記憶の残滓 1
「バカだ。すっげぇバカだ」
コンビニから健の部屋に戻り、ずぶ濡れだった健はシャワーを浴びた。湯上がりで体はすっきりとし、気分もほんの少しだけ上向きになる。
そこで大智にすべて話したのが間違いだった。
多少のアルコールが入った大智は「えぇ!?」から「なんで?」と詰問気味になり、最終的には「バカだ」を繰り返していた。
不快な気分で流し込むアルコールは美味しいわけもなく、健はイライラが募る。
「うるっせぇ」
先ほどから何度もそう返している。
「昔からひねくれてるのは知ってたけど、最近マシになってたのに……なんで今拗らせてるんだよ」
「拗らせてねぇよ」
「拗らせてるだろ。俺や乃井ちゃんがありのままの健が好きだって言ってんのに、何が気に食わないんだよ」
「別に、気に食わないわけじゃない」
カンッ、と空になった缶をテーブルに叩きつける。
ジト目の大智を無視し、新たな缶を開けた。
「大智、俺の立場で考えてみろ。お前が俺だったら、さくらが一楓さんだったら、お前だって悩むだろ」
「え、全然」
即答する大智に、健は飲み込んだものがおかしなところに入るところだった。
大智は天井を見上げて想像する。もし、大智が健の立場だったら。
次に健に向けられた顔は、にまにまと締まりのないものだった。
「両想いさいこーじゃん。絶対離さないし、何があっても守る」
「一楓さんが視えなかったら、が前提だぞ」
「わかってるよ」
「視えるようになって、人生が変わるかもしれないんだぞ?」
「うん、だから俺が守るんだって」
大智はにまにまとしたまま缶を傾けた。
「両想いなんだから楽しんどけばいいじゃん。健、考えすぎだよ」
「……話通じねぇな」
「通じてるでしょ。せめて自分の気持ちも伝えりゃよかったのに、バカだなぁ」
大智は缶の残りを飲み干すと、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「おいっ、缶!」
「まだ始まってもいないのに終わらせるのはもったいないよ。失敗してもいいから、ちゃんと向き合うべきだよ……」
むにゃむにゃと言葉尻が小さくなっていく。
健が大智の手から空き缶を取ると、大智は布団にくるまった。
健のスマホが短く鳴る。
「乃井ちゃんかなー……ちゃんと好きって伝えなよ……」
そうして、大智はすぅすぅと寝息をたて始めた。
健は空き缶を捨て、スマホを手に取る。
メッセージを早く確認したい気持ちが半分、さくらからだったらどうしようという気持ちが半分。また、さくらじゃなかったらという、情けない気持ちもある。
髪をくしゃくしゃとし、大きく息を吐いた。
汗ばむ手でメッセージを開くと、そこには不可解な文面が記されていた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
翌深夜、場所は下町の密集して並ぶとある一軒家の前。
街灯は少ないが駅から続くアーケード街の明かりが周辺を照らしており、深夜だというのにまったく闇を感じさせない賑やかな所だ。
もちろん、近隣の家の電気はとっくに消えており、賑やかなのは明かりがあるせいでそう感じるだけなのだが。
「ここで合ってる?」
大智がスマホの地図を出して住所を確認している。
「表札はないんだな。……もしかしなくとも、空き家か?」
健がそれらしいものを探すが、見つけたのは表札が掛けられていたらしい痕だけだった。
古びた二階建ての家に明かりはもちろんなく、人気もない。
周りをぐるっと見て歩けるのならもう少し情報がありそうなものだが、あいにく密集した住宅地だ。
有人の隣家との隙間は、小柄な大智でも入れそうになかった。
「……家、入る?」
大智が恐る恐ると確認する。
健は腕を組んだまま、二階建ての家を見上げた。ここから見える窓にカーテンはかかっているようだが、閉められてはいない。
できれば入りたくないし関わりたくないと、健でも思う。
「……入るか」
致し方なく、目の前の玄関に向き合った。
昨夜、健に届いたメッセージは現状通りさくらからのものではなかった。
宛名不明、日時は文字化けを起こし、本文にはこの家の住所と「翌二時」という文だけの謎メッセージ。
一楓が送ってきたのだろうかと思ったが、大智に確認すると一楓からのメッセージなら名前はちゃんと出るはずだ、と。その上、大智にも同様のメッセージが届いていた。
呼ばれているのがどちらか一方ではなく、二人ということに寒気立つ。メッセージを送ってきた者は、健と大智を知っているのだ。
そのため無視することができず、指定された時間にやってきたのだった。
健は玄関の磨りガラスの引き戸に手を掛けた。
力を入れると引き戸の上だけがわずかに動き、下が引っかかった。古さのせいで立て付けが悪くなっているようだが、鍵がかかっている。
「開かない?」
「ダメだな。裏口探してみるか」
カチャリ。
引き戸から手を離し、一歩下がった時だった。
内側からその鍵は開けられた。
「……入れってことだな」
引き戸の磨りガラスにはなんの影も見えない。
誰が開けたのか、メッセージを送ってきた者だろうと検討はつくものの、ではそれが誰なのかわからない。
健は警戒しながら、ゆっくりと引き戸を引いて中に足を踏み入れた。
玄関に入ると、埃の匂いと共に他人の家の匂いが鼻を掠めた。
靴は一足もないのに、棚の上には花のない花瓶や小物が埃を被って飾ってある。
廊下は左側に階段、右側に扉が二つ。のれんが、そのままだ。
そして、突き当たりにも扉が一つ。
「あれ、空き家だよね……?」
大智も健と同じ疑問を口にした。
健は上がり框に指を添わせて滑らせた。指先にはしっかりと灰色がかった埃がついた。
「空き家じゃなかったら、ここに埃が溜まることはないだろうな」
「靴、脱がなきゃダメかな」
「一応他人の家だからな」
「靴下すごいことになりそう……」
はー、とため息を吐いて大智は靴を脱いだ。
健を前に、手前の開きっぱなしの扉をのれんを避けて覗く。こちらは台所だった。
もちろん中には誰もおらず、けれどダイニングテーブルと椅子が二脚置かれていた。食器棚もそのままだ。
家電の類はひとつも残っていなかったので、それはちゃんと片付けられたらしい。
その隣はリビングだった。
こちらにもローテーブルとソファ、テレビのないテレビ台、チェストやカップの残された食器棚がそのまま置かれていた。
観葉植物があったのであろう大きな鉢には、見る影もなく萎びた何かが張りついていた。
リビングの奥には襖の仕切りがあり、ほんの気持ちばかりの和室もある。恐らく仏間だ。
仏壇はそこにはなく、縁者が持っていったのかあるいはまだなかったのか。
敷かれっぱなしの布団だけが異様で、大智は「うわっ」と健の背に隠れた。
「物の残り方が半端だし、何この布団。不気味すぎるんだけど」
「元々住んでいた人がここを寝室にしてたってことか」
「でもさ、二階もあるよ?」
「高齢なら階段は使わないだろ」
「それはそうだけど……二階も見に行く?」
「はー……帰りたい」
「健がそんなこと言うなんて、めずらしい」
大智はそう言うが、健はそもそも乗り気じゃない。
宛名不明のメッセージは二人に届いていて得体が知れないのだ。だからこその危機感もあるし、恐怖心だって少なからずある。
何もないならないで、とっとと関わりを切りたいと思っている。
「二階行くか」
とはいえ、このまま帰ることはできず、渋々玄関に戻った。
古い造りならよくある傾斜の大きい階段はよく軋み、足を置くたびに屋内の静寂さを認識する。大智は自分で出す軋み音に肩を跳ねさせていた。
絶対に健の前に出ようとしないが、下りる時は真っ先に下りていきそうだな、と思った。
二階には部屋が二つと、納戸があった。
一つの部屋は物がなく、物置部屋にすらもされていなかった。もう一つの部屋は健が外から見上げた部屋のようだ。
開きっぱなしのカーテンに、色褪せた古い桐箪笥。絨毯が敷かれており、壁際に布団が折り畳まれていた。
「布団があるな」
健が言うと、大智は嫌そうな顔をした。
「じゃあ下の和室の布団って、何?」
「さぁ。なんだろうな」
謎はあるが、他には特に何もない。
何かが起こるわけでもない。
納戸も一応見たが、これといったものはなかった。
大智が先に階段を下りていく。
軽やかな足取りで軋み音は短く、逆に健がしっかり足を置くと長く軋んだ。
大智は下りきったところで靴下の埃をはらい始めた。
「何もないし、出ようよ」
「そうだな」
さっさと靴をひっかけた大智は健を待つ気がない。
健も靴下の埃をはらっていると、カチャリ、と金属音がした。
驚いて顔を上げれば、大智が引き戸に手をかけたまま固まっていた。
「鍵が……」
「なに?」
「鍵が、勝手に……」
すると、健の背後。
台所の方から人の動く気配を感じた。
ぱた、ぱた。ぱた、ぱた。
スリッパで歩いているような、そんな音がゆっくりと廊下に向かってくる。
ぱた、ぱた。ぱた、ぱた。
足音はのれんのすぐそこにある。
ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
ぱた、ぱた。ぱた、ぱた。
健と大智は注視する。
まもなく現れるであろう、足音の正体を。どう現れても取り乱さぬよう、息を呑み込んで。
のれんが揺れているように錯覚する。まだ揺れていない。足音は本当にすぐそこなのに。
そのわずかな時間が長く感じる。足音がぴたりと止まった。
ふわりと、のれんが揺れた。