それぞれの在り方 4
健が落ちた。
若女将を抱えたまま、階段を滑り落ちていった。
高さはさほどない。けれど、ひとり分の体重を支えては無傷とはいかない。
健と若女将は踊り場で止まった。
大智は慌てて階段を駆け降りた。目を閉じた健はぐったりと手を投げ出していて、おでこから赤い液体が流れていた。少しずつ水溜りをつくっていく。
若女将もぴくりとも動かない。
大智は膝をつき、必死に健を呼んだ。
隣に気配がある。健が落ちた瞬間から、ずっとあった。大智と同じようにずっと叫んでいた。
「ゆかり、ゆかり、ゆかり、ゆかり」
こちらの頭が割れそうなくらいの悲痛な叫び。若女将の旦那だ、と見ずしてわかった。
お前のせいじゃないのか。お前が望んだことじゃないのか。
若女将の旦那は頭を抱えてうずくまる。言葉にならない唸り声に、涙が混じっていた。
「お腹に――……」の続きの言葉を待たずして、頭に血の上った大智は掴み掛かろうと横を向いた。
床についていた片手の指先に、小さなものが触れた。女性ものにしては大きな指輪だった。
くらりと、視界が揺れる。
「そんな場合じゃないのにっ――……」
その指輪が誰のものだったのかを察して、大智もまたその場に倒れこんでしまった。
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旅館が建ち並ぶ温泉街。
その中で特に老舗の大きな旅館。従業員は多いが、家族経営のアットホームな所だ。掃除も接客も行き届いている。
先代の女将と、今の女将が美人だと当時は評判だったらしい。
ここを気に入っていたのは父だった。
父は自ら起業して、気になるものに手をつけては事業を拡大する野心家だった。好奇心の塊のような人だったから、天職だったのだろう。
父の会社はどんどん成長していった。
俺は大学を出ると父の会社に就職した。次期社長として大きな仕事をよく任された。
この旅館に訪れたのも、そのためだった。
老舗の旅館。行き届いた掃除に、アットホームな雰囲気。長年残ってきたのも頷ける。料理も美味かった。
父は、この旅館を気に入っていたのだ。
落ちる客足。増えない口コミ。流行りに乗れない老舗旅館は埋もれ、抱える負債だけが増えていく。
名前だけは人の耳に残り、足を向けるには好立地なこの旅館。父は、ずっと狙っていた。
ただ買収するだけではない。父は、手に入れたものは自分の色に染めないと気が済まない人だった。
父から買収の指示を出され、とりあえず俺は旅館を視察しに訪れた。
内情は父から聞いていたものの、そんなものはどこの企業でも抱えている問題だ。
俺は一通り旅館を見て回ったあと、部屋に従業員を呼んだ。別に誰でもよかった。旅館について、少し話がしたかっただけだ。
そしてやってきたのが、ゆかりだった。
ゆかりは美人というよりは、可愛らしい女性だった。笑顔に愛嬌があり、知らずのうちに自分のことを喋ってしまうような聞き上手だった。
接客業なのだから当たり前だ。それでも、その雰囲気から人を惹きつける魅力を持っていたように思う。学生時代も社会人になってからも人間関係を重視しない俺にとって、ゆかりは初めて親しくしたいと思えた女性だった。
あとになって思えば、一目惚れだったのかもしれない。
俺はその後、週末に時間をつくっては旅館に通うようになった。父には視察のため。ゆかりには出張のため。
情けない嘘はゆかりとの距離を縮め、俺の淡い恋心は十分に満たされていた。それ以上望むものはなかった。
成人するまで知ることのなかった恋心は、ただただ俺を浮かれさせた。
そして、いつまでも旅館を買い取ってこない俺に、父は痺れを切らしていた。
そもそも自分が気に入っていた旅館だ。俺に任せたのは、父の受け持っていた大きな案件と被るからということだった。
その案件も直に終わる。そうすれば俺はゆかりの旅館案件を降ろされ、父は自ら動き出すだろう。
時間がなかった。
俺はゆかりに身分を明かし、プロポーズをした。
ゆかりと付き合いが長くなるにつれてわかった、家族で守ってきた旅館への想い。どれだけ大切に築き上げてきたか、そして今、存続の危機にあることも。身分を明かす前から、ゆかりとそこまで話せる仲になっていた。
父に潰させてなるものか。ゆかりが大切に想っているものは、俺が守りたかった。
だが、ゆかりは一向に首を縦に振らなかった。
それに関しては俺が正直にすべてを話さなかったことにも原因はある。伏せたのは、父のこと。そして自分の気持ちも。
旅館を買収する理由付けに、俺の好意を押し付けることはできなかった。
ただ、プロポーズの理由としては、俺が旅館を守りやすくなるからだと伝えた。
代々守ってきた老舗旅館。ゆかりの代も今のまま続け、そして繋いで欲しい。俺は、この旅館がとても好きなんだと。
……――そうして卑怯な理由を並べて、ようやくゆかりはプロポーズを受けてくれた。
父にすべてを伝えると、当然激怒した。
旅館を俺に取られたからではない。勝手に結婚を決めたこと、その理由が父にあったということにだ。
信用はなかったのか、と問われた。父は父として、お前を応援するとは思わなかったのか、と。
たとえ仕事が絡んだとしても、息子の幸せを潰すようなマネはしない。父は怒り、そして深く傷ついていた。
俺はひとり突っ走りすぎていたことに、そこでようやく気がついた。
しかし、もう行動に移してしまった後なのだ。
振り返ることはできない。ゆかりは覚悟を決め、俺の元に嫁いでくれた。
そして父は言った。「手掛けたのならやり通せ。二年で結果を出せ」
きっと、それが父にとって溜飲を下げられるきっかけとなり、強引に束縛してしまったゆかりへの贖罪となる。
俺は何がなんでも、今の体制のままで旅館を盛り返さねばならなくなった。
まず始めたのは疎かになっていた広告だった。
父の伝手を使えばそれは大々的なアプローチができたが、俺がそれを使うことは憚られた。SNS、広告サイトにて地道にコツコツと宣伝した。
主に動かなければならないのは旅館の面々だ。俺は裏方に徹し、客観的に見た現状をゆかりに伝えた。改善点などを挙げ、努めるようにと指示を出した。
しばらくはその状態が続いた。俺は旅館だけでなく父から他にも仕事を振られ、家にいる時間は少なくなっていた。
ゆかりとはすれ違いの日々。顔を合わせれば旅館の話。
まるで上司と部下。政略結婚そのものだ。
なのに、ゆかりはその中でも笑顔を見せてくれた。俺と旅館の板挟みで大変だろうに、俺のことを気遣ってくれた。
必死に、夫婦になろうとしてくれていたんだろう。
俺は彼女の優しさに救われながら、そのたびに自らに責務を課して決意した。
このままではダメなんだ。ゆかりを、こんな契約で縛り付けては。
笑顔のない結婚式の写真を戒めに、俺はできる限り旅館のために奔走した。
結論から言うと、二年経たずして旅館の売り上げは伸び始めた。赤字が黒字、さらに余裕ができたのは期日の目前。
父に報告すると「よくやった」とだけ言った。
誇らしく思い、反面、情けなくもなる。そもそもあの旅館は父が気に入っていたのだ。
周知された老舗の名前に、旅行先として足を向けるには好立地だった。
少し頑張れば、ゆかり達だけでも盛り立てることができただろう。
父はそれを知りながら、俺の業績として残したのだ。――……敵わない。
だが、俺は確かに成し遂げた。ゆかりの旅館を守ることができた。
自信に繋げていいだろう。やっと、ゆかりと向き合う権利を得ることができた。
かねてより決めていたことだ。期日の二年で、俺はもう一度ゆかりにプロポーズすると。
断られれば潔く離婚する。けれど、もしゆかりが少しでも俺のことを見てくれていたなら。夫婦生活の中で向けられた笑顔が嘘のものではなかったら。
淡い期待が胸をよぎる。もし、もしも。
汗の滲む手に小さな紙袋をさげ、俺は緊張しながら帰路についた。
ゆかりはなんと答えるだろう。驚くだろうか。
あの時のプロポーズには用意しなかった指輪を差し出して、俺の抑え込んでいた本音を伝えたら。
先に自らの薬指にはめた指輪を見せたら。
彼女は、心からの笑顔を見せてくれるだろうか。