桜下の雪原 4
付き合って3年。
29歳の誕生日にプロポーズされ、30歳の誕生日を迎えると共に式を挙げようと約束していた。
それまでの段取りを組む、忙しくも楽しい日々。
彼の隣で輝いていた。誰よりも幸せで、何よりも大事なものを見つけて。
世界が幸福に包まれたような、そんなあたたかな気持ちで満たされていた毎日。
ふと差した小さな影は、瞬く間に広がっていく。
「……ガンだったの。見つけた時にはもう余命宣告されるほど。若いから、進行が早かったのよね〜」
土手の中腹に座り、みちるは川向こうの桜と “雪原” をまっすぐ見つめる。
隣に座った大智は、そんなみちるの話に静かに耳を傾けていた。
隣市に渡り、近くで見ようかという提案には首を横に振られた。
「結婚間近よぉ。そんな時に余命宣告。ドラマかなんかなの〜? ってびっくりしちゃった」
「……その、彼は?」
しんみりとした空気なのに、みちるの陽気さは変わらない。
無理矢理笑っているようには見えず、かといって開き直っているようでもない。
みちるの本心はどこなのだろうと、大智は探りながら尋ねた。
「ふふ、大泣き。君が一番辛いのに、ごめんね〜って。でも私はそこまで落ちてなかったのよぉ。完治して、絶対に結婚しようって約束もしてたから」
「前向きだったんだね」
「ん〜、そうでもないかなぁ」
風が吹く。
ゆるく流れる川にさざ波が立ち、水面がきらきらと揺れる。
陽は、少しずつ落ちていく。
「自分の身体のことは、自分が一番わかるからね。無理だな〜って思った。でも、私が悲しみ始めたら、それこそみんな深刻になっちゃうでしょ?」
みちるが目を細めて微笑む。
「泣いて苦しんでる私の記憶より、笑って楽しく過ごしてる私の記憶が残る方がいいじゃない。私が死んでも、みんな、前向きになれる。……あんな風にね」
肩車をされた小さな男の子と、父親。
その隣に母親が並び、河川敷を歩いていく。
みちるの目に映っていたのは、みちるの歩むことのできない未来を歩く、未来の彼だった。
「幸せそうでよかったわ〜」
「……え、あの人? そんなことある?」
「毎年来てるって言ってたからね〜」
みちるはその家族の姿を目で追い続ける。
穏やかな横顔に、少し憂いをのせて。
「……会いに来たの?」
「ちゃんと前を向けてるか、気になってたの」
憂いが強くなる。
笑ってみせようとして、それがうまくいかず、みちるは目線を空の彼方へ逃した。
「大丈夫だった。子供もいた。そりゃそうだよね、私が死んで何年も経ってるもん。……前を向けていないのは、私だけ」
「でも、みちるさんは前を向くためにここに来たんでしょ?」
鼻の頭がわずかに赤い。
こっそりと噛み締めた下唇はすぐには言葉を発さず、そこにみちるの本心が見えた気がした。
「……どうかな。彼に家族がいて嬉しいけれど、寂しいよ。それを知るのが怖くて、ずっと逃げてたの」
「逃げてたけど、今ここにいる。それは前を向いたってことでしょ?」
みちるは空を見続ける。
噛み締めた口元はわずかに震え、上を向いていることで必死にこぼさないようにしている。
大智の問いに、答えは返ってこない。
「みちるさんみたいな陽気な人が、なんの未練があって残ってるんだろうってずっと考えてたんだ。彼のことかなって思ったけど……違うよね」
彼の姿を見つけた時、子供がいるとわかった時。
みちるの表情に陰りはなく、本当に嬉しそうなのが大智にも伝わった。
一度は愛を誓ったその人の幸せを見つけて。家族という未来を、見届けられて。
みちるの本当の未練は、そこにはないのだと。
「……ねぇ、みちるさん。泣きたい時はちゃんと泣かなきゃダメだよ」
噛み締めていた唇が、耐えきれずに息を漏らす。溜まった涙が静かにこぼれ始めた。
みちるの肩が震える。
「泣かないと、悲しさや辛さがちゃんと伝わらないよ。本当は彼に、それを知ってほしかったんじゃないの?」
いつも明るく陽気だからこそ。
周囲がそれを求め、それに応えてきたみちるだから。
恐らく、一番辛い大事な時ですら、無意識に周りはそれを求めた。そして、みちる自身も無意識に応えた。
「彼ほど落ちなかった」と言ったみちるは、心にしてしまった蓋に気づくことはなく。死後の今、とうとう気づいてしまった。
苦しさも、辛さも、悲しさも。
共有し、生き長らえることができずとも、彼と乗り越えるべきだったのだ。
「……隣にいるのが俺で申し訳ないけどさ。最後まで隣にいるから、我慢してた分、思いっきり泣きなよ」
大きく、何度も頷くみちるはもう何も隠さなかった。
拭いきれないほどの涙を流して、耳を覆いたくなるほどの大声をあげて。
誰にも視えず、聞こえずの存在だけれど、たしかに隣にいる。
この姿がお前の目にも映れと思った。
この全力の泣き声がお前にも聞こえろと思った。
これは、八つ当たりだけれど。
涙を拭ってやれないもどかしさに、苛立ちが募る。
家族で帰路につきはじめる父親の背中に、その姿が見えなくなるまで、大智は気持ちをぶつけ続けた。
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抱えた膝に、顔を伏せて座り込んでいた。
みちるが消えてからどれだけそうしていただろう。
隣に誰かが腰を下ろす気配に気づいて、大智はようやく顔を上げた。
空はうっすらと橙に染まり始めていた。
「あれが “雪原” か。見事だな」
川向こうを見て、健が言った。
「……健、どこ行ってたの」
「大学」
「情報収集?」
「教授とか捕まえてな。隣市の河川敷で毎年やってるんだってさ。桜と雪柳のお祭り」
「ユキヤナギ……」
桜の木の半分ほどの高さの低木。
枝垂れた枝に、雪のような白く小さな花が一面についている。
「 “雪” 、あながち間違ってなかったな」
「そうだね、たしかに “雪” に見えるけど……あぁー、もう…………」
「お前は何を落ち込んでるんだよ」
また顔を伏せた大智に、健が呆れたように言う。
思考がぐるぐるとまとまらない。
悲しいのか、後悔なのか、怒りなのか。
健に、どれをぶつけていいのかわからない。
「……俺、みちるさんに何かしてあげられたのかなぁ」
どれもぶつけていいはずがないので、大きく息を吐いてそれだけをつぶやいた。
健は、少し沈黙してから口を開いた。
「満足したから消えたんだろ。俺や大智があれこれ悩んでも、その人が納得すればそこで終わりなんだ。生きてる人間とは違う」
「わかってるつもりだけど……」
「大智だから見送ることができた。以上。気に病むな」
健の手が大智の頭をぐしゃぐしゃと乱雑になでた。
そのせいで鼻を膝にぶつけ、ツーンと痛みが走る。
健が立ち上がった。
「お疲れさん。ユキヤナギ見に行こうぜ」
大智は痛む鼻を押さて顔を上げた。
滲んだ涙が頰を伝いそうになり、急いで上を向く。
橙の空に、白い花びらが舞い上がった。




