モズの家 4
ダンッ!
部屋に突如響いた音に、大智はハッと我にかえる。
いつ手にしたのか、黒い表紙のノートを持っていた。開き癖や紙がよれて膨らんでいることから、日常的に使っていたものだとわかる。
そのノートに、ぱたり、と水滴が落ちた。
知らぬうちに頰を伝っていた涙だった。
ダンッ!
バンッ!
今度は意識がしっかりとしていたので、驚いて飛び上がった。
音の鳴る方——窓を見ると、怖い顔をした健が、窓の外から思いきり叩いていた。
大智は、急いで窓を開ける。
手から滑り落ちたノートはページが開き、ぱらぱらと紙片が散らばった。
「健、そんなとこで何して……うわっ、ちょっ、早く入って!」
健のコートを掴み、力のままに部屋に引きずり込んだ。
肩で息をする健はすぐに体を起こし、部屋をぐるりと見回して「くそっ、逃げやがったな」と舌打ちした。
「足がかりもないのにどうやって登ってきたの。危ないよ、健」
「危ないのはどっちだ。ひとりで入って行くな!」
健は珍しく声を荒げた。
よく見れば汗だくで、足がかりもないこの二階の部屋の窓まで必死に登ってきたのだとわかった。
自分の危険など省みず、ただひたすらに大智を心配して。
「……ごめん。でも、健は帰っちゃったのかと思ってた」
「帰ってない。扉も窓も開かないし、大智に声も届かなかった。あの子供がそうしたんだろ」
手の甲で汗を拭う健は大きく息を吐き出した。
大智をちらりと見て、すぐに目をそらす。
そして小さく、静まり返った部屋でようやく聞こえるほどの声で、つぶやいた。
「…………無事でよかった」
「……うん、ありがとう」
返事をした大智も、なんだか照れ臭い。
健に向けていた目線を逃すと、床に落としたノートが目に入った。散らばる紙片は健を引きずり込んだ際のばたばたで、さらに散らばっていた。
「あ、これ」
「いい、大智は触るな。俺が拾う」
「大丈夫。俺、もう視たから」
そう言って、大智はノートを拾いあげた。
散らばる紙片も丁寧に拾い集めていく。
「視たのか……?」
「うん、視たよ。あの子の記憶」
「大丈夫か?」
「大丈夫。……最期の瞬間は、健が遮ってくれたから」
最後の紙片を拾い、手のひらでそっと包み込む。あの少年の、大事な宝物。
最期に悔いた、やり残し。
「あの子が俺にしてほしいこと、わかった。俺に任せて」
そう言って健を見ると、目を丸くしていた。
でもすぐに口元が上がって、顔を綻ばせて頷いた。
「短時間で成長したな」と、珍しく笑顔を見せてくれた。
大智は健にスマホのライトで照らすように頼み、ノートの上で紙片を繋ぎ合わせた。
持ち合わせていたテープで貼り付け、形を作っていく。
笑顔のお父さん。泣き顔のお母さん。眠っている弟に、恥ずかしそうにはにかむ少年。
できあがった手のひらサイズの写真は、少年が記憶の中で思っていた通りの家族写真。
……——むしろ、それ以上に幸せが溢れる、絆を繋ぎあった本当の家族の写真だった。
「こんな家族を持っているのは、君だけだよ……」
堪らず涙が溢れそうになる。
拾い上げたノートをぱらぱらとめくると、それはどうやら日記らしかった。
記憶のものとは違い、家族との思い出ばかりのもの。
イジメや辛い目にあった出来事などは一切なく、ただ家族と楽しく過ごしたことだけが書かれている日記。
最後のページには、まだまだ小さな弟に誘われて背比べをした、と書いてあった。
リビングで見たあの記憶は、きっとこの光景だったんだなと優しい気持ちになった。
大智はそこに、写真を貼り付けた。
つぎはぎだらけでくしゃくしゃになってしまっているけれど、それでも少年は喜んでくれるはずだと思って。
ノートを閉じて、立ち上がった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「これで、よし」
霊園に戻った大智は、少年の墓石に先ほどのノートを置いた。
汚れないように袋に入れて、飛ばないように重しをして。
少年が望んだこと。家族にこのノートを渡すこと。
家族との日常を書いただけの日記は、残された家族にとって、きっとかけがえのないものになる。
普通であり、普通でなかったからこそ。
なんの変哲もない日常を大事に過ごしたとわかるこの日記だから。
少年が、幸せだったと何よりも伝わるはずだ。
「置いといていいのか? 家族がいつ来るかもわからないのに」
街灯はあるが、日の沈んだ霊園内は薄暗い。
健がスマホで大智の手元を照らしてくれていた。
「うん。あの子の記憶の最後の日付が、明日だったから」
大智は健に、墓誌を照らすように頼んだ。
そこには少年だけでなく数名の名前が記されてあり、戒名と没年月日も。最後のものが、ちょうど明日の日付だった。
ちゃんと少年が家族のお墓に入っていることに安堵し、また優しい気持ちになる。
「……ここ数日、なんとなくだけどあの子のことが気になってて。それで通ってたんだ」
大智はお墓に手を合わせると、ぐるりと周りを見渡した。
少年の影はどこにも見当たらない。てっきり、消えた後はここに戻ってきているのだと思っていたのに。
「あの子も俺に気づいてくれてよかった。健には心配かけたけど、あの子の力になれたならよかったよ」
「……まぁ、結果的にはな。気づいてたのはあの子供だけじゃないけど」
「どういうこと?」
そう聞くと、健は横目で俺を見たまま口角を上げた。暗がりで、そう見えた。
意地の悪い声色だったからかもしれない。
「有名な言葉。 “深淵をのぞく時、深淵もまた……” てやつ」
「あぁ、ニーチェの。…………えっ?」
「お前がその辺の浮遊霊を見ているのと同じく、浮遊霊も挙動不審なお前に興味津々だったぞ。大学には日毎に増やしてぞろぞろと背後霊ひきつれて」
「……えっ!?」
大智は勢いよく背後を振り返った。
だがそこには何も居らず、暗闇の中にうっすらと墓石が並んでいる。
何もない。それが殊更に大智の恐怖心を加速させた。
「今は!? 今もまだついてんの!? 俺、視えないんだけど!」
掴みかからんばかりの勢いで健に飛びつくと、健は顔を背けて「ぶはっ」と噴き出した。
見上げると目が合い、取り繕うように咳払いをされた。
「悪い。びびってんの久しぶりに見た気がして」
「健〜……」
「今は憑いてない。俺のそばにいるしな」
だから引っ付くな、と体を離された。
一楓が以前に言っていたことを思い出す。健には、悪いものは寄り付かないと。
今では視えるようになった大智だが、健が纏っているという光は見えない。
見えないが、一緒にいる時の安心感や頼もしさの正体がそれなのだとわかるようになった。
それに惹かれて健に助けを求める者がいるのも、納得だ。
「……健、助けに来てくれてありがとね」
「礼なら、乃井さんに。ここに連れてきてくれたのは乃井さんだから」
「あぁなるほど、乃井ちゃんか。心配かけちゃったな」
「あとで連絡入れとけよ」
「そうだね。あー……あとさ、健」
スマホのライトを消し、霊園の出口へ歩き出そうとする健の背中を呼び止める。
「ごめん。急にライバルとか言って、避けて」
「いいよ。結構応えたけど」
「ご、ごめん……」
振り返る健は街灯の逆光で表情が見えない。
本気で言ってるのか、冗談なのか。声色からはわからなかった。
少しの無言のあと、健は口を開く。
「大智は、俺のそばにいた方がいい」
「急に、何?」
「視えるということは引き付けやすい。対抗策のない大智じゃ、好き勝手にくっつかれる。今日、改めてそう思った」
改めて。大智も先ほど痛感したことで、返す言葉がない。
視えるようになったところで未熟だ。
恐怖心を克服したところで、生まれながらに視える一楓や健からすれば頼りないのは当たり前。
その当たり前を覆したいと行動したわけだが、結局は健に心配をかけてしまった。
「健、本当にごめん」
「あー、いや、謝らせたいんじゃなくて」
健は俯き、ぐしゃぐしゃと頭をかいた。あー、とか、んー、などと唸っている。
どうやら言葉を選んでいるようで、首を振る仕草も。
「俺は別に、大智を頼りないとか信用がないなんて思ってない。その……友達だから、心配なんだ」
「……友達」
「お前が一楓さんの力になりたいっていうのは、よくわかってるから。1人で突っ走んないで、俺を巻き込め」
「……巻き込んでいいの?」
そう問うと、「当たり前だ」と当然のように返された。
顔は見えないけれど、今度は健の気持ちがわかる。照れ臭そうに、きっと口をへの字に曲げている。
ふふ、と、つい笑ってしまった。
「おい、何笑ってる」
「ふふ。いや、嬉しくて。健に迷惑かけてばっかりだし、そんなこと言ってくれると思わなかったから」
「……言ってないだけだ」
健はさらに照れ臭そうに、ふいと顔を横に向けてしまった。
暗がりで顔が見えないことに、たぶん気づいていない。
「健は優しいよなぁ。いつも甘えてるけど、もっと甘えていい?」
「……何」
「俺、過去視はやめないから」
笑いを収めてはっきりと言った。
健はこちらを見ることなく、短くため息をつく。
健の白い吐息が、風に流れた。
「わかってた」
「また、助けてくれる?」
「まったく」
「当たり前だろ」と2度目の返事。
何度も言わせるなと、呆れたように。
ようやく顔をこちらに向けて、健は片手を上げた。
手のひらを大智に向けて、ハイタッチの形で。
「2人で頑張ろうぜ」
「……ありがと」
寒空の下、パチン、と乾いた音が鳴った。
かじかんだ手のひらと手のひらが重なった音。
未練を残す幽霊を救おうとする健の手は冷たく、そして、誰よりもあたたかい。
その隣に並んで立てたら。
大智は、鈍く痺れる手をぎゅっと握った。