湖 2
男は生前よくこの湖に家族と訪れていた。
この湖の近くで生まれ育ち、自分が幼い頃そうされてきたように、自らの家族が出来た後も定期的に湖に訪れていた。
男にとって思い出の詰まった湖なのだ。
結婚した時も、妻が懐妊した時も、子供が生まれた時も。
子供の成長を見守り、子供は成人し家庭を持ち、孫もできた。
長年勤め続けた職場も定年を迎え、華やかに送り出された。
誰もが送るであろう人生を男は全うしてきた。
いくら齢を重ねても男は変わらずに湖に通い続け、ベンチに座り、日がな湖を眺め続けたそうだ。
そして、男は穏やかにこの世を後にした。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
『ていうのが本当の話』
「それ、大往生でまったく未練とかそういうのがなさそうなんだけど……」
ザザッ……
「いたずらしてる男って、おじいさんなの?」
「おい」
一楓と大智のやりとりを遮り、これまで一言も発することなく黙々と歩いていた健が声を出した。
何も言わずに大智に目配せする。視線の先は、大智の手に持っているスマホだ。
『きたかな』
一楓の声にザザッ……ザザッ……とノイズが強く混じり始めた。
辺りの気温がぐっと下がった気がする。草木がざわざわしているのは、最初からだったか?
「大智、塩用意しとけ」
「も、もう持ってる」
いつの間にやら大智の手には塩の入った小袋が握り込まれていた。
ぽちゃんっ
湖で何かが跳ねた。
健は瞬時に懐中電灯で湖面を照らすが、波紋が広がっているだけだった。
大智がやたら服の裾を引っ張っている。
「なんだ」
「なんだって?」
「服引っ張っただろう」
「引っ張ってないよ」
大智の手を確認する。右手にはスマホ、左手には塩の小袋を持っている。
「………」
「………」
どちらかが動けばどちらも走り出すだろう。お互いが顔色を伺い合っている。
落ち着け、と健は息を整えようとするが、向かい合っている大智が怯えた顔をしているのでどうにもつられてしまう。
どうすればいいんだ。
ザザッ……ザッ……
心臓が飛び跳ねた。
静かになっていたスマホから、再びノイズが流れ始めたのだ。
大智はスマホを落として飛び退いた。
お互い、よく走り出さなかったと思う。
『2人とも大丈夫?』
一楓の声がノイズに混じって聞こえる。
健と大智は硬直が解けて息をついた。
『おじいちゃん、出た?』
「服の裾引っ張られました」
『ふふっ。たぶん今、怖がってるの見ておもしろがってるよ』
健は、場違いに笑う声にとてつもない安心感を覚えた。
草木がざわざわ風に揺られている。そうだ、最初から風に揺られていたじゃないか。
恐怖に支配されるとそんなことすら疑ってしまうのだ。
恐怖が和らいだと同時に、おもしろがっているのかと思うとだんだんと腹立たしくなってきた。
「大智、さっさと帰ろう」
「う、うん」
『残り半周くらい? がんばれ〜』
再び懐中電灯で足元を照らしながら健と大智は歩き出した。
ギシッギシッと音を立てながら躊躇なく前へ進む。
一度恐怖を乗り越えたので気持ちに余裕ができたようだ。次また脅かしにきたら一喝してやろうか。
「大智、ここ出たら飯食いに行こうぜ」
「いいね! このまま別れて帰るのなんとなく嫌だし」
『え〜ちょっとちょっと、2人だけで? ずるいよ〜』
来たいのなら一楓も来ればいいが、大智が「いいでしょ〜」と流して誘わなかったので何も言わなかった。
一楓と大智がわいわい喋り残り三分の一ほどの所だろうか。
大智の足が急に止まり、健も足を止めた。
「あれ? 懐中電灯が……」
大智の懐中電灯がふっといきなり消えたのだ。
「電池切れか?」
「そうなのかなぁ、買ったばかりだったんだけど」
懐中電灯を振ったり叩いたりするが、うんともすんともだ。
なんとなく嫌な予感がしてきたので、早急に駐車場に戻りたい。
「俺のはまだついてるし、さっさと行こうぜ」
「うん。……あっ」
健は大智を見る。
大智の表情が強張っていた。
どうした、と声をかけようとすると、大智は恐る恐る口を開いた。
「裾っ……」
誰かが裾を引っ張っている、と健は理解した。
誰か、とはここでは1人しかいないと確信する。
舞い戻る恐怖心を押し込め、健は口を開いた。
「このやろ」『待って』
一楓が静止した。
健も大智もスマホを見る。
『何か伝えたいみたい。私が聞く。2人はそのまま動かないで』
何がなんだかわからない健と大智は、一楓の言う通りにした。
大智の額にはじんわりと汗が滲んでいる。またざわざわと草木がうるさい。
たった数秒のことなのに、数分にも数十分にも感じられた。
大智は背後が気になって仕方ないようで、そろそろ限界そうだった。
『2人とも、動いていいよ』
大智がぷはっと息を吐いて、健にしがみついた。引っ張られていた裾も解放されたようだ。
健も健で、気づかないうちに汗が頬を伝ってきていた。
『おじいちゃんが教えてくれた。助けてやってくれって』
大智の裾を引っ張っていた者を、一楓は「おじいちゃん」と言った。やはり件の老人だった。
そして、意図のわからないことを頼まれた。
「助ける?」
健が問う。
『見つけてあげてほしい』
「何を?」
今度は大智が。
『落ち着いて聞いてね』
『その湖で自殺した子がいる』
草木のざわめきが収まり、静寂の中。
一瞬にして身の毛がよだった。
悪寒が身体中を走った。寒い。汗が止まらない。
自殺だと? 見つけるって?
『ごめん、こんなつもりじゃなかったの。ただの肝試しのはずだったの、本当にごめん』
一楓が申し訳なさそうに謝る。
『でも、お願い。その子を見つけてあげてほしい』
「ちょ、ちょっと……」
『健くん、今後君にやってもらいたいのはこういうことなの。現世に未練を残して救われない人たちを導いてあげること』
「一楓さん、待って。何がなんだか」
『無理なら断ってくれていい』
「姉ちゃん、警察に連絡するだけじゃダメ?」
青い顔をしながらも冷静に大智が言う。
そうだ、警察に連絡したほうがいいに決まってる。自分たちができる範疇を超えているのだ。警察に連絡しよう、自殺した子がって、あれ? ちょっと待て。なんて連絡すれば、正確に伝わるんだ?
『警察は取り合ってはくれないよ。遺体はもう上がってるもの。警察と遺族の中ではとっくに終わった話なの』
「どういうこと? 姉ちゃん、ちゃんと説明してよ」
『……その湖で自殺した子は、身体はもう家族の元に帰ってる。見つけてあげてほしいのは、残されたその子の魂よ』
「魂……」
『その子は湖から動けない。家族は身体だけを連れて行ってしまった。置いていかれた、とその子は思ってる。誰も見つけてくれない、と』
「一楓さん、仮にその子の魂とやらを俺が見つけたとして、その子は満足するんですか?」
見つけてほしいのは、家族にではないのか?
その子を満たしてあげられるのは俺や大智ではなく家族に他ならない。それなのに、俺が見つけてあげることになんの意味がある?
「家族にこそ見つけてほしいんじゃないんですか?」
一楓は黙った。
返す言葉もないだろう。
『本当は、健くんが正式に手伝ってくれることになったら話そうと思ってたんだけど……』
少しの沈黙の後、言い澱みながら一楓が話し始めた。
『健くんは暖かくて強い光をまとってるわ。きっと、ご先祖様のご加護が強いのね。すごく暖かくて優しい光。そこに飛込めば、心安らかになれそうな、そんな光よ』
健には思い当たることがあった。
まだ霊感の残る幼い頃、他の人には視えないであろう者たちが自分を見て顔を覆ったのだ。一度や二度じゃない。そして、その者たちは決して自分に近寄ることはなかった。
たまに、霊感があるという人に出会うと「お前はなんか眩しいな」と言われることもあった。
『悪いものは絶対に近寄らないわ。ううん、近寄れないのね。健くん、まだ視えてる時に、あなたに害を与えるような者に会ったことある?』
「いや……」
『そういうことなの。でも、助けを求める者や害を与えない者は普通に近寄ってきたはずよ』
言われてみると、たしかにその通りだった。
『健くんに素質があるって言ったのはそういうことなの。あなたはその光で助けてほしい者たちを救うことができる』
「でも一楓さん、具体的にはどうやったらいいのか……」
『きっと、見つけてあげることが一番だと思う。その光に触れて安らかになれば、それだけで満足する者もいるわ』
見つけてあげる……。
だが、健はもう視えない。
どうやって見つけるというのか。
『視える視えないに関わらず、波長が一番大事よ。波長が合えば誰だって存在を認識することができる』
「波長はどうやって合わせれば?」
一楓がふっ、と小さく笑った。
『健くんはもともと視えていたんだもの、簡単なはずよ』
見つけてあげたい、そう心から思えば視えるようになる。