残る想い、寄せる想い 2
「着替え、ありがとう」
家の明かりが戻ったことで落ち着いたさくらは、健の姿を見るや否や謝りながらタオルと着替えを用意してくれた。
ずぶ濡れだった服は乾燥機に入れられている。
「ううん。お兄ちゃんのだけど」
「そういえば、家の人は?」
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、今日はいなくて……」
今さらな質問に、さくらは困ったように答えた。「今日に限って」と、そんな顔をしている。
リビングで話していると、チャッチャッ、と奇妙な音がリビング外の廊下から近づいてきた。
さくらの隣で丸まって寝ている小柄な柴犬の耳がぴくりと動いた。
「なんの音だ?」
警戒する健は、さくらを自分の後ろに隠す。
だが、さくらは慌てて「違うの」と健を押さえた。
リビング前にやってきたその音は、暗がりから姿を現す。
黒く、ずんぐりとした、大柄の。
「……犬」
ハッハッ、と舌を出し、低い位置で小刻みに太いしっぽが揺れる。
爪が床に当たり、チャッチャッと音を立てながらのんびりと健に近づいてきた。
「アンちゃん、どこに行ってたの?」
「アンちゃん……」
「アンコっていう名前なの」
もう一匹いたのか。
黒のラブラドールはまるまるとした体型で、さくらに撫でられて嬉しそうに目を細めた。
そして、また健に近づく。
「健くん、犬は平気?」
「あぁ、別に」
「良かったね、アンちゃん。健くんだよ」
アンコは健の匂いを嗅ぐ。
姿形は違うのに、さくらの兄から借りた服のせいで不思議なのだろう。
差し出した手から腕へ、上半身に移動し、口元までくるとぺろりと舐められた。
「んっ」
健の反応を見て、低く振っていた太いしっぽが少し上がる。
ぱたぱたぱたぱたと音を立てて楽しげに、さらに健の顔を舐める。
「わっ、ちょっ……」
「あ、こらアンちゃん、ダメだよ」
さくらが引き離すと、アンコは名残惜しそうに健を見つめた。
前足はどうやら踏ん張っているようで、隙があればまた飛びついてきそうだ。
「あー、さくら、いいよ。懐っこいな」
健が言うと、アンコのしっぽは大きな音を立てて床に叩きつけられた。
ぐぐっと前のめりに力が入り、さくらの手をするりと抜けた。
再び健の顔を舐めようとぺろぺろとする。
「わかったわかった。かわいいな、お前」
甘んじてその歓迎を受ける。
健が「よし」としたことで、アンコのテンションはみるみると上がっていく。
アンコの両頬を掴んでそれ以上前のめりにならないように押さえていたのだが、大型犬はやはり力が強い。
すぐに押し切られて、耳まで舐められた。
「ふっ。くすぐったいって」
体をよじって逃げようとするが、興奮したアンコは止まらない。
太いしっぽは千切れそうなほど振り回されていた。
「やめろ、アンコ。それはダメだ」
くすぐったさから、健は笑いながら逃げる。
アンコはそれでも前のめりにきたが、今度こそ腕で押し返す。
「もうダメ」
言葉の意味はちゃんと理解している。
つぶらな瞳で健を見上げ、耳は後ろへ。しっぽは相変わらずぱたぱたと忙しないが、我慢をするアンコは賢い。
さくらがそれを、羨ましそうに見ていた。
「どうした?」
「健くんが笑ってる……」
「? 俺も笑う時は笑うけど」
「まだ、笑ってる」
指摘されて、口元が緩んでいることに気づく。気づくと、恥ずかしい。
健は口元を手で覆って隠した。
「あぁっ、なんで隠すの?」
「そんなまじまじと見られたら恥ずかしい」
「だって貴重だもん!」
「そんなことないだろ……」
「アンちゃんが羨ましい〜。健くんをそんなに笑わせられるなんて」
「じゃあ、さくらも笑わせてみれば?」
「えっ」
ぴたりと動きを止めたさくらは「どうやって」「何をしたら」と、次第にあたふたし始める。
その様子を見たアンコは、今度はさくらの方に楽しいことを求めて寄っていった。
そのうちにさくらが頭を抱えだしたので、健は吹き出してしまった。
「そんな真面目に考えるなよ」
「か、考えるよ〜!」
さくらの必死な返しに、くく、と笑いが漏れてしまう。
どうやら笑いのツボが浅くなっているらしい。
アンコが健とさくらの顔を交互に見て、目を細めて口角を上げた。
穏やかな時間が流れる。
すっかり恐怖心がなくなった、その時。
再び電気が明滅し始めた。
「きゃっ、また……!?」
「さくら。俺から離れるなよ」
丸まって寝ていた柴犬が飛び起き、唸り声をあげる。
みるみるうちに毛が逆立ち、牙を剥く。
耳が二階を向いた。それが少しずつ移動し、壁を伝っているかのように一階へ。
ぐるりと外壁に沿って回っているようだ。
柴犬が機敏に、その動きを追っている。
「探してるな」
「探してる……?」
「さくらのこと」
「わ、わたしっ」
柴犬の耳が一点を向いて止まった。さらに毛が逆立つ。
リビングの掃き出し窓、かけられたカーテンに、その影がちらつく。
「さくら、見るな。俺の背中にしがみついとけ」
きゅ、と背中に感触。
ちらつく影は、シルエットから男だとわかる。背丈は女性より少し高めの、小太り。
連日、さくらにつきまとっていたあの男に間違いないだろう。
柴犬の唸りが凶暴になる。
窓に走り寄ると、カーテンに潜り込み勢いよくその影に飛び付こうとする。
「ガァァッ」と喉から声を出し、最高潮に怒りを表した。
気圧された影は、また逃げた。
電気の明滅が止まる。
健の背中でさくらが、ほっと息をついた。
「怖かった……」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫……」
柴犬が窓から離れ、再びさくらの横にくる。
健をちらりと見上げたが、アンコほど興味はなさそうだ。
「あの男、きっとまた来る。俺がいるのをわかってて来てる」
「男……?」
「一週間近くお前につきまとってた奴だ。見かけるたびに追い払ってたんだけど、しつこいな」
「健くんには、視えてたの?」
「悪い。怖がらせたくなくて言わなかったんだ。いつもこんな感じだったのか? だったら、俺……気づかなくてごめん」
「ううん……こんなに酷いのは今日がはじめて、だけど……」
ぷつりと、言葉が途切れる。
少し待ったがその続きは出てこず、不思議に思った健はさくらを窺った。
「さくら?」
健に呼ばれて、さくらはふにゃりと表情を崩した。
「ふふ、ごめん。嬉しくて。健くん、そんなに前から気にしてくれてたんだ」
「え、まぁ……」
「毎日、大丈夫? って声かけてくれたよね。気づいてないなんて、嘘。ずっと気にかけてくれてた」
「…………怖がらせたくないのと、あんまり、踏み込んじゃいけないと思ったから」
「どうして? 私は、気づいてくれて嬉しかったよ」
さくらはきっと、本心でそう言っている。
向けられる笑顔に、健は上手く言葉を出せなかった。いろいろな感情が混じり合う。
そして、気恥ずかしくなり、目を逸らした。
「あの男のことは、俺がどうにかする。また怖い目に合うかもしれないけれど、……ちゃんと守るから」
「……うん」
今、さくらはどんな顔をしているんだろう。
混じり合う感情はどうにも纏まらず、はっきりとしない。
それでも精一杯捻り出した言葉に、健は間違えていないかと不安になる。
耳が、頰まで、どうにも熱い。
それが、不安になる。
さくらはどんな顔をしているんだろうと気になるのに、健は顔を上げることができなかった。