記憶の残滓 5
大智の言う通り、寝室には自らの意志でそこに現れる老爺の姿があった。
畳まれた一組の布団を前にあぐらをかき、顔に刻まれた皺がそうさせているのかもしれないが、その表情は険しく見えた。
ため息を吐かれると不機嫌そうに見えるほどに、老爺は健と大智の存在を無視してただ布団を見つめ続けていた。
健は試しに声をかけてみたが、その声は届くことなく……というわけではなかった。
老爺は一瞬だけちらりと健を横目で確認し、無視したのだ。
そしてまた大きくため息を吐き、階下からお鈴の音が聞こえ始めると二人には目もくれず階段を降りていってしまった。
「無視された、よね……?」
「無視されたな」
大智の恐る恐るといった疑問に、健は平然と答えを出した。
「ど、どうする? また無視されるかもしれないけど、声かけてみる?」
「どうするかな……。怒らせても厄介だしな」
老爺からすると、面識のない健と大智がこの家に上がり込んでいることがすでに不快だろう。
その上で老婆の記憶を追いかけ回し、干渉しようとしているのだから、閉じ込められてしまっている今の現状で怒りを買うのは避けたいことだった。
とはいえ、閉じ込められているからこそ、この状況を打破する何かがほしかった。
「……もう一度だけ話しかけてみるか」
大智を見るとこくりと頷いたので、階下に降りていった老爺を追うことにした。
階下では、台所に老爺と老婆の姿があった。
二人の姿を目にして大智は悲しげに目を伏せた。先ほど、大智が泣き出した理由。
健も老婆と老爺のやりとりを見て、胸の内に暗く沈み込むやりきれなさを感じた。
互いに死を認めているはずなのに、交わることなくすれ違い続けるその光景。何がそうさせるのか。
それを知るのは本人達だけだというのに、目の前にいて声すらも届いていないような。
悲しみに暮れ、闇に溶け込みそうなほど小さく肩を落とした老婆が姿を消したその瞬間に、健は口を開いた。
「あんた達を助けたい。どうすればいいか、教えてくれ」
老婆がいた空間を険しい瞳で見つめていた老爺は、その剣呑さを八つ当たりだと言わんばかりに健に向けた。
「無責任に手を出すんじゃねぇ」
それだけを言い放ち、老爺もまた姿を消した。
「やっぱり、だめか」
老爺が健に向けたものは、恐らくは警告にすぎない。警告にすぎないが、感じた圧はすでに怒りに触れているような気がした。
背中でびくついた大智の恐怖心がそれを物語っていた。
「あー、くそ」
八方塞がりとはまさにこのことのようだ。
健はがしがしと頭を掻きむしった。視えにくくなっただけでこんなにも無力さを感じるとは思ってもみなかった。
見落としがあるのかもしれないし、突き進めば破れる道があるのかもしれない。けれど、はっきりと視えない今の健には、そのすべてに不安がつきまとっていた。
老爺の警告のこともあり、慎重かつ確実にわずかな手がかりを集めていくしかなかった。
「……大智、なんか視たか?」
「なんかって……?」
「さっき、別々に行動してた時。……何かに触れたか?」
「あ、」
意味を理解した大智は、けれども首を横に振った。
「何も触れなかった」というのが答えだった。
健は躊躇しつつも、わずかな手がかりを確実に集める手段を大智に提案するしかなかった。
「触れるか?」
先ほども似たようなやりとりをした。
行動を別々にする前に、その可能性があるかもしれないぞという、その時は不確実なものだったが。
今度は、記憶に触れることを確実にして。
大智の目は一瞬たじろいだけれど、すぐに真っ直ぐ健を見返してきた。
「うん。大丈夫」
自らの言葉を自信に繋げて、健の不安を見透かしたように大智は強気な笑みを浮かべた。
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大智が過去視できるようになってから、大智が自らの意志でその力を使うのを目の当たりにするのは初めてのような気がした。
だいたい、いつもなら巻き込まれて過去視してしまう事故的な場合が多かったからだ。
改めて家の中を見回し、目ぼしい物を目の前にした大智は大きく喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
大丈夫といいつつ、やはりその行動に移す前には緊張がつきまとう。
「いくよ」
そう言い、リビングにあるソファに触れた。
ふっ、と大智の表情が消える。虚な目を一瞬したかと思えば、すぐに元の大智に戻った。
「だ、大丈夫か?」
「え? あ、うん。大丈夫」
「本当か?」
「普通の記憶だったよ」
普通の記憶。
老婆がこうなってしまっている理由には差し障りのない、何事もない日常ということだろうか。健には分かりかねた。
ひとつ触ってしまえば、大智は次から躊躇することなく目についたものを触った。
その瞬間に、ほんの一瞬だけ大智の意識がどこかへ飛んでいるような気がして健は怖さを感じ、過去を視終わったタイミングでつい声をかけてしまう。
大智は「大丈夫か?」の意味を勘違いして「普通の記憶だよ」と答えるが、健の心配が尽きることはなかった。
次第に大智の顔も曇り始め、次々に伸ばす手を制止して健は大智に向き合った。
「おい、大丈夫なのか? 声をかけてもぼんやりしてることが多いぞ」
遮られた手をそのままに、大智は目をぱちくりとさせて間を置いた。
そして「あぁ」と察してわずかに笑った。
「大丈夫だってば。過去視の後はちょっと意識が混濁するんだ。他人の記憶なのか、俺の意識なのか」
「それが怖いんだよ。混乱するなら、声かけない方がいいか?」
「声はかけてほしい。あ、健がいる、って安心できるから」
「わかった。……今回は役立たずで悪い」
「何言ってんの。俺にも頼ってよ」
大智にやんわりと押されたので健はその場を退いたが、大智は次の物に触れる前にふと手を止めた。
「……でもね、ちょっとしんどい。普通の記憶って、つまりは何気ない日常で、幸せの塊なんだよね。この現状で、そんな過去を視なきゃいけないのは、怖い」
つまりは、その日常が崩れた原因を知ることが。
老婆の記憶を見せられたことから、実際に二人がその年齢まで生きていたことは事実だろう。
霊は年齢、姿を変えて現れることはあるが、健と大智が巻き込まれたのは確かに老婆の記憶だったはずだから。
その年齢まで生きたということは大往生と言ってもいいくらいだが、その分、生きた分だけの過去がこの家にある。
長年の何気ない夫婦生活の中で、最期の時に後悔するほどの約束とは。
大智は再び、あちこちに残る物に触れ始めた。
目ぼしい物といっても、恐らくよく使っていただろう、という確信なく曖昧な見方で決めていた。
最初に触れたソファや食器棚のカップ、台所のテーブルとイス、シャワー、それらは日常的に意識して触れていたもの。
扉の取手や暖簾、階段などは、無意識に触れていたもの。
そのどれもから視えるのは「普通の記憶」らしく、老爺の言っていた『約束』に繋がる情報はなかった。
「……さすがにもう、避けられないや」
どこか、間接的にでも、という淡い期待はなくなってしまったらしい。
目ぼしくはあるが意図的に避けていた、特に老爺と老婆に直結するであろう物を前に、大智は大きく息を吐いた。
ちら、と健を見たので、健は大智の背中に手を置いた。
「触るね」
桐箪笥に、大智は手を置いた。
「あっ……」
その間はやはり一瞬。
声を漏らした大智は、同時にぼろぼろと涙を落としていた。
「何かわかったか?」
桐箪笥に手を置いたまま、大智は健の声に振り向いた。
大智が自らの意識を取り戻せば、その涙はさらに勢いを増して唇が震えた。
「これ、おばあちゃんの嫁入り道具だったんだ……」
「そうか。でも、ここに残されたままなんだな」
「お子さん達、誰も知らないんだ。誰も……何も、知らない」
「知らない? 何もって、どういうことだ?」
大智の説明はよくわからないものだった。
過去視をしてまだ混乱しているのかもしれないし、泣いているせいで不得要領なのかもしれない。
とりあえず落ち着かせようと健は背をなでようとしたが、大智は次に触れるものをすでに視界に捉えてた。
健が止める間もなく、壁際に畳まれていた布団に手を伸ばす。
「おい、大智っ……」
触れた瞬間、大智はハッと瞬きをして「見つけた」とつぶやいた。