隠伏する気配 3
坂下少年は健の姿を確認すると「なんだ」と胸を撫でおろしたように見えた。
施錠された扉。関係者でもない人間が入ってくるなど、誰も思うはずがない。
怪訝な表情で健を見続けていた。
が、その健の背後から。
弾んだ声が上がったのには、再び驚いたらしい。
「あ! 見つけたー!」
大智が顔を出す。
慌てふためく坂下少年はフェンスに寄り掛かり、なぜか体勢を崩した。
くるんと体がフェンスを通り過ぎて落下直前。
破れたフェンスに穴が空いているのが、立ち入り禁止の理由だったらしい。
「た、たすけっ……助けて!」
フェンスにしがみついた坂下少年はぶらんと体を投げ出した。
その光景にあわてふためく大智と、とっさに駆け寄り手を伸ばす健。
引きずり上げると、三者三様で大きく息を吐いたのだった。
「ごめんね。びっくりさせちゃって」
謝る大智に、坂下少年は再び怪訝な表情を見せた。
大智と健。坂下少年は右に左にと見やって、静かに口を開いた。
「俺が視えるの?」
「うん。視えるよ」
「そっちの、あんたも?」
「視える」
答えてやると、見開かれた瞳の中にわずかながらに喜びが見えた気がした。
しかし、大智の言葉にそれはなくなる。
「俺たちね、君を体に戻すよう頼まれてきたんだ」
「……は?」
途端、不機嫌さを露わにした。
「誰に?」
「えーと……」
「守秘義務がある。俺たちは仕事で来てるんだ」
依頼者不明などとは言えない。
警戒心を剥き出されている今、なおさらに。
言葉に詰まった大智に代わり、健が毅然と返した。
「なんだよ、守秘義務って。どうせうちの親だろ」
「それについては答えられない。が、お前の両親も心配してるだろ。体に戻れ」
「嫌だね」
坂下少年はふい、と、そっぽを向いた。
「戻りたくない理由は何?」
「関係ないだろ」
「でもさ、このままじゃいけないし」
「それこそ、あんたらに関係ない」
頑なな坂下少年に、大智も困り顔だ。
まだ16歳にもならない思春期真っ盛りの男の子。反抗期も相まって、扱いは非常に難しい。
会話にならないな、と健はため息をついた。
「たしかに、俺らには関係ないことだ」
「ふん」
「ちょっと、健」
大智が健を制する。
だが健は気にせず、坂下少年を見下ろした。
成長途中の男の子は健の身長には到底及ばず、圧倒された。
「関係ないが、お前の今後を教えてやる。体に戻らない場合の、今後だ」
「……なんだよ」
物の言い方が悪い自覚はある。あるからこそ、歯に衣着せずにわざと言う。
これくらい言った方が、驚かしにはなるだろうと。
「魂のない体は死ぬ」
「健!」
大智が声を張り上げた。
坂下少年を慮ったためか、そこには焦りよりも怒りが含められていた。
「大智。はっきり言っといた方がいい。体に戻るか戻らないかは、こいつ次第だ」
「だからって……」
「寝たきりの体は機能を落とし、弱っていく。病気じゃなくてもな。それくらい、お前の歳でもわかるだろ」
ぐっ、と詰まり、坂下少年は健から目を背けた。
言い返す言葉はない。フェンス越しに、階下の駐車場を当てつけとばかりに睨みつけた。
「…………別に、戻りたくないわけじゃない」
坂下少年はつぶやいた。
駐車場に一台の車が入ってきた。
混雑する中で、なんとか空きを見つけて駐車する。
降りてきた若くはない夫婦に、坂下少年の顔がさらに険しくなった。
「でも、今は」
カシャン、とフェンスが鳴る。
坂下少年がフェンスを掴んでいる。その手には力がなく、ただ指を引っ掛けているだけのようで。
「俺は戻るべきなのか、わからない。やばい奴だっているのに……」
「やばい奴?」
「いるだろ。そこに」
指をさした。そして、坂下少年は消えてしまった。
大きく風が吹き、キィィ——……っと扉が閉じていく。
屋上に出た際、とっさのことで閉め忘れただろうか。
坂下少年が指さしたそこは、重厚感を出しながら意外にも静かな音で「カチャン」と閉じられた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「健、坂下少年にちゃんと謝りなよ」
エレベーターを使うとナースステーションの前に出てしまう。
それを避けるために階段を使って屋上から下っているのだが、その間の大智はやけに説教じみていた。
「なんで」
「デリケートなことをズケズケと言うから!」
「あー。それな」
「もう、なんであんなこと言ったの! 坂下少年はお年頃なんだよ!」
「お年頃だからこそ、だ」
5階に着いたところで、急ぎ足の看護師とすれ違う。会釈をして看護師の背中を見送ると、少し声を落とした。
「あれくらいきつく言わないと、あの少年は聞く耳を持たないだろ」
「そうかもしれないけど、ちょっとくらいオブラートに包んでよ」
坂下少年は姿を消してしまったので、健と大智は振り出しに戻っていた。
再び病室を訪れるために廊下を一直線に歩き、505号室に向かっていた。
「俺はそんなに器用じゃない」
「言葉選びが悪すぎるんだって」
「あれはわざとだ」
505号室の少し前で立ち止まる。
扉が開きっぱなしだ。中からは苛立った女性と男の子の声が聞こえた。
不穏な空気に、健と大智は病室からは見えない所で、そのやりとりに耳を傾けた。
「——またいらっしゃったの? お見舞いはいらないと言ったのに」
「すみません……」
「あなたのご心配はいりません。光はじきに目を覚ましますから」
「……」
そこに、廊下を走って男性がやってきた。
病室に入り込むなり、苛立つ女性との間に入って男の子に帰るよう促し始めた。
「いつも悪いね。光は大丈夫だから」
「俺こそ、勝手に来てすみません。これ、授業のノートです」
「あぁ、ありがと……」
「そんなもの、結構です。光はあなたと違ってすぐ遅れを取り戻せますので」
「やめないか、お前」
そそくさと退出してきたのは、坂下少年と変わらない年頃の男の子だった。
健と大智を見ると、早足でその場を去っていく。
病室では夫婦の諍いが始まっていた。
「おい、やりすぎだぞ」
「何がやりすぎなの。あの子のせいで光は……!」
「光が頭を打ったのは、あの子は関係ないだろう!」
「関係あるわよ! あんな子と遊びに行かなければこんなことにはならなかったのに!」
「お前は、光から友達すらも取り上げる気か!!」
ぱたぱたと急ぐ足音が聞こえた。
数人の看護師が病室に入り、夫婦をなだめる。
廊下に声が漏れないよう閉められた扉はゆっくりと閉まっていく。その隙間から坂下少年の姿が見えた。
夫婦のやり取りを静かに眺めている。少しつつけば泣いてしまいそうな、そんな面持ちで。
扉は、完全に閉まった。
「坂下少年が戻りにくいの、少しだけわかった気がする」
大智が言う。
健も「そうだな」と答えた。
キツい印象の母親に、追い返された友人。
目の前で隠すことなく始まる、自分を巡る夫婦喧嘩。
気難しい年頃じゃなくとも、頭を抱えてしまうだろう。
「でも、このままじゃいけないな」
「うん。助けてあげたい。俺、力になれるかな……」
「なれるさ。大智なら」
閉まった扉をまっすぐに見ていた大智が、健を見上げた。
健は横目で大智を見下ろしながら、意地悪く笑みを浮かべる。
「俺は不器用で口も悪いからあんなことしか言えないけど」
「えっ。そこ根に持ってんの?」
「別に。そのおかげで本音は引き出せたし。あとは、坂下少年が溜め込んだものを吐き出させてやればいいだろ」
「……話してくれるかな」
「大丈夫。大智、得意だろ。人に寄り添うの」
俺の時も、と。
口には出さなかったのだが、付き合いの長い友人には伝わってしまったようだった。
「健だって、下手くそなだけで優しいじゃん」
へらっと溢れた笑みに、自信のなさはもう見えない。
途端に強気に、「健は本当に損してる」と憐れまれたほどだ。
「いいんだよ俺は」と、健は大智の頭をわしわしとなでた。
「頼りにしてるよ。あとは任せた」