(9)賭け
小久保彦左衛門は奉行所に赴き、上役の蒲郡に事の次第を伝えた。彦左衛門より一回り若い蒲郡は奉行に気に入られており、ここの出世頭だ。三十路の働き盛りで実力を示そうといつも躍起になっている。
吉原大門番所では主な仕事は目付けの銀次が幅を利かせているし、その他は岡引が動いてくれる。何より安穏に仕事をしたい彦左衛門にとって、若い蒲郡に発破をかけられるのは実に疎ましいものであった。
殺しの件に進展があって、これで彦左衛門に対する蒲郡の追求も少しは和らぐかと思われたが、蒲郡の機嫌は良くなるどころか悪くなる一方だ。それでも彦左衛門は黙って蒲郡に従うしかないのだろう。
「身元が判明したのはいいが、花田さまが出てくるとは」
午後になって伸びはじめた青剃りの顎鬚をさすりながら蒲郡はため息をついた。膝を向き合って彦左衛門は端座し、蒲郡の指示を待った。
「面倒だ。旗本相手では、犯人扱いするわけにもいかぬ。そんなことなら顔など焼かずにいっそ斬り殺してくれれば簡単なものを……」
彦左衛門はただ黙って、その言葉を受流した。
「蒲郡さまは花田征四郎が殺したとお思いなのですか?」
蒲郡は耳をほじくりながら少し考えている。
「数日前に派手な喧嘩をしているのだろう? こういうのはどうだ。
――酉の市におゆうと花田が仲直りしようとした。ところが言い合いになり、花田がおゆうの首を締める。刀で斬っては自分がやったと言わんばかりだからな。それに鍵屋との関係を崩すわけにもいかぬ。身元不明の女の死体ならば吉原ではいくらでもあるだろうと、顔を焼き、堀に投げ入れた。
まぁそんな感じだろ。町娘が武士を愚弄した罪は重い。それで殺されただのだ。些細なことで別に事件というほどのことではないな」
蒲郡が些細な事と言ったのが彦左衛門の頭を何回も巡っていた。
「お奉行には一筆書いておくから、あとは任せておけ」
蒲郡は出世の役に立たない事件などどうでも良いのだ。ましてそれが出世の邪魔となれば、早く解決したいのであろう。
彦左衛門の脳裏に浮かんだのは鍵屋清七の嘆きの姿だった。清七が悲しみに崩れ落ちた姿は、同年代で同じ年頃の娘をもつ彦左衛門にとって他人事ではない。もしあの顔のないホトケが自分の娘だったらと思うと、適当な蒲郡の処分は絶対に納得できるものではなかった。
「もし花田さまではないとしたら、どうなさいますか?」
「は?」
すでに別件の帳面に目を通していた蒲郡はぽかんと口をあけて彦左衛門を見返した。
彦左衛門が蒲郡に対して食い下がるとは。
「珍しいこともあるのう。吉原の昼行灯が?」
蒲郡はニヤニヤ笑って、彦左衛門を見回した。
「いいだろう。お奉行への報告は控えておく。ただし期間は年内で、五両だ」
「えっ?」
「賭けだ。お主が真犯人を見つけたら三倍の十五両にして返してやろう。どうだ、のるか?」
五両といえば大金である。女郎が十年働いて返す額だ。一介の役人が簡単に出せる額でもない。蒲郡は彦左衛門が絶対に事件を解けないと見込んで、自分が五両儲けるために、賭け値を三倍にしたのだ。
「いいでしょう。必ず解決してみせますよ」
それを聞いて一番驚いたのは妻の志津だった。
「まぁ、五両でお引き受けなさったのですか!」
志津はかん高い声を上げて、目を丸くした。普段の静かな志津の片鱗はどこにもない。顔面は蒼白で、やっきになって彦左衛門を攻めたてた。
「うちの扶持米が幾らになのかご存知ですの?――とても用意できる金額じゃぁありませんよ!」
彦左衛門は背中を丸めて火鉢の隅を突付いていた。
志津が怒るのはもっともだが、ここは男の意地だ。若造でいい加減な蒲郡が「吉原の昼行灯」と馬鹿にしたのを許しておけなかったのだ。確かに五両は大きい金額だ。でも実の母に泣きつけば、何とかなるだろう。あとで、内密に取り図ろうではないか。
ところが志津の方が手を回すほうが速かった。
「お母上さま。息子の道楽に懐を緩くするくらいなら、蒲郡さまの奥方のご機嫌を伺いに参りましょうよ」
「志津、心配しなくても大丈夫ですよ。アタシァ、そんな大金もってないからねぇ。ヒコザは自分の尻ぐらいきちっと拭ける子ですよ」
彦左衛門は可能性を挫かれて、頬杖をついてふて腐れた。
――これじゃぁ賭けは成立しねぇ。でも、蒲郡に賭ける金が無いとは絶対に言えねぇ。また馬鹿にされる。
彦左衛門はある人物を思い出して、ニヤリとほくそえんだ。
桔梗楼のおテツ。あれは使える。三倍になるといえば、必ず食いついてくるだろう。
「ちょいと出かけてくる」
彦左衛門はそそくさと立ち上がり、吉原に向かった。
正午。吉原の桔梗楼は閑散としていた。朝帰りの客が引き払い、夕刻の客が来るまでにはまだ時間があった。集客にかけては吉原で天下一品のおテツも仲の町通りに人がいなければ、商売になりそうもない。
おテツが煙管からぷうぷう煙を吐き出し、新入りの端女郎に説教を垂れていたところだ。
「それじゃなくたって、うちは人数が減ってんだ。アンタが怠けてるせいで商売あがったりだよ!」
「あたしかて、せえいっぱいなんや!」
ワッと泣き出す端女郎におテツは容赦なかった。煙管の先で何度も叩いた。
「こんなとこで無駄に涙を使ってんじゃないよ。泣くなら男の前で、同情を誘うんだね。男と女は駆け引きさ。人形みたいに体売ってるだけじゃ、お馴染みなんてできやしないよ」
おテツが金儲けの匂いを感じるのは天下一品である。
用も無いはずなのに彦左衛門がひょっこり顔を見せたのでピンときた。端女郎を追い出し、バカ丁寧にお辞儀をした。
「これは小久保さま。うちの新しい“お蜀”の噂が流れて?」
彦左衛門は五両が三倍になる儲け話を持ち出したが、おテツの反応はいまひとつだった。おテツの本能は彦左衛門の推理能力を推し量っていたのであろう。何しろ年末まであとひと月半しかない。そんな短期間で、穏やかな性格の彦左衛門が解決できるのであろうか。
おテツの答えはさっぱりしていた。
「生憎ムリですよ。この状況を見りゃ分かるでしょう? うちは火の車なんですから」
言葉とは反対におテツの懐には小判がざっくり入っている。五両だすのは大したことではないが、<大穴>に賭ける金は持ち合わせてないのだった。
* * *
冬の暮れ六つの鐘が鳴った。
吉原大門番所の正面にある見返り柳。男と女がひとときの儚い夢を偲びつつ、振り返る場所。そこにひとりの女が立っていた。
艶やかな黒地に金の御所車の着物。長い裾を捲り、手には布に包まれた三味線を持ち、白塗りに燃えるような紅。芸妓、小春である。
すでに終わってしまった秋の気配を彼女はそのまま持ち合わせていた。艶やかで情熱的でありながら、寂しげで心もとない女の弱さ。
吉原に向かう侍などが美しい芸妓に引き寄せられ話をもちかけるが、番所の役人を待っているのだと言うと、面白くなさそうな顔で立ち去っていった。
そろそろ彦左衛門のお役目も終わっていい時で、逆に小春はこれからが本番である。おテツに頼まれ桔梗楼で、花魁と芸者を揃えての宴である。
「小春。待たせたな」
彦左衛門が番所から出てきた。
その後は黙ったままで、小春と吉原に向かって歩きだした。
――ひこさまの急用って何かしら?
小春はそわそわしながら、彦左衛門の意向を察した。まさか彦左衛門が小春に五両を借りようとしていることなど思いもよらない。
吉原大門の手前の細道は堀に沿って続く細道で、ほとんどが田んぼで何もない場所だった。従って普段は人通りはない。そこで曲がることで、小春は行き先がどこであるか察しがついた。
そこはおゆうが見つかった場所である。
彦左衛門はその場で立ち止まり、またしても無言だった。
この場所にはあれから何度も来た。だが解決の糸口さえ見つからない。
「ひこさま? 何かお困りなのでしょう?」
年末の冬の冷たくなった風が二人の間をすり抜けていった。小春は身を凍らせながら乱れた髪を直した。
「おゆうは何故こんな所で死んだのだ。立派なお嬢さんがこんな場末で、しかも酷く顔を焼かれた。片親で育てた清七の無念は大きかろう。俺は蒲郡のいいかげんな執り成しのせいで、まことが闇に消え、清七がさらに悲しむのは嫌なのだ」
小春とて清七が悲しむ姿を目の当たりにした。同情せずにはいられなかった。涙が出そうになるのを堪えて上を見上げた。
「あら、桔梗楼」