残る想い、寄せる想い 3
轟音を響かせていた雷はようやく収まり、激しい雨足も落ち着いてきた。
流れる沈黙の合間にぽつりぽつりと会話をしていたさくらは、ソファの上ですっかり寝息を立てている。
寝不足と言っていたので仕方ない。
むしろ、この状況でも安心して眠ってくれたことが、嬉しくもある。
さくらを背に、ソファにもたれて床に座った健の膝の上には、アンコが頭を乗せてくつろいでいた。
「お前、本当に懐っこいなぁ」
毛並みに沿って頭をなでると、なめらかに指がすべる。
目をつぶったアンコは気持ちよさそうで、健もつられてうっとりとしてしまう。
心地よい静寂。抗えないまぶたの重みに、少しだけとつい目を閉じた。
かくん、と首が落ちそうになり、柴犬の気配でハッとする。
真っ暗なリビング。
さくらが眠ってから電気は消していた。
柴犬の低く小さな唸り声は軽やかにリビングを出て行った。
これで、さくらが眠ってから三度目。
リビング向かいの和室に、男は懲りることなく現れる。
「……入ってはこないか」
現れては柴犬に追い返され、を繰り返す男だ。
これでは一向に埒があかないので、それならばいっそ招き入れてみるかと、窓を少し開けておいたのだ。
男の影は窓越しに健と柴犬を睨みつけ、やがて消える。
柴犬はフンッと鼻を鳴らした。
「番犬が優秀すぎるな」
伝わるかはわからなかったが、男が逃げないように威嚇するのをやめろと、柴犬に言ってあった。
すると、喉の奥で低く唸りはするも、健の言いつけは忠実に守っていた。
健に興味はないが、さくらのためなら意外と聞いてくれるらしい。
家から出てまで男を追わないところを見ると、本当に優秀な番犬だ。
アンコとはまた違う賢さで、健は感心するしかない。
「なぁ、お前ならどうする?」
男は追い払ったのに、さくらの元へ戻らず健の足元に座る柴犬に投げかける。
柴犬は耳をピクリと動かした。
「俺は何度かあの男に忠告したし、警告もした。それでも完全に追い払うことができないんだ」
さくらが眠る前の、ぽつりぽつりと交わした会話を思い出す。
男に身に覚えがないと言っていたので、不運にも執着されたことで間違いはない。
男の様子を見ても、さくらに邪な気持ちを抱いているようにしか見えなかった。
なので、説得は無意味だろう。
力技で追い払うか、もしくは祓うまでしなければ離れないかもしれない。
「どうにかするとは言ったが、どうしたもんか……」
独り言ちた。
できれば、今晩中に方をつけたいと思っているが。
開けていた窓から雨粒がわずかに入りこんでいる。
男が家に入ってこないことはわかったので、健は窓を閉めた。
激しさは収まったが、雨はまだまだ止みそうにない。
リビングに戻るかと振り返ると、和室の入り口そば、暗闇で黒い大きな塊がうごめいていた。
「うわっ! ……アンコか?」
大きな塊は名前を呼ばれたことで顔を上げ、ぱたぱたと太いしっぽを振った。
いつの間にこっちの部屋に来たのか。
前脚でガリガリと壁を引っ掻いているので、一体何をやっているんだと健は近づいた。
「押し入れ?」
入り口のすぐ横に引き戸がある。
その引き戸をアンコはガリガリと引っ掻いていた。
爪で戸が傷つくのではと心配したが、少しの隙間ができるとアンコはそこに鼻を突っ込んでこじ開けた。
体を滑り込ませ、中から大きめの箱を引きずり出した。
「こら、さくらに怒られるぞ」
アンコをたしなめるが、お構いなしだ。
鼻先で器用に箱の蓋を開け、しっぽを大きく振りながら箱の中に顔を突っ込んだ。
暗くて見えにくいが、箱の中身は犬用の物らしい。ベッドやおもちゃが入っていた。
アンコが使うには少し小さい。
もしかして……と健が箱の中を覗き込むと、パチリと電気がついた。
暗闇から一転する。
「よ、よかった。健くん、いたぁ……」
明るさに慣れず目を細めていると、泣きそうな顔のさくらがいた。
ほっと安堵を浮かべたさくらは健のそばに寄り、服の裾を掴む。
その手はわずかに震えていた。
「……いるよ。もう目が覚めたのか」
「暗くて、健くんがいないから怖くなっちゃった」
「あぁ、ごめん。ちゃんといるよ。もう少し寝るか?」
「ううん。……あの、くっついてもいい?」
「…………いいけど」
そう答えると、さくらは健の腕にそっと体を寄せた。
ここに来てからずっと距離が近いが、今さらになって緊張する。
さくらが大きくゆっくりと息を吐いた。
「落ち着く……」
「それはよかった」
「あっ。アンちゃん、またそれ引っ張り出してる」
声をかけられて、アンコがようやく顔をあげた。
お目当てのものを見つけたようだ。
口に咥えた首輪はほとんどくたびれておらず、アンコが付けるにはやっぱり小さい。
「それはアンちゃんのじゃないでしょ。ちょうだい」
さくらが手を出すが、アンコはふいと顔を背けた。
そして、なぜか健にその首輪を渡そうと押し付けてくる。
「俺?」
「アンちゃん、健くんがお気に入りなんだね」
「それは嬉しいけど……」
アンコから首輪を受け取る。
プラスチックのバックルの付いた布の首輪には鑑札が付いており、その横に名前も書かれていた。
さくらが懐かしそうに目を細めた。
「それね、前に飼ってた子の首輪なの。もう5年になるなぁ」
「……柴犬?」
「うん、よくわかったね。正確には豆柴だよ」
「『マメ太』、か」
柴犬が健を見上げた。
首輪を見て、それから健の目を。
ようやく目が合ったな、と思った。
「すごく頭のいい子。しつけはもちろんだけど、そういうんじゃなくて。良いこと悪いこと、私達を見てちゃんと理解してた」
「へぇ」
「マメ太は皮膚が弱くてね、散歩の時以外は首輪を外していたの。だから、首輪が付いていないと扉や窓が開けっ放しでも外には出なかった」
「へぇ……」
「だからこんなに綺麗に残ってるの」と言って、さくらが首輪に手を伸ばした。
健がそのまま手渡すと、柴犬は今度はさくらを見る。
巻いたしっぽが小刻みに揺れた。
「首輪……」
健がつぶやく。
それを聞いて、唐突にアンコが大きく吠えた。一度だけのその吠え声は真夜中の静けさの中でよく響く。
さくらが驚き、肩がびくりと跳ねた。
いまだ触れていた腕からそれを感じ取りながら健は、はたと気づいて顔を上げる。
そして、もう一度言った。
「首輪か」
柴犬は、健の目をずっと見ていた。