黒猫 2
「にゃう」
健は足を止めて見回す。
もう一度鳴いてくれればどの方向にいるのかくらいはわかりそうなのだが、声の主はそれっきり黙ってしまった。
「どうしたの?」
立ち止まっている健に気がついた大智が振り返って見ていた。
「いや、猫の鳴き声みたいなのが聞こえて」
えっ、どこどこ! と、大智は忙しなく首を動かし始めた。
そんなに騒ぐと、猫も逃げてしまいそうなのだが。
「ここは町から外れてるけど、少し見て回るか」
健が提案すると、大智はすぐに自転車に跨った。
よっぽど猫を見つけたいらしい。
ひとまず丘の周りをぐるっと回り、わかったことは、町中よりも年季の入った家屋が多い住宅地だということだ。
家の形は違うが、連なっている塀は同じ物で、郵便受けの形やインターホンも一昔前の物のように見える。テレビドアホンに付け替えている家もあるが、恐らく建売で広げられた土地なのだろう。
木造アパートや、人が住んでいるのかいないのか、蔦の蔓延る長屋もあった。
「この長屋なんて、野良猫にはいい隠れ家になりそう」
長屋の裏手に回り込んだ大智だが、「あっ」と声を上げてそそくさと戻ってきた。
どうしたのかと健が見ていると、大智は苦笑いをしながら頰を掻いた。
「人、住んでるみたい」
不審者がいると誤解されては事なので、早々に長屋から離れることにする。
健が自転車を漕ぎだそうとすると、視界の端に小さな影が入りこんだ。
「にゃう」
こちらを見ていたらしい小さな影は、健が振り返ると、さっと背を向けて長屋の奥へと姿を消した。
「……」
健は自転車を漕ぎ出し、すでに先を走っている大智を追いかけた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
明け方、町中の公園の前を通ると、見覚えのある老人がベンチに腰掛けながら猫達に餌を与えていた。
猫達は、餌付けされていることはもちろんなのだが、その老人にはずいぶんと心を開いているようだ。甘えるような声を出して擦り寄っていた。
「文枝さーん!」
そこに更に擦り寄っていく、大型犬が1人。
「あれ、にいちゃん。おはようさん」
老人は大智に気がつくと、にっこり笑って猫の餌を大智に分けた。
大智は受け取った餌を猫に与え、その見返りに猫の背中を撫でる。頰が緩んでいる。
「探し人は見つかったかい?」
「見つからないんだ〜。文枝さんに頼まれた子も、今のところはまだ」
「ここらじゃ、黒猫なんてそうそう見ないから、いれば気づくと思うんだけどねぇ」
老人は、擦り寄る猫の顎を撫でる。猫はうっとりと目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らしている。
大智と老人のやり取りを見ていた健の足元に、ぶつかってくるものがいた。
先ほど見た、すぐに姿を消してしまった影とは違い、人懐っこい。
「黒猫ならさっき見たぞ」
足元にいた猫の脇に手を入れて持ち上げると、猫はびろんと伸びた。
抵抗するでもなく、されるがままに「なぁ」と鳴く。
大智と老人が、目を丸くして健を見ていた。
「ど、どこで? いつ!?」
「町外れの、あの長屋のとこで」
持ち上げた猫は、撫でてもらえないとわかると体を捩って健の手から逃げ出し、大智の手に擦り寄った。
「やっぱりあの子は、町外れに家があったんだねぇ」
老人は納得したように言う。
「首に赤いリボンをつけて、毎日でなく気まぐれに餌をもらいに来るんだ。可愛らしい顔の猫なんだが、警戒心が強くて誰にも触らせない」
「飼い猫だったんだ」
「恐らくねぇ。きちんと避妊されていたようだし、野良猫にしては毛艶が良かったよ」
老人は、擦り寄る猫の毛並みを手櫛で整えてやる。
背中からお尻にかけて撫でられた猫は、前脚を伸ばし、お尻を突き出してしっぽをぴーんと立てた。
「猫は気まぐれだから、いきなり来なくなっても不思議じゃないんだけど、もう10年くらいの付き合いだからなんだか心配になっちゃってねぇ」
「長い付き合いだね。黒猫も年寄りなんだ」
「もう10歳は越してるから、いつどこで死んでてもおかしくない年さ。ま、元気でいるならそれはよかったよ」
老人は残りの餌を猫に配って与え、膝を庇いながら重たげに立ち上がった。
「にいちゃん達、ありがとうね」
老人が帰る様子を察して、寛いでいた猫達は散り散りにどこかへと歩き出していく。
大智が老人に家まで送ると声をかけたが、じいさんに勘違いされたら困ると冗談めかして断られていた。
ゆっくりと歩く老人の背中を見送り、健と大智も一旦解散して家路についた。
昼過ぎ、自室で寝ていた健は大智からの電話で目を覚ました。
「夕方なら時間あるって。町外れの丘の下で待ち合わせよう」
用件のみで電話は切れ、部屋には外からの雑多な騒音が入り込んでくる。
うるさい、と顔をしかめるが連日の寝不足が祟っており、眠気には勝てない。健はそのまま微睡むことにした。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
夕刻、健は眠い目をこすりながら町外れの丘の下にいた。
まだまだ寝足りない。部屋を出る前に、寝癖を確認するため鏡を覗くと、目の下にはくっきりとクマが出来ていた。
「お待たせ〜」
同じく目の下にクマを作った大智が、後ろに初老の男を連れてやってきた。
男は小柄だが、腹には肉が付いていてせり出ている。困ったような顔をしているが、下がり眉なのでそれが普通なのだろう。
「こちら、依頼者の秋山さん」
「初めまして、秋山と申します。厄介なことを依頼してしまいまして、すみません」
秋山と名乗る男は、健と大智の顔を見るなりぺこぺこと頭を下げた。恐らくクマのせいだろう。
「母の家を見たいとのことですよね? えーと、こちらです。付いてきてください」
そう促して、秋山は迷いながら道を歩き出した。たどたどしい様子に疑問を感じていると、秋山は頭を掻いた。
「お恥ずかしい話ですが、母とはずっと疎遠だったもので……。ここに来たのも、母が入院してからが初めてでして」
なので、あまり道に詳しくないらしい。
考え考え歩く秋山のあとを、健と大智はついて歩いた。
文枝という老人を見送った後、今晩はどうするかという話になった。
正直、あとはもう老人ホームに探しに行くしかないんじゃないかという程にお手上げだった。
そこで、一旦情報を整理しようと、依頼者である秋山とコンタクトを取れないかと大智に頼んでいたのだ。
そして、こちらが本題なのだが、秋山の母親の家を視てみたかったのだ。これだけ町中を探しても件の女性は見つからない、ということは、母親の家にいる可能性がある。
健はその可能性に賭けていた。
それが外れると、完全にお手上げだ。
「ここです」
秋山が立ち止まった。
目の前には、見覚えのある、蔦の蔓延った長屋があった。