(6)浮気
長廊下に日差しが当たって、厳しい寒さもすこし和らいできた。
障子の向こうに歩く女の影がある。淑やかに歩く妻の姿だった。
彦左衛門は番所から持ちかえった帳面をめくりながら、妻が両手をついて挨拶するのをチラリと見た。
「何だ?」
「お茶をお持ちしました」
彦左衛門は黙って頷いて再び帳面に目を戻したが、志津は下がって部屋を出る様子はなく、正座をしてこちらを見ていた。
「――何だ?」
「最近お帰りが遅いようなので、志津は心配でなりませぬ」
志津の声は厳しくも優しい。
志津は彦左衛門と同い年で、四拾を越えた中年の女であった。武家の妻らしく身なりは清楚で几帳面。彦左衛門との間に3人子供を授かっている。今では貫禄が出て妻というよりも母の面影のほうが強い。
「仕方なかろう。蒲郡様の言いつけには逆らえんからな」
このところ番所に篭りきりでろくに家に帰っていなかった。急に仕事が増えて家に寄り付かなくなった主人を志津は不安に思っていたのだ。
ところが志津は仕事で忙しいと聞いても信じられなかった。
先日酉の市を案内した芸妓はとびぬけて美しく、女の色香を放っていた。しかも彦左衛門があの女を気に入っているのを志津はとっくに知っていたのだ。
「蒲郡さまがそんなに人使いが荒い御方だとは意外でしたわ」
蒲郡俊之は彦左衛門の上役だ。吉原大門番所管轄で起きる町民の事件は、他の番所よりも早く解決しなければ許さないというのである。
蒲郡の言い分はこうだ。
吉原大門番所の評判は極めて悪い。いつも女郎の相手ばかりして、番所の奴らは女郎と貫通しているという。寝屋に行くのに忙しくて、事件を解決するのが遅いというのだ。
もちろんそれは誤解だ。そんなことが許されては番所の意味がない。蒲郡は汚名挽回とばかりに手柄を立てようとしているのである。
「蒲郡さまも、キッツイのう」
彦左衛門はため息を漏らした。自宅に仕事を持ち帰るのは不本意ではあるが、仕方のないことだ。行方知れずの帳面に目を通すのも疲れて、目が霞んできた。
彦左衛門の言う事は真実だが、志津は半信半疑だ。
二十年以上連れ添って子供も手がかからなくなり、やっとこれから夫婦二人で余生を楽しもうというのに、主人はもしや他の女を見ているのではないだろうか。
してはならぬ問いが喉元まできた。
「本当にお仕事で、遅くなっていらっしゃいますなら、一度蒲郡さまにお願いしてみようかしら」
彦左衛門の眉が厳しくつり上がった。
「余計なことをするな!」
志津が疑っていることと、差し出がましく仕事に口を出したことに腹が立った。彦左衛門は珍しく熱くなって、乱暴に立ちあがった。帳面を風呂敷に包み直し、志津を見下した。
「――こんな所で仕事ができるか!」
* * * *
そのころ小春は鍵屋清七の屋敷を訪ねていた。
菓子の入った包みを持って鍵屋の暖簾をくぐったが、出てきたのは番頭の玉吉という男だった。
番頭職十二年の玉吉は三十路手前で、気風のいい江戸の男だった。その瞳は情熱的で、希望に燃えている。男を見慣れた小春でさえも、その熱い心にほだされて玉吉に目を止めてしまった。
「深川の芸妓、小春と申します。先日船着き場と茶屋の前で、二度も助けていただきまして御礼の挨拶に伺いました」
「それは、ご丁寧にありがとうございます。生憎旦那は出かけておりまして。もうすぐ戻るかと思います」
直接会って礼をいいたかったのだが、不在となれば致し方ない。このまま帰ろうと思ったが、それを玉吉が引きとめた。
小春は見るからに美女である。そのまま帰しては、旦那に何と言われるか分からない。妻を亡くした旦那が二度も救った美女をこのまま帰してはいけない気がした。
それに玉吉も小春に対して興味が無かったといえば、嘘になる。
「宜しければ、その間、工場を案内いたしましょう――あの夜空に輝く美しい花火ができるさまは、いささか地味ですが、暇つぶしにはなりましょう」
玉吉の言葉はそれとなく誘っているように聞こえる。小春の肩に軽く手をやり、外へと促した。
いい男といい女が街中を歩いていく。
玉吉と小春は微笑ましい会話を続けながら隅田川に面した工場へと歩いていった。
* * *
鍵屋の工場は街中から離れた川沿いにあった。
花火師は火薬を使う仕事であるから、火元には充分注意しなければならないので、それはお上からのお達しであった。
玉吉は道すがら、小春に花火の作り方を説明しはじめた。美人相手に、これしか話が思い浮かばなかった。鍵屋で働きだして二十余年、他に自慢できるような事柄もない。今では花火師の番頭職もすっかり板についている。本当なら看板を借りて店一軒持ってもいいころだ。
小春は適当に会話を会わせながら、土くれだった道を進んだ。
「あ、痛ッ」
小春は草履と足の間に違和感を感じ、その足を止めた。
「どうなさいました?」
「いえ、あの……」
見ると、小春のつま先から血が出ている。
「何か刺さって。切れたようですね。貸してごらんなさい」
玉吉は手持ちの手拭の端を噛んで、一気に引っ張ると、見事に細長い布切れができた。小春の素足を玉吉の膝の上に置く。
「ちょいと失礼」
汚れたつま先なのに、玉吉はそれを口に含んだ。舌で足の指の間を舐められ、吸われる。
「……あっ。何をなさいます!」
心臓が爆発しそうに高鳴って、小春の白い頬が赤く染まった。慌てて足を引こうとすると、細い布切れで手際良く巻かれた。
「早く毒を出して、こうしねぇと、あとで膿んじまうと大変ですから」
小春も対応しきれずに、玉吉を見守るしかない。
「ありがとう」
玉吉は満足そうに下から見上げた。
「綺麗な足だ。大切にしな」
すると、正面に知った顔が歩いてくる。
一人は鍵屋清七、その横にいたのはなんと小久保彦左衛門であった。
小春は気が動転した。
「小春ではないか。こんな所で何をしているのだ?」
小春は傷ついた足を引っ込めて、さも何事もなかったようにいつもの表情を作った。
油断したつもりはなかったのだが、いかに怪我の処置とはいえ、まさか初対面で足を舐められるとは思わなかった。玉吉は若いし、面もいい。江戸っ子らしく潔い。そんな男にこの上なく優しくされたのだ。ぐらぐらと女心が揺れるのも仕方のないこと。だが時と場所が悪かった。
――ひょっとしてひこさまに見られたかもしれない。
猛烈な不安が小春を動揺させ、そしてその動揺が彦左衛門を感づかせた。
「……顔が赤いぞ」
「え?」
小春は両手を頬にあてた。
「やだ……本当ですか?」
桜色に頬を染める小春の姿は初々しいが、やはり緊張は隠せなかった。
――何も疚しいことはしてないけど、誤解されるのは。
彦左衛門にとって、身寄りのない小春を愛し、守り通すことが今の生き甲斐だ。
小春にとってもそれは同じで、彦左衛門はただの恋人ではない。亡き父の親友であり、昔は小春の親代わりだった。その真っ正直な彦左衛門の想いを、小春は受け入れてきたのだ。
それが浮ついた気持ちのせいで全てが水の泡となってしまったら、小春はどれほど大切なものを失うのか。考えたくもないことだ。
咄嗟に小春の口から嘘が零れ出た。
「ええ。まさかひこさまが御一緒とは思いもよりませんでした。――そりゃあ、どきどきしますわよ。一番好きな御方と、こうして真昼間から会えるとは、思いもよりませんわ」
小春の愛の告白を受けて、鍵屋清七と玉吉の視線が彦左衛門に注がれた。
顔が赤いのは彦左衛門に会えたせい、そう言われれば彦左衛門も悪い気はしないだろう。
だが、彦左衛門の表情に変化はなかった。
小春の足に巻かれた布に自然と目が止まる。
「何だ、その足は?」
小春の頬はますます赤くなった。玉吉に足を触られた感覚が生々しく蘇ってきた。
だが、玉吉は飄々として別に気にする様子もない。
「何って、怪我の手当てでございますよ。旦那さまが戻るまで、工場を案内する予定でしたが、これでは一旦お屋敷に戻ったほうがいいですね」
さぁどうぞ、とばかりに玉吉が背中を向けて、しゃがんだ。
「負ぶってさしあげましょう。その足じゃ無理だ」
老体には無理だと言わんばかりの、白髪混じりの二人を出し抜いた行動だった。
「――これ、玉吉」
鍵屋清七が止めに入る前に、小春の身体がすくい上げられた。
彦左衛門は黙ったまま小春を抱きかかえ、鍵屋の屋敷へと歩き出したのだった。