それぞれの在り方 3
窓の外から虫の音が聞こえる。
温泉街の街頭は消され、飲み屋以外は暖簾を下ろした深夜。
月明かりは遠く、常夜灯も消した室内は暗闇に包まれていた。
隣に眠る大智の寝息が規則正しい。
眠りが浅くなり、健は朧気な意識の中でそれを耳にして微睡んでいると。
「……うぅ」
急に大智が唸り出した。
寝言か? とさして気にせず寝直そうとするが、もそもそと布の擦れる音がする。
寝苦しいのだろうか。真夏とはいえ、都会とは違う自然の中は涼しくクーラーはついていない。
大智がだんだん酷く唸る。
「う……うぅ、ん……うぅ……」
もそもそと動きもおさまらず、明らかにうなされている。
さすがにこのまま放って眠ることはできない。健は上半身を起こすと、大智を揺さぶった。
「大智。起きろ」
「ううぅ……」
「大智、おい。大丈夫かよ」
「ん……うぅ……」
「どうしたんだよ。大智」
「う……あぅ……痛っ……」
痛い? 揺さぶる力は強くなかった。
とっさに大智から手を離した健は、続く言葉に耳を傾けた。
「痛、痛いよ……離して……」
大智が手を伸ばす。
真っ暗な室内、目が覚めてからだいぶ暗闇に目が慣れた健は大智の手が伸びた先を見た。――足元。
大智が抵抗するように動かす足の先に、真っ黒な塊があった。微動だにせず、ただ大智の片足を呑み込む。
「痛い……痛いよっ……やめてよ……!」
大智の切羽詰まった声が室内に響く。足元に手を伸ばし、必死に抵抗するが塊はびくともしない。それどころかどんどん大智の片足を呑み込んでいくようだ。
暴れる大智の腕が畳に叩きつけられ、その音で健はハッとして体を動かした。
塊に対し、前のめりになると。
「――っ!!」
キィン、と頭に響く耳鳴り。
甲高い音。耐え切れず頭を押さえると、そのまま体はがくりと布団に落ちた。
動けない。顔だけが塊に向いている。
キィンキィンと鳴り響く音に顔を歪めると、塊は突然キキキキ、と笑い出した。
真っ黒な中に、ぎょろりと人の目がふたつ現れた。健を見て細まる。
大智の足から離れ、ゆっくりと起き上がると人間の形になった。ゆらゆらとおぼつかない動きで項垂れながら健に歩み寄る。そいつの目はずっと健を見ていた。健の前で止まると、またキキキキ、と笑い出す。
いや、違う。笑っているのではない。
ギリギリギリギリと高速で歯軋りしていた。細まった目は健を見て笑ったのではなく、睨みつけたのだ。
そいつはゆらゆらとしながら健に手を伸ばす。健はぞわりと怖気だった。動けない。そいつはゆらゆらとおぼつかず、倒れ込んできそうな恐怖さえ感じた。
ギリギリ、ギリギリ。
音が近づいてくる。健の目線はそいつだけに向いていた。耳にかすかに大智の声が届く。「やめろ」と振り絞っている。
そいつは顔を歪めた。その顔がようやく鮮明に見えた。剥き出しの歯が似つかわない、けれど犯罪者のようにさえ見えてしまう生真面目そうなそいつは。
――ギリィッ。
最後に一際大きく、歯を軋めた。
「……――ける。……健!」
「……っ!?」
目が覚めた瞬間、健は思い切り息を吐き出した。まるで運動後のような動悸に息切れを起こす。
大智が心配そうな面持ちで覗き込んでいた。
一体何が起こったんだ。視線を忙しなく彷徨わせると、窓の外が白けていることに気づく。夜明けだ。気を失っていたんだろうか。
大智の様子から、まさか夢だったということはないだろう。
深夜の出来事を思い出して、ぞくりとした。
部屋中を見回してあの真っ黒な塊がいないことに安堵する。
深く息を吐いてから起き上がると、体が汗でべったりとしていた。前髪が張りついている。
「健、大丈夫?」
「あぁ……昨晩のは、なんだったんだ?」
「わからないよ。俺が気づいた時には、真っ黒な影が健に覆い被さろうとしていたんだ」
大智が安堵の息を吐きながら答えた。
健と同じく汗をたくさんかいたらしい。めずらしく、大智から汗の匂いが香った。
「助けたかったんだけど、ごめん。体が動かなくて……そのうちに気を失ったらしくて」
「俺も途中から記憶がない。大智こそ大丈夫か?」
「? 俺は、別に」
「足。痛いって、あいつに何かされてたんじゃないのか」
「えっ?」
大智は自らの足を見た。そして驚く。
片方の足首に、くっきりと掴まれた痕が残っていた。
「な、何これ!」
「あいつは俺の方に来る前、大智の足元にいたんだ」
「なんで……あいつって、まさか」
「あぁ。若女将の旦那だった」
暗闇の中、ギリギリと歯を軋ませながら近づいてきたそいつは、確かに若女将の旦那で間違いなかった。
怒りか憎悪か。写真のものからは想像がつかないほど歪んだ顔は、まるで人の裏を暴いたような醜さだった。
大智は腑に落ちた、というように言った。
「もしかして、牽制……?」
「かもな」
昨晩、若女将に接触したことがすべての原因だろう。
大智が言っていたこと、女将から聞いていた結婚の話から、あの顔を作り出したのは嫉妬だと確信を持てる。
と同時に、かなり危険な状況になってしまったことに、健は焦りを覚えた。
「こんなことは初めてだ。あんなに悪意を持って近づかれたのは」
「……そういえば、姉ちゃんがずいぶん前に言ってたね。健には害のある者は近づけないって」
「つまり、それだけの執念ってことだ」
「俺たち、結構やばい?」
「やばいだろうな……俺たちも、若女将も」
牽制の意味は、これ以上関わるな。近づくな、ということだろう。
もし若女将を、女将が言う通り、連れていこうとしているのなら。そこに健と大智の邪魔が入るとしたら。
若女将の旦那は、どう動くだろうか。
「大智、若女将から目を離すな」
執念、そして嫉妬という名の悪霊は、欲望のままに姿を表すだろう。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
割り振られた仕事はそつなくこなす。アルバイトとして潜り込んで三日目。
接客では大智に敵わないが、接客じゃなければ健も要領はいいほうだ。
女将の了承を得て、健と大智はなるべく若女将の側で仕事ができるようにしてもらった。
回される仕事を減らしてもらい、必ずどちらか一人は若女将を見張っていられるようにした。
てきぱきと動こうとする若女将は、なんだか今日は動作が鈍かった。顔色も時間を追うごとに優れず、業務終了間際には笑顔も消えていた。
旦那の仕業かと心配したが、どうやら直接的なものではないらしく、冷や冷やとしながら健と大智は見守るしかなかった。
「若女将はまだ仕事するつもりなのか?」
「ううん、もう終わるって。女将さん達から早く上がれって散々言われてるよ」
あとは備品を確認するだけだという。
正直、そういった雑用はアルバイトや他の従業員に任せればいいのにと思う。自分でやらなければと思うのは、忙しい時期に体調を崩した後ろめたさや、日頃と比べて動けなかった自分なりの罪滅ぼしが理由だ。
はっきり言ってしまえば、体調不良の人間が無理をしてやる事ではない。周りの従業員にさらに迷惑をかけてしまうこともありえる。
「……若女将ね、数ヶ月前からよく体調悪くしてたんだって。食欲不振だったり、吐き気だったり。最近は治ってたんだけど、日によるみたいだよ」
「女将から聞いたのか?」
「ううん。休憩被ったパートのおばちゃんに」
健と大智の昼休憩は交互に行った。若女将から離れられないことから、30分ずつという短い時間だけだ。
その間に聞き出すとは、大智の抜かりなさに脱帽、というか人たらしにも程がある。パートのおばちゃんとは、いつ仲良くなったんだ。
若女将は備品をしまう倉庫に向かうため、階下への階段へと向かった。
エレベーターは基本的に宿泊客用に稼働している。従業員は階段を主に使っていた。
階段の手前で、若女将が何かを落とした。
「待って……」
キン、キン、と小さなものが光を反射しながら階段を跳ねて落ちていく。
手を伸ばした若女将は、ぐらりと傾く。階下に身を投げ出した。
「あっ……――!!」
大智が叫ぶ。まるでスローモーションのように若女将がゆっくりと落ちていく。
健は走りだした。世界が遅い。けれど、懸命に手を伸ばした。
若女将の手を、すんでのところで掴んだ。
投げ出した自らの体はもう、若女将を引き上げることができない。健は若女将を引き寄せると、自分の背中を下にした。
「――――健っ!!」
階段の上の大智が、何度も叫ぶ。
その隣に若女将の旦那がいた。見開いた目。大きく開いた口。両手は頭を抱え、ぶんぶんと首を振った。
必死な形相に疑念を抱きながら、健は背中で階段を滑り落ちていく。
息が詰まるほどの痛み。数秒のことが無限にも感じられる苦痛は、やがて終わりを迎える。
視界に、赤色が差し込んだ。