トンネル 3
あれからどのくらいの年月が経ったんだろう。
最後に見たのは赤い景色だった。
轟々と燃える炎。いくら身を屈めて穴の中に伏せても迫りくる熱からは逃げられなかった。
熱い。苦しい。
覚悟をして、あの人の差し伸べた手を振り切ってきたのに。
やっぱり死は怖い。もっと生きたい。
差し伸べられた手を握ればよかった。
いつも差し伸べてくれる手を、私は最後まで握らなかった。後悔してもしきれない。
私が本当に好きなのはあの人だったのに。
苦しい。苦しい。
悲しい。
私はずっと真っ暗な長い道を歩いている。
繰り返し繰り返し歩いている。
あの人がくれたこのハイヒールを履いて。
自分が死んだのはちゃんと知っている。
あの人が毎年お花を供えに来てくれたから。
「妻を娶りました」
その報告を境にあの人は来なくなった。
それでもいいと思った。幸せになってほしい、ただそれだけ。
私も繰り返して歩けば救われると教えられた。
穢れを祓い、清らかに生まれ変わることができると。
でも、私はこの長い道から抜けられない。
私の足には赤いハイヒールがある。
あるのに、それは虚無のようだった。
何かが違う。
あいつが来てから。
あいつが来てから変わってしまった。
恨みつらみを忘れかけていた私の中に黒い影が射した。
苦しい。苦しい。
悲しい。
あいつは何をした?
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
『そういうことがあったのね…』
某掲示板で思わぬ情報を得たあと、健と大智は夜が更けた頃に再び件のトンネルにやってきた。
そして、得た情報を一楓に伝えたところだった。
「だから、トンネルに入る前に祠を探そうと思うんだ」
『祠……お寺があったのよね。防空壕……?』
一楓は何か思うところがあるのかぶつぶつと呟いていた。
特に反対もされないようなので、車を降りてトンネルの脇から上へのぼってみることにした。
かなり傾斜がきつく、健はなんとかのぼり大智の手を引っ張ってやった。
「うわぁ、真っ暗だ」
「もしかしたら熊なんかもいるかもな。大智、気をつけろよ」
ビクッと肩を震わせたのが、懐中電灯の光の動きでわかった。
からかい甲斐があるのは昔から変わらないな、と思いながら健も周囲の物音や気配には十分に気を配った。本当に熊など出てきたら洒落にならない。
ここはそれほどの山奥なのだ。
「草がすごくて歩きにくいなぁ」
行く手を阻むべく生い茂っているような草たちは、大智の腰あたりの高さまで成長している。
足を踏み入れるのも一苦労だ。
「おっ」
「なに? 見つけた?」
健は、自らが立っている場所に踏み潰されたような形跡があることに気がついた。
その形跡は健と大智が今まで通ってきた道筋から、さらに今から目指そうとしている先へと繋がっていた。
獣道である可能性もあるが、背の低い動物が草の合間をかいくぐったようなものではなかった。背の高い、おそらく人間が、掻き分け踏み分けて歩いたような跡だ。
健は先へと続く道筋を辿ることにした。
普通に考えれば、祠を管理している者が通ってできた道だろうと思う。
だが、それにしては雑というか、定期的に訪れるなら草を刈り取るなり踏みならして道をつくるなりしそうなものを、ここを通った者は随分と慌てていたようだ。
道はできているが、ただ本当に掻き分けて進んだという感じだ。
道筋を辿りながら懐中電灯で照らして進んでいたが、終わりは唐突だった。
無造作に扉を開け放たれた祠が目の前に現れたのだ。
祠の周りも手入れされた様子はなく、草が生い茂っている。長年誰も来ていないかのような。
健は思わず立ち止まり、後ろを歩いていた大智は健の背中に鼻をぶつけた。
「これ、なんで扉開いてるんだ?」
「えっ? うわー、本当だ……」
健は祠の前で手を合わせ、失礼します。と呟いてから中を照らした。
「焼け残ったご本尊があるって言ってたな。それはこれか」
「そうみたいだね。なんかここに跡があるけど、違うものも祀ってたのかな?」
ご本尊の前、わずかなスペースに埃の被っていない4つの跡があった。
「ここからなくなったのも最近そうだな」
4つの跡にはまったく埃が被っていない。
つまり、今辿ってきた道筋をつくった人物が持ち去った?
「なんの跡だ?」
4つの跡だが、正確には2つの跡が2組だ。
小さく丸っこい跡が2つ横に並び、その手前に大きく丸みを帯びた三角形のような跡が2つ、同じく横並び。
健は腕を組んで首を傾げた。
「あ、ていうかこれ、考えるまでもないよ……」
大智が引きつった顔で健を見て、言った。
「ハイヒールの足跡じゃん……」
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
なぜそこにハイヒールがあったのか、なぜなくなった、というよりは持ち去られたのか。何より、誰に?
わからないことばかりだった。
張本人さえ見つけられれば話は早く済むはずなのに、その張本人を健は見つけられない。
トンネルの前に戻り、頭をガシガシと掻きむしっていた。
『ずっと考えてたんだけど……』
しばらく黙りこくっていた一楓の声が、スマホから聞こえた。
てっきり居眠りでもしているか、通話を一旦切っていたのだと健は思っていた。
『お寺の防空壕みたいなもの、本当に防空壕だったのかな?』
「んー……みたいなものっていうだけで、防空壕ってはっきりとは言ってなかったような」
大智が掲示板でやりとりしているのを健も横から見ていたが、確かにはっきりと防空壕とは言っていなかった。
『もしかして、回廊があったんじゃないのかな』
「回廊?」
『お戒壇巡りの』
「お戒壇巡り?」
大智が疑問符で返すが、一楓は気にした様子もなく話を続ける。
『そのハイヒールの女性はそこで亡くなってたのよね。住職のお妾さんでもあったと。それなら恐らくお戒壇巡りのことも知ってただろうし、祠の下のトンネルを壊された回廊の代わりに見立てて、お戒壇巡りでもしてるのかしらと思って』
なんだか聞いたことのあるような話だ。
健は古い記憶を探ってみるが、いまいちピンとくるものがない。
「他の呼び方あります?」
『あるよ。ええと、胎内巡りだったかな』
なるほど、胎内巡りか。
幼い頃に、暇を持て余したばあさんの幽霊から聞かされていた話だ。若いうちにやっといたほうがいいわよ〜、などと言っていた。
あのばあさん元気かな、と思っていると、大智が袖をちょいちょいと引っ張った。説明を求めているらしい。
「あー、俺も詳しくは知らないんだが……えっと、真っ暗な回廊をその寺の仏様の胎内に見立てて、そこを通ることによって長い人生の穢れを払ったり、心身を清めたりして、極楽へいくことを約束される? 生まれ変われる?」
説明しながら、最後の疑問は一楓へと向けた。
『そんなとこね』と返事があったので、間違ってはいなかったようだ。
説明が曖昧になるのは詳しく知らないことと、寺院によって胎内巡りのやり方が様々だからだ。
やり方が違えば捉えられ方も変わってくる。
「へー。じゃあさ、そのハイヒールの女性は生まれ変わるためにそれをやってるんでしょ? そっとしておいてあげたほうがいいんじゃないの?」
大智は素直な意見を漏らした。
考えようによってはそれでもいい、と健も思うのだが……。
『胎内巡りってさ、それをしていれば誰でも確実に極楽浄土へ導かれるってわけじゃないと思うのよね。仏様が直接迎えに来てくれるわけじゃないから……』
一楓の話を理解しようと聞いている大智だが、顎に手を置いたまま首が横へ傾いていった。
『仏様はあくまで信仰する対象。穢れを払って心身を綺麗にするっていうのは、己の心根次第。だから、いつまでも恨みや報われない思いを抱えていていると、終わることがないんじゃないかなって』
大智の首がさらに傾いた。
「でも姉ちゃん、そんなこと言ったら、胎内巡りしにくる幽霊の多くは思い残しで彷徨ってばかりになるんじゃないの?」
今度は健の首が横に傾いた。
なんで寺の下が幽霊の巣窟になると思っているんだ、こいつは。
『ふふっ。大智、胎内巡りって幽霊がやることじゃないのよ。生きているあなたのような人達が、生に感謝するために行うことなの。今回はその女性の幽霊が胎内巡りを知っているはずだとして、その回廊で亡くなっていたというから、そこから抜けられなくなってるのかなと思ったの』
「あ、そ、そういうことか……」
大智は気恥ずかしそうにスマホに向かって頭を掻いたが、普通はこんな話などわかるはずがない。
健も一楓も特殊なのだ。
健だって、幼い頃にいろいろと話を聞かせてきたばあさんがいなければわからないことだらけだった。
「で、俺らはその抜けられなくなっている原因をどうにかしてやらなきゃならないわけだけど、手がかりがほぼない」
「さっき祠で見つけたハイヒールの足跡が重要っぽそうだよね〜」
う〜ん、と2人で頭を抱えていると、背後からエンジン音のような音が聞こえてくることに気がついた。
振り返って見ると、2つのライトがこちらに向けてやってきていた。
「このトンネル通るのかな」
「この時間にか? 物好きだな」
『仕事とはいえ、私たちのほうがよっぽど物好きよ』
あー……自分のことは随分と棚に上げて考えていた。と、健は思い直した。
仕事が特殊すぎるが故、不審者が〜なんて通報されて警察に来られると非常に困る。説明のしようがない。
車を降りて電話をしてるフリでもしてよう、と健は耳に自分のスマホを当ててやってくる車をやり過ごすことにした。
2つのライトはすぐに大きく近くなり、結構なスピードを出していることがわかる。
何も気にせず通り過ぎてくれ。
と思うが、そうはいかないものである。
車はトンネルの手前、健と大智の前で甲高い音を立てて急停車した。
バンッと勢いよく扉が開いたのは助手席側で、降りてきたのはかなり高齢に見える老爺だった。
腰は曲がっておらず、背筋はピンとしている。頭髪も健在だが、白髪だ。
「こんっの……たわけどもが!!ここで何をしておる!!!」
叫びながら、老爺とは思えぬ動きで健と大智の前に歩み寄り、スパーンと大智の頭を叩いた。健は背が高く届かなかったのか、お尻を思い切り叩かれた。
これまた老爺とは思えぬ力だ。
運転席から降りて慌てて止めに入った男は若く、大智と同じくらいの身長だ。黒髪のツーブロックヘアに軽くパーマが入っている。
「じいちゃん!」と呼んでるところから孫だろうか。
老爺が手のひらを振りかざして迫ってくるものだから、健と大智は散り散りになって逃げる羽目になった。
なんとか老爺の鉄槌のような拳を止められたのは、健と大智では埒があかないと一楓がスマホ越しに老爺を説得してくれたおかげだ。
スピーカー機能を切って一楓と老爺の2人で話し込んでいたので、詳しい話の内容はわからないが……。
怒り、疑い、驚き、放心、という老爺の反応を見ていると、今回の仕事のことを話したようだ。
その上信じ込ませたなんて、本当にどうやって話したのか。
一楓との話を終えた老爺は、健と大智に深々と頭を下げた。
そして、孫と思われる男に鉄槌のような拳骨を落とした。男は声にならないうめき声をあげ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
平手でかなりの威力だ、拳骨の威力はそれ以上だろう。
「まったく、お前がいんたーねっととやらの友達にここのことを細かく教えるからだ!」
「じいちゃんごめんって〜」
「可哀想に、きよちゃんが夢の中で泣いていたんだ。きよちゃんが……」
「だから、こんな時間なのに連れてきてあげたじゃんか〜」
目の前で繰り広げられるやり取りについていけず、健と大智がポカンと口を開けていると、一楓がやれやれといった感じで説明を入れてくれた。
『掲示板でハイヒールのことを教えてくれた “じいちゃん” っていうコテの子、それが今怒られてる男の子。怒ってるのが、ハイヒールをお妾さんにプレゼントしたおじいちゃん。今の私たちの重要参考人』
「「えっ」」
「えっ」
孫と思われる男も反応したが、老爺の鉄槌によりあっけなく撃沈した。