散歩 6
「パパ……?」
翔太がそっと手を伸ばす。
その手が順一の頭に触れると、順一はゆっくりと顔を上げた。両頬には涙の筋ができていた。
「ぱぱ、もうこわくない?」
ひっく、ひっく、としゃくりあげながら、秀太は順一を見る。
そんな秀太に、順一は優しく微笑んで両手を伸ばし、抱きしめた。
そして、翔太も。
「本当にあなたなの……?」
由美が窺い気味に近づく。
順一は微笑んでいるが、その中に憂いが含まれているのはなぜだろうか。悲しげな表情は、由美の戸惑いを大きくする。
「じゅ、順一……どうして母さんにこんなことを……」
乱雑に押しのけられ、へたり込んでいた義母が震えながら自身の肩を抱いた。
「やっぱり、こんな嫁をもらってからお前はおかしく……」
義母が言い終わる前に、順一は義母を鋭く睨んだ。
「ひっ」と仰け反る義母をさらに威嚇するように、順一は前のめりになる。
順一を作り出している靄が、怒りに同調してぶれ始めた。順一の形に、別の形の靄が肥大する。
「あなた、もうやめて!」
由美が義母と順一の間に割って入った。
「私は大丈夫だから、もうやめて……」
由美の言葉に、肥大した靄は順一に折り重なるように消えた。
消えた靄は、太く、長く、逆立つように、順一の腰から形を作っていた。まるで、尾のような。
「……そういうことか」
痛みに顔をしかめながら、健は呟いた。肩の傷は熱を持ち、どくどくと脈打つ感覚が気持ち悪い。汗が一筋、額を滑った。
健は肩の傷を押さえ込むと、ふぅ、と息を吐いて痛みに耐える。一歩踏み出し、順一に近づく。
「どういうこと?」
大智が後ろから尋ねる。
「こいつは、順一さんじゃない」
皆の顔が強張った。
由美は、ちらりと兄弟を見た。兄弟は順一の腕の中にいる。
「あなた達の良く知っている子です」
「一体、誰なんです?」
勿体ぶって言う健に、由美はもどかしさを覚える。
「自分で言う気はないか?」
順一は、何も答えない。
答えないが、由美をまっすぐと見る目には、訴えるようなものがあった。
その目線を、由美は、まっすぐと受け止める。
「…………まさか」
ハッ、と由美は気づく。順一の瞳に、由美は感じるものがあった。
兄弟は目をぱちくりとさせ、両親の顔を交互に見た。
「ましろ……?」
由美は、震える手で口元を押さえた。
「ましろ」と呼ばれた順一は、嬉しそうに目を細め、大きく頷く。
由美の瞳に涙が溢れた。
秀太が順一を見上げ、「まちろ?」と首を傾げた。
「えっ、ましろちゃんなの? 順一さんじゃなくて? 順一さんなのに?」
「そうだ」
健の後ろで、大智は疑問符を並べる。
健が答えても尚、口が止まりそうにないので手振りで黙らせる。
順一の形を成していた靄は、だんだんと小さくなっていく。人の形から、獣の形へ。
大きな立ち耳、マズルは細く、長い四肢に毛足の長いしっぽ。大きさは中型犬よりやや大きめで、白い雑種犬だ。
秀太が声を高くして喜び、抱きついた。
「ましろぉ……!」
翔太は涙を堪えるのに必死だ。
両手に握り拳をつくり、歯を食いしばっているところで、ましろに頰を舐められ号泣し始めた。
しゃくりあげる翔太を優しく見つめるましろ。しっぽは軽快にぱたぱたと床を叩く。
そんな光景を、由美は愛おしそうに目に焼き付けていた。
すると、ましろの耳がぴくりと前を向いた。鼻をひくひくとさせ、何かを感じ取っている。
秀太が「どちたの?」とましろに問う。
ましろは、由美を振り返った。
……モウ 行カナキャ
ましろは抱きついてる秀太のほっぺたを舐めると、秀太はくすぐったがり手を離した。
秀太の手から逃れたましろは、由美の前に座った。
……由美 病院 行ッテ
……マシロ モウ行ク
「行くって、どこへ……」
……マシロ 光ノ道 歩イテ行ク
「光の道……?」
「ましろは、迎えがきたんです。その光を辿っていけば、成仏できます」
健が答えてやると、由美は首を振った。
「そんな……いやっ……いやっ……ましろ、お願い、もう少しだけ……」
鼻の頭を赤く染め、溢れる涙は頰を伝い、顎から滴り落ちた。
ましろは由美を見て、困ったように耳を伏せた。
由美の涙を舐めてやり、自ら由美の腕の中へ入り込んだ。
……由美 泣カナイデ
……マシロ イナイケド 順一 イル
「あの人も目を覚まさないのよ……っ」
由美はましろの体を抱きしめた。
溢れ出る涙は、ましろの白く柔らかい毛に吸い込まれていく。
……マシロ 順一 ナッタ
……順一 起キル マデ
……デモ モウ大丈夫
「全然、大丈夫じゃない……!」
……順一 目 覚マス
……マシロ 仕事 終ワリ
「あなたはあなたなの、ましろも大事な家族なのっ!」
ましろの体に顔を埋めた由美は、周りを気にすることなくわんわんと泣いた。
ましろはされるがまま、時折しっぽで床をぱたんと叩いて、由美を受け入れていた。
由美のそんな様子に、翔太は涙を無理矢理拭って鼻水をすすった。
「ママ……俺、頑張ってましろにバイバイする」
翔太はましろをまっすぐ見た。
「……ましろ、ママのことは任せろ。安心して、天国に行ってね」
……翔太 アリガトウ
「ほら、ママ。ましろが天国に行けなくなっちゃうよ」
ましろにしがみつく由美を、翔太が宥めて引き離す。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした由美は、「うん、うん」と自分を納得させている。
……由美 出会エ 良カッタ
「私もっ、ましろ……」
……マシロ イツモ 見守ッテル
「うんっ……うんっ……」
立ち上がったましろは、泣きじゃくる由美の手に鼻をこすりつけた。
由美はましろの頭を撫でてやる。ましろがいつも、撫でてほしい時にする仕草だった。
気持ちよさそうに目を閉じ、満足気に口角を上げた。
そして、由美から一歩離れた。
…………マタネ
由美に背を向け、しっぽを大きく振ったましろは一足跳びに光の中へ消えていった。
静まり返る部屋は薄暗く、外はもう日が落ちていることがわかる。
由美は呆然と、ましろの消えた先を見る。滴り落ちる涙は、ぱたぱたと音を立てて小さな水溜りを作った。
誰もが微動だにしない中、無機質な電子音が響く。
テーブルの上に置いてある、由美のスマホだ。大智がそれを由美に渡す。
由美は感情の入らない表情で、スマホを耳に当てた。
「はい、松野です……」
抑揚のない返事に、次第に驚きが加わっていく。数回の会話の後、すぐに通話を切り由美は立ち上がった。
「あの人が、順一が目を覚ました……!!」
由美を筆頭に、義母も義父も慌ただしく動き始めた。
そして、健と大智も有無を言わさず車に詰め込まれた。由美に渡され、健はタオルで肩を押さえた。
病院に到着すると、由美達は病室へ、健と大智は処置室へと分かれた。
肩の傷は深くはないものの、何針か縫われ健は苦痛を味わうこととなった。麻酔など気休めに過ぎなかった。溶ける糸だというので、抜糸がないのだけが救いだ。
怪我の処置を終え、処置室を出ると義父が健と大智を待っていた。
「怪我の具合はどうでしょうか?」
「大したことはありません」
「……あんな家内ですが、守っていただき、ありがとうございました」
義父は深く頭を下げた。
「治療費はこちらで支払います」
「勝手にやったことなので、気にしないでください」
「そうはいきません。今日は慌ただしいので後日になりますが、必ず支払います」
「……では、お言葉に甘えて」
「家内と、息子夫婦共々、大変お世話になりました」
義父は再び頭を下げ、病室へ戻っていった。
義父の姿が見えなくなると、健は軽く伸びをして、深呼吸した。
「いてっ」
肩の縫い口がつっぱって、ズキズキと痛んだ。
大智が呆れ気味に見ている。
「何やってんの」
「緊張して体が固まってんだよ」
「……お疲れ様です」
「おう」
さて、帰るかと出入り口へ向かって歩き出す。
すれ違う看護師さんや、来院している人達は一様に健の肩を見ては目をそらした。
健の服は、肩から腰にかけて茶褐色に染まっている。どこかで羽織るものを調達しなければ、職質されてしまうだろう。
健はげんなりとした。
「あ、そういや一楓さんは?」
「んー、壊れた」
大智がスマホを出して見せた。
画面は真っ二つに割れ、電源がつかなくなっていた。
「一楓さん、何したんだ……?」
「さぁ……。これさ、俺が買い直すのかな……」
項垂れる大智の肩を、健は同情を込めてポンと叩いた。