疑念と確信
あの日から二週間ほど。
自宅に戻って安静にすると健の頭痛は次第に収まり、背中の痛みも少しずつ引いてきた。
バイトの方は断らずを得ず申し訳ないなと思っていたが、タイミングなのか幸いにも依頼はなかった。
健のスマホにメッセージが入ったのは、日常生活にようやく支障が出なくなった頃だった。
「神社? 今から?」
とっくに日は落ち、一楓の神社と言えど伺うには非常識な時間だ。
送り主が大智だったので、まぁ、問題はないのだろうが……。
「大丈夫か、あいつ」
平然と連絡をしてきたが、あの日から大智の落胆ぶりはすごいものだった。
青年に対して向けた言葉の数々を振り返っては自己嫌悪。一楓への気持ちは隠さなくなり、焚き付けてしまった青年をどうすればと悩みに悩んでいる。
帰りの新幹線は無言続きで、どれだけ地獄だったか。
「……とりあえず行くか」
初秋が過ぎ、ようやく夜は涼しい風が吹くようになった。健は薄手のシャツを羽織りながら、先日の青年のことを思い出した。
大智とのやりとり。
途中入っていくまでのことはほとんど聞こえていなかったが、大智が声を荒げてからはいろいろと疑問の多い会話だった。
明言はなく健には憶測しか立てられない。それでも、ほぼ確信に近いと思っている。
今までの事柄からそう導き出せた。
健は靴を引っ掛けて玄関を出ると、玄関扉に鍵を閉めた。カン、カン、カン、と音を立てて階段を降りていく。
ただ目的地に向かうだけの道中なので、考え事をするには最適だった。
「居酒屋に集まるたびに、飲み物の数を確認されるんだよな」
そういった時はだいたい先に一楓と大智が店に入っている。帰りはその二人が最後で、健が大智と一緒に店を出たことはない。
そして、最初の飲み物を注文する時は、店員は怪訝な顔をする。「3つですか?」と。
最初は童顔の大智が未成年に見られてるのではという話になっていたが、他のメンバーで行った時には確認されないのだ。
一楓が未成年に見られている可能性もあるが、それもおかしな話だと健は思った。もしかしたら、店員には二人に見えていたのでは?
疑念は続く。
「最初のうちの、繋ぎっぱなしの電話も」
一楓の手伝いを始めてしばらくの間。
健と大智が未熟ゆえに通話を繋ぎっぱなしで状況を伝え、アドバイスをもらっていた。
湖の老人の時はノイズが入りつつも、切れることはなかった。あれは確かに霊障だったが、通話は最後まで切れなかった。
山中にあるトンネルの時には、何度もトンネル内を行き来したが、それも問題なかった。
電波の有無は確認していなかったし、トンネルの外では当事者の孫である騒がしい奴がスマホを使っていたけど、電波状況は恐らく悪かったはず。
普通に使えていたのは、一楓との通話だからだと後になって思った。
そして、さくら達と初めて交流を持った、廃校での肝試し。
あの時は霊障があり確実に電波が届いていなかった。一楓以外への通話は繋がることなく、それは健以外の誰もが確認した。
にも関わらず、やっぱり一楓には繋がったのだ。
一楓の並ならぬ霊力がそれを可能にしたとしたら、それはとんでもない力だと思った。
「でも、やっぱり違うんだよな……」
一楓に最後に会ったのは、偶然にも病院の入院棟でだ。たしか、幽体離脱をしてさまよう少年を捕まえてほしいという依頼で。
親戚のお見舞いに来ていたと言っていたが、それより以前から大智の挙動不審がひどくて健も困った記憶がある。まるで病院に近づけないように、ある病室に近づけないように……。
一楓からの依頼の電話を受けた時、一楓本人もそう言っていた。「場所が場所だから、大智ひとりで」
たしかに健を近づけないようにしていたのだ。
「あの気配は、そうなんだよな……」
病室に近づいた時に感じた気配。
健はそれをよく知っていた。頻繁に会わずとも、その不思議な気配を自然と感じ取っていた。
初めて意識したのは廃校での肝試しからだ。
意識不明の体から離れた少女――正体は、その廃校で教師をしていた女性だった。
馴染みのある気配だとなんとなく考えていたが、それがいつからか一楓と同じものだと気づいた。
気づいてしまった。
狐の「跡継ぎ」問題も、先日の青年のことも。それが示す、その先を。
「ったく、とんでもないこと隠してやがる」
はっきりさせるなら早い方がいい。
だが大智のことを考えると、どうしても今は問い詰める気にはなれない。
健は深くため息を吐いて、動かす足を早めた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
健が神社に着くと、鳥居の下にすでに大智の姿があった。健を見つけて片手をあげる。
「遅いよ、健」
「悪い。電車の乗り換えがうまくできなくて」
「まぁいいけど。で、何? こんな時間に」
それも、神社で。と言いたげな大智だが、それは健の台詞である。
軽く首を傾げつつ、健も同じく返した。
「それは俺が聞きたい。呼び出したのは大智だろ」
すると、大智はきょとんとするのだ。
「え、呼んだのは健でしょ?」
「メッセージをしてきたのは大智だろ」
「俺からはしてないよ。健から送ってきたじゃん」
主張し合い、困惑する。
メッセージは確かに大智から送られてきたが、大智は健からだと言う。お互いにメッセージを見せ合うとそれはどちらも真実で、受信時刻も同じだった。
背中が寒気立つ。
くすくす、くすくすと、嫌な笑い声をのせて風が舞った。
見上げれば、鳥居の上で優雅に体を伸ばす真っ白な狐が二匹、健と大智を見下ろしていた。
「お前らか……なんの用だ」
健はため息混じりに言った。
「たまには労ってやろうと思ってな。大智」
右目の赤い狐、右近に名指しされて「え、俺?」と大智は驚く。
右近は牙をのぞかせながら、口角を大きく上げた。
「先日のお前の活躍ぶりは見事じゃった」
「見事じゃった」
あとに続いて繰り返すのは、左目の赤い狐、左近だ。
大智は眉間に皺を寄せて考える。
「活躍って……?」
健も大智のどの仕事ぶりを指して言ったのかわからず、ただ狐を見上げた。
右近は体を起こすと、ふん、と鼻を鳴らした。
「あの男は死霊にも関わらず、一楓を抱え込もうとしておるからな。大智、お前の威勢の良さには気持ちが晴れたぞ」
「気持ちが晴れたぞ」
あの男――。
健が気づくと同時に、大智はばつの悪い顔を狐から背けた。
右近と左近はそんな大智を目敏く見つめ、いやらしく声をひそめる。
「……お前が気に病むことはない。言ったことは事実だ」
「事実だ」
「あやつはしでかした事の責をひとり孤独に抱え続けて地獄に堕ちるのじゃ」
「地獄に堕ちるのじゃ」
神使らしからぬ物言いに、健はぞっとする。それは恐怖であり、同じくらいの怒りでもあった。
真正面から挑んだがゆえに大智は傷ついているのに、この狐は、それを簡単に踏みにじっている。
捨ておけないからと後悔する大智に、まるで悪魔のように甘く囁いて手を伸ばしている。
健は狐を睨みつけた。
「おぉ、怖い。なぜ睨む。死霊に同情するか」
「同情するか」
「……違う」
健はそれだけ答えて、湧き上がる感情を上手くまとめることができずに黙った。
青年のこと。一楓のこと。大智のこと。みな、それぞれにお互いを想い、ぶつかり合った。それが今どんな結果になっていたとしても、簡単に一人を切り捨てていいはずがなかった。
絡み合ったそれぞれの想いを、それぞれが納得できるように解かなければいけない。
顔を逸らしていた大智が、健を制するように前に出た。
静かに「大丈夫」と言った。
「俺はあの人に、酷いことを言ったよ」
狐はじっと大智を見る。
大智はその瞳の鋭さに体が一瞬跳ねたが、震える声を大きくした。
「気に病まないわけがない。後悔しないわけがない。だってあの人は、人間なんだ」
「今は死んでおる」
右近はなんの感情もなく返す。
大智は怯まなかった。
「死んでもなお、あの人は人間だ。姉ちゃんを大事に想い続ける、人間らしい人間だ」
「人間らしい人間とは」
右近はくすくすと笑う。左近も真似た。
大きなしっぽが揺れ、だんだんとその動きが激しくなっていく。
「生きた人間を連れて行こうとした者が、人間だと?」
「人は過ちを犯す。それは許されることじゃないけれど、俺はあの人の気持ちがわかった。その感情は人間らしさだった」
「死霊の持つ感情が、人間らしいか」
狐のしっぽがぴたりと止まる。
大智に向けていた眼差しに、鋭く光が走った。
「だからと言ってお前は、またあの死霊に一楓を与える気か?」
びりびりと、空気が重たく振動する。まるで地鳴りのようだ。
狐の毛はじょじょに逆立ち、神聖である大きな存在感を露わにする。
「一楓が完全にあちらに堕ちなかったのは誰のおかげだと思う。神の御心のまま、共にある我らの力によるものだ。それを、二度も許すと思うか。死霊ごときに、我らが許すと思うか」
神使である狐。その姿はこの世ならざるものであり、妖と表裏一体だ。今の狐は神々しさを纏った妖に近い。
「一楓が望んだとて、再び死霊の元に堕ちることなど決して許さぬ。大智、許さぬぞ。一楓をあやつに会わせてはならぬ」
重くのしかかる空気。
大智は震えながら細切れに息を吐き出すと、一歩踏み出した。
「向き合うのも決めるのも、姉ちゃんとあの人だ。俺もあの人ともう一度向き合わなきゃならないし、謝らなきゃいけない。姉ちゃんをまた連れてくって言うなら、もちろん全力で止めるけど……」
大智は狐を見上げた。
定まらない未来に、大智の意志だけははっきりとしている。
「絡み合った俺たちの気持ちを、ちゃんと解いてみんなが納得できる終わりにしなきゃダメなんだ。死霊とか、生きてるとか、関係ない。一方的に突き放して切るだけじゃ、俺たちは終われないんだ」
しばらくの沈黙の後、狐はふーっと息を吐いた。
びりびりと重たい空気はしだいに和らぎ、逆立っていた狐も元通りの姿になった。
体が重さから解放され、ぽかん、とする健と大智に、狐は一言つぶやいた。
「人間は面倒くさい」
鳥居の上で背を向け、しっぽを揺らすと狐の姿が消えていく。
その最中、右近が思い出したように顔だけ振り返った。
「健。お前は……いや、まだ気づいておらんのか」
「おらんのか」
左近も顔だけ振り返った。
「何をだ?」
健が問うと、狐は意地悪く笑った。
「そのうち気づくであろう。まぁ、苦しめ」
「苦しめ」
くすくす、くすくすと笑い声が辺りに木霊する。
最後に残ったしっぽがくるんと空間に吸い込まれるようにして、狐は消えた。
健と大智は、腹の底から息を吐き出した。
「怖かった……幽霊より怖かったかも……」
大智は尻餅をついて座り込んだ。
健もその場にしゃがみ込んだ。
「よく言い返したな、大智」
「んー、なんかね。なんか……俺があの人の立場だったら、こんな終わりは嫌だから」
「お人好しすぎるな」
「そんなことないよ。取られそうになったら、全力で取り返しに行くよ」
はは、と笑う大智は、ようやく気が抜けたようだった。
不安も焦りも、まだあるだろう。それでも納得のできる終わりを迎えられるように、しっかり前を向いていた。
「強いな」
「恋は人を強くするよ」
「明け透けだな」
「全部バレたからね。……でしょ?」
その問いかけに、健は一瞬止まる。
あえて聞いたということは恐らく全部なのだろう。
健の疑念を、大智は「バレた」と言った。
健はあえて口角を上げ、怒りを含めて言う。
「とんでもねぇこと隠してやがったな」
「うん。ごめんね」
大智は悪びれなく笑顔を見せた。
隠し事がなくなり、そういった意味でも気が抜けたのかもしれない。
「あともうちょっとだけ。健、付き合ってくれる?」
「ここまできたら当たり前だろ。……慰めるのは得意じゃないぞ」
「何それ、振られる前提ってこと?」
大智が笑う。無理をしているわけじゃなく、悲しげでもなく。
心の底が晴れたように、穏やかに笑う。
「ところで、狐が最後に言ってたことって……」
大智はふと思い出し、健を観察するように見た。
健も自身を見回し、何か変わったことはなかったかと考えてみるが、思いつくことはなかった。
「また、イタズラだろ」
苦しめと笑うあたり、悪意しかなかった。
大智に言い負かされた八つ当たりかもしれない。
深く考えることなく大智に「大丈夫」と伝えたが、その日から少しずつ健の日常には違和感が生まれていった。