記憶の残滓 3
足音と生活音、そして最後にようやく姿を現す喪服姿の老婆と、布団に横たえられた老爺。
鳴り響くお鈴の音は幾度となく繰り返され、その現象にはなぜか健と大智は干渉することができなかった。
具体的に何をしたかと言うと、足音を追いかけてみたのだ。
最初は台所でスリッパの足音。階段から重たい別の足音が聞こえたら、リビングに移動する。姿が視えないので恐らく何度も足音の軌道線上にいたはずなのだが、結局最後まで足音の持ち主にぶつかることはなかった。
それから、まだ確認していなかった浴室。これも足音が移動してからついていった。
水音はやはりシャワーで、誰かが浴びているように音が不規則に跳ねていた。それが終われば扉の重たく軋む音。たしかに扉が開閉したのを、健と大智は見ることができた。
「この家ってもうずいぶん使われてないよね。水、止めてないのかな」
大智の疑問に健も不思議に思い、浴室内の蛇口を捻ってみた。水は出ない。が、たしかに浴室の床は濡れていた。
これに関しては考えても答えは出なそうなので、一括りに『霊現象』としておいた。
「ループしてるってことは、あのばあさんの過去の記憶なんだろうけどな。思い出深いのか、それとも後悔があるのか……」
「何気ない日常生活っぽいけどなぁ。最後、姿が視える時が一番何かありそうなんだけど」
干渉はできないが、変化があるのはそこだけだった。
日常から突如訪れる死は人生の中で『当たり前』なことではあるが、当事者からすると『突然』やってくるものだ。
病気をして余命を宣告されれば終わりが見えるが、だからといって全てを受け入れて迎えられるものじゃない。後悔や悲しみが必ずついてくる。
老婆が繰り返しているのは、恐らく残された者の視点だ。
このループから外れるきっかけは、老婆の行動のどこかにあると思ったのだが。
「……大智、二手に分かれてみないか?」
「二手って?」
「足音を追うのと、それ以外を探索する二手」
この家に入り、現象が起き始めてから健と大智は足音や生活音だけを追っていた。姿が視えたり、接触できるタイミングがあるのではないかと探っていた。
だが一向にそれを見つけられない。繰り返される老婆の記憶はもう、何ループしたかわからない。
「もしかしたら、足音とは違う他の場所に何かあるのかもしれない。あのばあさんの記憶から外れたところで、ばあさんの知らない何かが」
その何かがこのループを終えるきっかけとなるかもしれない。それは同じように現象として現れているかもしれないし、生前にしまい込んだ老婆にとって大切な物かもしれない。
老婆のループを終わらせるには、些細なことでも変化が欲しかった。
「……そうだね、わかった」
大智は少しの間だけ不安げに考えていたが、頷いた。
「健はどっちの方が負担がない?」
「……負担は関係なく、俺は探索したほうがいいんだよな。けど、気になった時に気になったものが視えないんじゃ意味がない」
「俺らには今、それが一番重要だね。わかった」
「大丈夫か?」
「うん、ちょっと怖いけど」
「違う」
健の心配はひとりの恐怖ではない。
何か変化を見つけた時、それに触れるかもしれないということだ。大智は自分の能力をまだ他人事だと思っている節があるように感じる。
「あのばあさんだけじゃない。違う記憶も見るかもしれないぞ」
そう言ってやれば、やはり大智は「あっ」と思い出した表情をする。それでもこの状況では頼る他ないのだが。
「……何かあればすぐ呼べ」
決して大きくはない一軒家だ。
叫ばずとも声を大きくすれば聞こえるし、すぐに駆けつけられるだろう。
「健こそ」
大智は引き攣りそうな顔に笑顔をつくり、気丈にもそう言い返した。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
再び台所からぱたぱたとスリッパの足音が聞こえ始めた。
それを合図に、大智はまず浴室や水回りを確認する。特に変化は見られず、それから二階へと移動した。
ギシッ、と階段が沈むと嫌な感じがするが、それ自体はこの家特有のものだと割り切る。
大智が階段を上りきったのとすれ違いに、ひとつの足音が階段を下り始めた。
顔だけで振り返り、その音がリビングに入っていくのを聞き届けた。
「さて、どっちにいようか……」
とりあえず納戸を開けてみるが、気になるものはない。
二階には部屋が二つあり、そのどちらが怪しいだろうかと考える。物が一つもなく、恐らく長い間使われていなかっただろう空き部屋。
カーテンや絨毯、桐箪笥に布団が一組。生前寝室として使われていただろうもう一つの部屋。
「……まぁ、こっちか」
大智は、ふぅーと息を吐いて寝室を覗いた。
階下ではスリッパの足音が忙しなく動き回っている。その音を耳にしながら、大智は寝室の隅にしゃがんだ。
何かが起こるなら。
神経を尖らせる必要もないほど敏感になっている大智は、ただ恐怖に負けないようにと自身を落ち着けた。
微かな水音が聞こえる。次いで、軽やかに階段を上がってくる足音。
寝室の入り口に目を向けた。きっと姿は視えない。視えないはずだけど、もしかしたら……。
大きく鼓動する。自然と息苦しく荒くなるが、その呼吸をできるだけ静かにと浅く繰り返す。それがより緊張感を高めた。
足音は階段を上りきった。
それからはなぜか気配を感じず、不思議に思い目線で周囲を見回した。
姿はやはり捉えることはなく、一息つこうとしたら。
スーッ
窓際の桐箪笥から滑るような音が聞こえた。
ぱたん
桐箪笥の抽斗は微動だにしていない。しばらく開閉されることなく放置されていただろう桐箪笥は年季が入っており、耳にだけ届く音ほど軽やかに抽斗は開かなそうに思える。
数回繰り返された後、また足音は静かに階段を軋ませながら下りていった。
大智は安堵の息を吐いた。
「はぁ――……」
それは、被るようにして吐き出された聞き慣れないため息だった。