遠ざかる距離 1
ざぁっと、朝から雨が降っている。
午後の講義を終える頃には、雨脚はさらに強くなっていた。
講堂は人の多さでじめっと蒸し暑いが、扉が開けばひんやりと心地よい風が流れ込んでくる。
そのまま外に出れば肌寒く感じそうな冷たさだ。
弱まらない雨は、夏の暑さをあっという間に追いやってしまったらしい。
「健くん、ちょっといい?」
講堂を出ようとした所で声をかけてきたのは、夏休みより欠かさず連絡を取り合うようになっていた、さくらだった。
仲のいい友人である木原結菜も一緒にいた。
「何?」
「今日ってもう終わりだよね?」
「今日受ける講義はこれで終わり」
「このあとって時間ある?」
「あー……」
健は返事を濁した。
何かの誘いだろうか。そうであれば考えたいが、さくらの後ろには結菜がいる。結菜がいるということは、さくらと二人での誘いじゃないだろう。
そうなると、守らなければいけない優先順位がある。
意図が読めず、かと言ってどんな用事かも聞けず。いつからこんな損得勘定をするようになったんだろうな、と思っていると。
「乃井ちゃーん。健の先約は、俺」
後ろから、いきなり腕を組まれた。
「残念でした〜」
からかうように、大智が意地悪い声を出している。
「大智はいつも健くんと一緒にいるでしょ。今日は譲って!」
「だめだめ。これから健の家に行くんだから」
「バイトなの?」
「違うよ。遊びに行くだけ」
「じゃあ譲ってよ〜!」
同じくらいの背丈同士で言い合うのを見下ろしながら、健は大智の腕から逃れる。
そのまま数歩後ろに下がった。やいのやいの、そこに巻き込まれたくはなかった。
すると、さくらの後ろにいた結菜が静かに健の隣に移動してきた。
目線は言い合いをしている二人に向けたまま、話しかけた相手は健だった。
「ごめんね、仁科君。用があるのは私なんだ」
「え? そうなのか」
意外な指名に驚いた。
結菜とは廃校での一件以来の付き合いではあるが、なんとなく、さくらや彼氏である中村省吾を間に介すことが多く一対一で話す機会が少なかった。
別に二人だと気まずいということはなく、ただ本当になんとなくそうだったのだ。
「実はね、見てほしい写真があって」
「写真?」
「うん。夏休みに家族で撮ったものなんだけど、なんか、その……よくわからないものが写ってて」
健はすぐにピンときた。結菜が健に用とは、深く考えずともわかることだった。
ただ、と健は思う。
「俺、たぶん写ってるものは視えるけど、それが何かは分からないと思うぞ」
「そうなの?」
「そういう写真は意識して視たことがないんだ。なんていうか、写真自体を今まで避けてきたから」
「そうなんだ……」
「まぁ、今は避けてるわけじゃないから別に気にしないけど。それでもいいか?」
結菜は少し考えて「……うん、お願いしたい」と答えた。
降り頻る雨の中を四人で移動した。
話が話なだけに大学や人目のあるところは、と大智が気を遣い、さくらがそれに同調した。
結菜は気にしていないようだったが、二人に圧されて頷くと、なぜか行き先は健の家になっていた。
やいやい言い合う中で、健の知らぬうちに『みんなで』行こうと勝手に決められていたらしい。
自室の玄関の鍵を開けたところで、健は「あっ」と思い出す。
「俺んち、コップとかないけど」
振り返ってみれば、さくらと結菜は自らの飲み物は持参していると言う。
大智は頻繁に来ては勝手をしているのでコップの対象外だったが、やけに自慢気な顔をした。
「俺のはあるよ!」
「お前は勝手に置いていくんだろ」
玄関を開けて入ると、慣れたように次に続く大智。
所定の場所にさっさと荷物を置き、ベッドに腰掛けたかと思うとそのまま後ろに倒れた。くつろぎすぎだ。
対して初めてやってきた、さくらと結菜。
一人暮らしのワンルームは大人が四人も入れば手狭だ。きょろきょろと物珍しげにされては気にならないはずもなく、ちょっと気恥ずかしい。
大智がベッドの上からのんびりと声をかけた。
「何もない部屋でしょ〜。まぁ気にせず適当に荷物置いて」
誰が言ってるんだと思いつつ、健は荷物を置いて一旦部屋を出る。
すると、健の行動を予測した大智はすかさず起き上がった。
「俺のスウェットも洗っといて!」
「どこにあんだよ」
「洗濯機に入れてあるよ」
部屋を出てすぐのバスルームに置いてある洗濯機を見れば、たしかにスウェットが入っていた。
健は自身の洗濯物も入れてスイッチを押す。
三人のいる部屋からは「大智と健くんって本当に付き合ってないよね?」とさくらの声が聞こえた。大智は「さぁ?」といたずらな返事をする。
健は眉間に皺を寄せてため息をつくと、部屋に戻った。
「まぁでも、お泊まりセットは完備してるよ」
そう言う大智の頭を手のひらで引っ叩く。
「完備、じゃねぇよ。来るたびに物置いてくんじゃねぇ」
「そんなこと言って。ちゃんとしまってくれてるくせに」
「散らかすなって言ってんだよ」
健の部屋は必要最低限の家具しか置かず、色も統一して整然としていた。殺風景といえば殺風景だが、散らからぬようそれを保っていたのだ。
それが、大智が来るようになってからやたら物が増えた。
「来るたびに散らかしてくんじゃねぇ」
椅子に腰を下ろすと、さくらの「私もそのタイプかもしれない……」という小さな告白が聞こえた。
大智には微塵も反省の色が見えなかった。
「……――それで、写真って?」
不要な話は置いておいて、健は本題に入る。