
一時はやったものとしては前世占いや動物占いなどがある。家電占いや昆虫占い、電車占い、戦国武将占いのような今ではすっかり見なくなったものもある。たまたま私の目に入らなくなっただけかも知れないが。
そのうち、このサイトでも隅っこあたりに出来るのではと期待している。
【今日の牡羊座は誤字脱字に要注意。自作をじっくり推敲してみて。とんでもない変換ミスがありそう。ブックマークを外されてもドンマイ】
【今日の巳年生まれの人はラッキーデー。トラックに轢かれたら異世界に転生できるかも】
【今日のA型。更新された作品の中に掘り出し物を見つけるかも。ラッキーアイテムはピーナツバターのコッペパン】
とか。
この手のは、読んで自分に当てはめては、あははと笑ってお終いになるのがほとんどである。テレビや本などの1コーナーとして私たちをほんの少しだけ楽しませてくれる。
見る方読む方もあまり大きく受け取ることはせず、せいぜいその場の話のネタにするぐらい。だからこそ、長く広く愛され続けているのだろう。
だが、中には深刻な占いもある。対面方式というか、占い師とお客とが1対1で行うもの。これは洒落にならないものが多い。
これで一般的なのは、やはりタロットカード、手相、人相、水晶玉あたりだろう。最近見ないが、昔風の筮竹(乾燥パスタみたいな細長い串)をじゃらじゃらさせる占い師もまだいるのだろうか。
昔、テレビで見た中には女占い師が自分のおっぱいを揉ませる「おっぱい占い」というのがあった。今もやっているかどうかわからないが、これは是非ともやってみたい。今、その人はおばさんどころかお婆さんになっているはずだから、若くてきれいで巨乳な後継者が育っていることを望む。
そんな対面占いは、テレビや雑誌の占いと比べて真剣勝負。1対1で占う以上、内容は細かいし、占ってもらう側もそれ相応のアドバイスを期待している。占いの演出も大事だが、中身も大事だ。
とは言っても占い師は神ではない。どうしても抽象的な言い回しをするしかない時もあるだろう。まるで政治家か宗教家だ。
ある占い師を主人公にした漫画で「相談者は大抵納得する言葉」が紹介されていた。
「自分を信じれば上手くいきます」だ。
「やりたいことがあるけどそれで生活できるでしょうか?」「自分を信じて進めば上手くいきます」
「どっちもやりたくて。でもどっちかしか選べなくて」「自分を信じて選べば上手くいきます」
「仕事を辞めて中東へ石油を堀りに行きたいんですが」「自分を信じて掘れば上手くいきます」
「小説家になろうで作家デビューしたいんです」「自分を信じて書けば上手くいきます」
「ロト7で10億当てたい」「自分を信じて買えば上手くいきます」
などなど。
もちろん漫画なので「来週上がる株を教えて」「明日の天気は」「次のロト7で1等当たる数字を教えて」など具体的な答えを要求する客が次々やってくるオチが待っているのだが。
ここまで人が占いを求めるのは、やはり「人の限界」を感じているからだろう。この限界というのは可能性のことではない。背負える責任の限界である。
よく自分がやったことの責任は自分が背負えと言われるが、生まれてから自分がやったこと全ての責任を背負ったら、その重みで潰れてしまう。
だから人は自分の過去を棚に上げる。過去の罪が重ければ重いほど、棚に上げて身軽にならなければ前に進めない。その棚が運命とか宿命とかもっと砕いて言えば「あの時はしょうがなかった」と名付けられているものなのだ。
だから今、自分が何かするに当たって、超自然的な力が働いていることを望むのだ。上手くいかなかった時に「自分(人)の力ではどうしようもない」と言い訳する力が必要なのだ。そして、その超自然的な力が働いていると自分を納得させる方法が占いなのだ。
実際、大昔は占いは政治に大きな影響力を持っていた。王の言葉よりも占いの結果の方が重視されたのも珍しくない。それだけに占う側も必死である。万が一大外れでもしたら「いい加減な占いをして、我々を惑わせ、誤らせた」と良くて鞭打ち、追放。へたをすれば首をはねられる。
だから占い師も大変だ。先ほどのみんながたいてい納得できる言葉というのも、占い師の防衛意識が生み出したものなのだろう。占い能力よりも相手を丸め込む口の美味さ、演出の巧みさが大事だというのもわかる。
書いていて何か話が大きくなってきた。少しスケールを縮めて締めよう。冒頭で書いたように、私は気軽に占いを楽しむタイプだが、それでも妙に気になるものがひとつある。
手相だ。
いつ占ってもらったか具体的な日付はあやふやだが、私は過去、3回、手相を見てもらったことがある。なんで覚えているのかというと、3回とも同じ事を言われたからだ。占ってもらったのは「金運」である。やはりつまるところ人の悩みはこれに尽きる。
1回目は大学時代。ほとんど気にせず、ただ頭の隅っこに残り、たまにネタにするぐらいだった。
2回目は社会人になって同僚と一緒に見てもらった時。言われた時は、あははと笑ってやはりネタにした。
3回目は今の仕事に就く前。無職になった時。言われた時は笑えなかった。マジかよと思った。
その言われた事というのが
「あなたはお金持ちにはなれません。しかし、生活に困るほど貧乏にもなりません」
なんだそりゃ、である。あまりも平凡な答えに、先述した「相談者は大抵納得する言葉」だろうと思っていたほどだ。しかし、さすがに3度も同じ事を言われたら気になる。心当たりもある。
これが当たるとなると、私は平凡な人生を送りそうだと思っていたが、最近になって「老後に備えて2000万円の蓄えを」だの「コロナ不況が来る」だの言われる中、ひょっとして生活に困るほど貧乏にならないというのは勝ち組なのではと思うようになった。
現金なもので、今ではこの占いが当たっていることを願っている。