桜散る
「いいえ」
凛とした姿勢で小春が振り返った。
散り際の芍薬だ。容姿の乱れはこぼれた花弁のごとく、それもまた色香となって八十吉の気を惹いた。
「逃げられるものか。女で売り物だからといっても容赦しないぜ」
小春は目を閉じた。そしてかすかに笑った。風が優しく感じる。
――あの人の匂いがする。
「あはれよのう……女に生まれたことを後悔するがいい」
太い男の右手が伸び、小春の白く細い首に掛かった。きゃしゃな体を倒され、激しく巡っていた血がせき止められて意識が遠くなっていった。
夢を見るように、過去が蘇った。
若い頃、柳橋家に戻ると秀長は亡くなり、それからは嘘で固められた毎日だった。呪われた女と呼ばれ、地元では暮らせなくなり、秀永の父が彦左衛門の兄に相談したところ、そこにたまたま居た彦左衛門と江戸に行くことになった。
彦左衛門との二人旅は酷いものだった。小春は優男が大嫌いになっていた。男は皆、笑顔の裏に欲望を抱えていると知り、腹が立つのだ。彦左衛門もよく笑うが、心の底は知れず、その中の一人だろうと思っていた。
小春は甲州から江戸までほぼ沈黙で通した。女であることと、秀長を死に追い遣ったことに傷つき悩んでいた。望みを失った心は刃より尖って、その旅の途中、何度も彦左衛門を口撃し、容赦なく切り刻んだが、それでも笑って許してくれた。
不思議な男だった。武士のくせに気さくで、面倒見が良いから他人からも好かれた。小春のことは娘だと自慢し、疲れた足を気遣ってくれた。ようやく安堵して優しさが本物だと納得した途端に、疎遠にされ距離を置かれてさらに分からなくなった。
その旅の途中で賊に襲われて、首を絞められたことがある。あの時は彦左衛門が激怒し、夢中になって助けてくれた。
決して忘れない。
嬉しかった。あの時、彦左衛門が本気になって愛してくれていたとを知った。
今度は間に合わないかもしれない。けれど彦左衛門と出会えたことで小春の人生は幸せであった。そしてここで終わりとならないように……
小春は最期の力で八十吉の目を狙って砂を思いきり押し付けた。
首を締める手が一瞬緩んだ。間髪いれず小春は急所を狙うと、八十吉は怒り狂いながら悶絶した。その間に小春は這いつくばって立ち上がろうとすると、足首を掴まれた。八十吉の手を小春は踏みにじり、泥試合がしばらく続いた。
その時、木陰から雛菊が飛び出た。
「よくもお母、お竹、お梅を……死ね――!」
手に持った懐刀を、迷わず背中へ振り下ろした。八十吉は慌てることなく、雛菊の刀を片手ではじいた。
「畜生、負けるもんか!」
落ちた刀を拾おうとする雛菊を見て、八十吉はねっとりとした笑みをみせる。ほんのひと蹴りで雛菊は仰け反った。
「そんな弱腰で仇を討つつもりか? もがけ、苦しめ。最期には救いを請うようになる」
雛菊は刀を向けながらもその迫力に圧された。八十吉は高笑いをしながら雛菊に向かって歩を進めようとした。それが数歩で止まったのは、首に突き付けられた刀のせいだ。
ゆっくりと後を向き、長い刀の先に覚えのない顔があった。左腕には決して離さぬように小春を抱き、右手の刀で八十吉を捕らえている。
「貴様……誰だ」
「その仇討ち、助太刀いたしたく候」
荒れた息を整えながら、首を回す。あの時は首を痛めていたが、今度は思う存分戦えそうだ。
「お役目の最中であれば生かして捕って、お裁きにもかけようが、あいにく今日は非番なのだよ。一介の武士として、三人も殺されたとなれば、仇討ちは見逃せん」
雛菊がここまでの道案内し、小春は八十吉を引き留めるほうを選んだ。どちらかが八十吉をひきつけ、その隙に助けを呼ぶ。それが小春の策だとしても、間に合わなかったら大変なことになっていた。死人は見慣れている。普段ならば御上が下す判断で異論はない。けれど小春だけは別だ。
「俺の嫁に手を出した罪は何の法よりも重いぞ」
「たかが捕り手ごときに!」
八十吉の構えは本物だ。しかも平衡感覚がずば抜けて、どのような体勢でも攻撃を繰り出せる。
「商人の動きじゃないな。お前、海賊か?」
八十吉は鼻で笑う。
「だったらどうなんだ!」
「猫は殺すな。守り神だろ」
八十吉が笑うと、彦左衛門は小春に向けて笑みを返した。
彦左衛門に促されるまま小春は離れた。そこでは銀次が手を招いていて、捕らえられた山吹桜の店主がその様子をうかがっていた。銀次の隣には梶原源次郎がいて様子を見守っている。
小春は呆然としていたが、振りかえって彦左衛門を見た。
じわじわと実感が湧いて頬を赤らめた。唇をきゅっと噛み締めると少し涙が出た。
「彦さま。必ず勝っておくんなまし!」
勝って、生きてもらわねば。
「おう」
彦左衛門の笑みが眩しい。
彦左衛門は居合の型に入った。呼吸を整え、期を待つ。
八十吉は彦左衛門の後にいる源次郎に目をつけた。隙だらけで刀を差しているし、十歩ほどで手が届く。最初の一撃さえ避ければ勝機はある。
八十吉は走り、彦左衛門の脇を抜けると源次郎の刀を掴み引き抜いた。
「――早いな」
八十吉が呟き、堂々と彦左衛門と向き合った。腹からじわじわと出血している。
「お松、やれ」
彦左衛門の声に応え、雛菊は本懐を遂げる。その直前に、血まみれの広範が斬りかかった。
「ぐああ!」
広範は自らの体に吸いこまれた刃を見て不敵に笑う。
「お松、まっとうに生きろ」
最期の力で広範が林の中へ走り出した。
「……お両」
雛菊は暗闇に消えた広範を追った。行く手には草叢が続いており、そこに母親が落ちた崖があった。風が吹く崖の淵で広範は立ち尽くしていた。
「……悪かった、どこに消えた……お両」
すっかり夜の闇につつまれた草叢で、広範の目から一筋の涙が落ち、お両を求め、同様に崖に身を投じた。




