(8)唯一無二の存在
吉原大門番所に突如、吼えるような哀しい叫びが轟いた。
「なぜだ! おゆう!」
鍵屋清七が顔の無い骸を抱きしめていた。
小久保彦左衛門と小春はしっかりと手を取りあうことで、どうにかその場に居合わせることができた。哀しみのあまり、彦左衛門か小春のどちらかが手を離せば、片方はその場にいることができなかった。
「ひどい。殺すのに飽き足らず、顔を焼くなんて……!」
半狂乱になり号泣する清七を不憫に思い、彦左衛門は骸から遠ざける。
「さぁ、こちらへ。」
小春は清七の手を引いて火鉢の前に座らせた。清七は崩れ落ちるように、がっくりと両手をついたまま動けない。
四畳半の小部屋には鉄瓶が置いてあり暖かい湯気が出ている。小春は鍵屋清七の背中に手を回し、そっと寄り添った。
「旦那さま、見間違いということはございませんか? 本当におゆうさんなのですか?」
鍵屋清七は涙で畳を濡らしなから、ゆっくり頷いた。
「私だって親の端くれです。顔が無くても娘だってことぐらい分かります」
小春は清七を優しく抱き留めた。
「おいたわしい限りにございます」
小春は彦左衛門と目を合わせて頷く。
彦左衛門は再び骸の傍に戻り、遺体に手を合わせている。再び筵を被せて戻ってきた時、その拳が膨らんでいた。抱いて揺れた時、おゆうの体から、転がり落ちてきたという。彦左衛門が拾ったのは、小さな木彫りの毘沙門天であった。
「これに見覚えがありますか?」
「さぁ……存じません」
「懐からころげ落ちたか?――ここに彼女を運んだ時には無かったのですが」
小春は言った。
「清七さんが遺体を揺らしたせいででてきたんでしょう?」
「毘沙門天は仏を守護する神でしてね。いわば武神です」
彦左衛門はそこに納得がいかなかったが、とりあえず身元が割れたので、清七を帰すことにした。
「今日はもう遅い。明日、娘さんをお渡しいたします」
夜だというのに、吉原の賑わいが番所には届かなかった。消えそうな火鉢を囲み、二人は言葉もない。
彦左衛門は凝った肩を揉みながら小春の顔を見た。
「もう外は暗い。小春、お前は帰れ」
小春の返事は無かった。
「小春?」
小春の視線が、事あるごとにおゆうの遺体にいっている。彦左衛門はそれはあまり良くないことだと知っている。
顔のない顔がこちらを向いているような気がするのだ。あの筵の下では赤黒く焦げている。崩れた鼻の穴と洞穴のような口が開いたままだ。瞼の部分などは焼け焦げて眼球と一緒になって見れたものではなかった。それを小春は見てしまった。
――可哀想に。
「大丈夫か?」
「ひこさま。お勤めが終わるまで待たしてくださいな」
震える肩が痛ましく、か弱げであった。
* * *
彦左衛門は小春を連れて、居酒屋を出た。
ほんのりと頬を染めて酔いに任せて男の肩に寄りそう小春と、身元が分かったことで安心した彦左衛門である。
深川にある小春が住む長屋の前に着くまで、それぞれ夢心地だった。
「あぁ……もう亥の刻じゃねぇか」
「ひこさま、わざわざ送っていただいて嬉しかった。本当は泊まってもらいたいけど、奥方さまも待ってらっしゃいますし。今日はここで」
「おうおう、野暮なこと言ってくれるじゃねぇか。俺ァ泊まってく」
小春はくすくす笑って、彦左衛門の言葉を冗談だと思っている。
彦左衛門は小春の家に入るなり、ぐいと小春の細い肩を引寄せた。それからどれくらいの時を過ごしたか、楽しすぎて憶えていない。小春の笑顔さえあれば、他に肴などいらなかった。
「小春の三味線を肴にもう一杯願おうか」
拍子に、ぐい飲みが男の足袋に蹴飛ばされて、コロコロと転がった。次いでとっくりから酒が零れて畳の上を転がっていく。
「嬉しいですけど、さすがにご近所に迷惑ですわね」
彦左衛門は酔いのままに押し倒し、美しい小春の脚に手をかけた。
「じゃぁ、こっそりとできることをしようか」
今日こそは我慢の限界だった。
番所の仕事に追われた日々、家に戻れば祖母や志津に細々と口を挟まれ、鬱憤が溜まっていた。やっと小春と二人きりになれて、男が目覚めないわけがない。
「ひこさま、ちょっと、もう。焦らずに……。」
小春は戸惑い気味だ。年甲斐もなくはしゃぐ彦左衛門など見たくない。
「早くしねぇと、また昼間の誰かみたいに、いいトコ持ってかれちまうからな」
彦左衛門は皮肉めいた言葉で小春にくちづけを迫った。もうすこしで触れてしまう。触れたらきっと止まらなくなってしまう。
「あらそれは、誰のことですの?」
小春はとぼけた調子で彦左衛門の唇を指のはらで撫で、焦らした。
鍵屋の番頭、玉吉のことを彦左衛門は感づいていたのだ。容姿も気風もいい玉吉に彦左衛門は嫉妬しているのだろう。
「あいつに、何された? 正直に言え。やましいことがあるんだろう?」
彦左衛門は強い口調で責め立てた。そして白い長襦袢の中を手が上へ昇っていく。江戸時代の女の下着は襦袢だけなので捲ればすぐ尻が出る。男の手は何の障害もなく太腿から腰への緩やかな丘をのぼり、引締まったくびれまで到達するはずだ。
「――何のことだか。面白い人。ちっとも分かりませんわ」
のらりくらりと彦左衛門の追求を避け、同時に手の動きも抑えた。それでも彦左衛門はいつもの優しさとは違って強引で、積極的に近づいてくる。その度に小春は一定の距離を保とうとした。
「なぜ拒む、小春ぅ!」
「まだお酒が余ってますのよ。そう焦らずに。――夜は長いですから」
小春は彦左衛門の袂と整えて、にこりと笑って彼の手の中にぐい飲みを押し込んだ。
細かくいえば彦左衛門が知る限り、小春は他のどの男とも枕を共にしていない。美しい芸者で男には困らないだろうに、身持ちの固いことは天下一品だ。しかも、その小春が好きだという相手が白髪混じりの盛りを過ぎたこの彦左衛門なのだ。今となっては普通に思えるが、最初は彦左衛門でさえ躊躇いを感じた。
小春が本気なのは知っている。けれど枕を並べたのもたったの一度きり。
あの夜が、遠い日に思える。
だからこそ。今宵こそは……!
彦左衛門は小春をきつく抱きしめた。
「やだ、ひこさま。苦しゅうございますよ」
「小春、浮気は許さんぞ」
「ええ。分かっておりますとも。小春にはひこさましかおりませぬ」
そこまで自信をもって小春に言われると、彦左衛門の方が逆に口だけかと不安になる。
「俺はもう爺ィと呼ばれてもいい頃だ。こんな俺のどこがいいのだ?」
その弱気な問いに対してはっきりと即答された。
「若くて逞しい御方は五萬とおられますが、それでは小春は満足できないのでございます。彦左衛門さまの暖かいお心が嬉しいのでございますよ」
小春の奥底にある凍って冷えきった心。それがどれほどのものなのか彦左衛門には予想もできない。だが、それを彦左衛門が知る必要は無い。
唯一無二。愛が燃えが上がり、氷が溶けてゆく。それだけで小春は幸せなのだ。