対決
志津と本堂の奥へ歩く。
青空に雲が流れ、涼やかな風で木立が揺れていた。
しばらく二人に言葉はなかった。
「これからどうするのだ?」
「どうもしません。実家に帰ります」
「……。」
人の気配がなくなると、彦左衛門の腕を志津が抱えた。
「!」
「これで最期です。――最期だから」
志津が微笑むと彦左衛門も何も言えなくなった。二人だけで歩くのは何年ぶりか。遠い昔のことでありながら、今もなお志津の瞳は自分を想いつづけている。それが重たくもあり、有りがたくもある。
「志津、悪いな」
彦左衛門はそっと手をほどいた。
「今朝方、離縁状は渡したであろう? 俺は前に進む。お前もまだ若い。良き伴侶を得よ」
「小春とですか?」
志津は力が抜けてそのままガクリと座りこんだ。
「――申し訳ありませぬ。だめね、私って。分かっているのです。でもこうして隣にいると……」
静かに泣く志津を手取り足取り、ようやく歩かせると目の前に立ち塞がる侍がいた。
「よぉ、ご無沙汰だな」
図々しい口調で挑発的だ。梶原源次郎が笑っている。そしてその後ろに小春がいた。そこまでは理解のうちだった。しかし小春の顔は青白く、固く唇を結んでいる。
――昨晩はあれほど楽しそうに微笑んでいたというのに!
その瞬間、彦左衛門を絡めていた糸がぶちぶちと切れる音がした。静かな怒りを秘めて、彦左衛門は言い放つ。
「小春を渡せ。でなくば斬る」
境内に響いた不穏な空気が周囲の視線をひいた。年寄りが若者にくってかかる姿は憐れであり、好奇の目が事の次第を見守っている。
源次郎は滑稽とばかりに酷く笑った。
「こいつは驚いた。聞いたか? たかが捕り手がまこと面白いことを申す――年寄り侍、恥を知らぬか!」
源次郎は理解できない。小春は惚れたというが、身分や格を知らぬ愚かな男だ。顔の傷は醜く、凄みがあるが、吉原の下っ端。所詮小春の魅力にとりつかれただけの爺だ。
「お主を斬る大儀名分はいくらでもある。小春を自由にしてやれ」
「老いた耳に聞こえるように言っておく。お主の知る小春など、もういないのだ。控えよ、ここに居るは梶原家の妻になる女だ。前川さまのご遺言を忠実にお守りし、喪が明け次第祝言を挙げる」
「あまり大っぴらにしない方がお主の為だぞ」
彦左衛門はたじろがないので、源次郎は苛立った。
「そこをどけ。あまりに礼を欠くと、こちらもただでは置かんぞ」
「それはこちらの台詞。それが小久保彦左衛門だと知っての振る舞いか?」
源次郎の不快さは増していった。
「たかが捕り手のくせに! 身の程を知れ!!」
彦左衛門は鼻で笑う。男二人、視線がぶつかり合った。
「――彦さま!」
小春はその名を呼んだ。
彦左衛門のほうがはるかに分が悪い。危機を感じ小春は一歩前へ出ようとするが、源次郎の手が行く手を塞いだ。
「妻が俺より前に出ることは許さぬ」
彦左衛門は一歩も退かない。
「小春は放たれた鳥。もう誰のものにもならぬ。今さら籠を持って追いかけても無駄というもの。
梶原源次郎、初めて顔を合わすが、お主のことはよぉく存じておる。貴様は斬っておくべきだった。だが小春の知り合いゆえ、我慢していたのだよ。
放浪し酒に逃げ、女を見れば翻弄し、うちの蔵から百両を盗んで陸奥に逃げ、それで成し得た地位など軽薄。価値の無い男よ」
源次郎が怒りのままに刀の柄に手をかけたが、彦左衛門は続けた。
「お主を許せぬ理由ならいくらでもある。小春の過去を蒸し返し、苦しめて床を強いた。陸奥に連れ去ろうとした。その折りに志津を弄び、小久保家を汚した。武家にとって家がどれほど大事か、遊び人風情の貴様には分かるまい」
彦左衛門も刀に手を置いたが抜く気配はない。
「礼を欠いているのは、貴様であろう。本来ならば頭を下げ、土下座でも何でもするべきところだぞ。おなごを踏み台にして、のしあがるような者は侍とはいえぬわ」
「こいつ!」
源次郎は頭に血がのぼり、刀を抜いた。きっかけはどうあれ、今ここに立つのは自分の実力。迷わず刀を振り下ろした。
「身の程を弁えぬ青侍め」
彦左衛門はするりとかわし、手刀で刀を地に落とす。落ちた刀を求め前向きになったところで、左の拳が鳩尾に入った。
「……お」
ズルズルと両膝をつき、頭を下げて地に伏した。まるで土下座だ。
咄嗟に刀を握り直した源次郎だが、刃が草履で踏まれている。騒ぎに中年の男が一人駆けよってきた。野口秀忠という四拾過ぎの侍で、源次郎と同格の用人であった。
「梶原殿、葬儀の場でなんということを。ここはわしの顔に免じて刀を収めよ」
源次郎は舌打ちした。野口は彦左衛門と距離を置くように源次郎を移動させる。もう一人の侍にも厳重注意が必要だ。野口は振り返るなり、彦左衛門に抱きついた。
「小久保、探したぞ!」
「久しぶりだな。老けたな」
「人のことを言えるさまか!」
野口は源次郎を遠のけ、さっそく彦左衛門に耳打ちした。
「それより、さきほどの件じゃ。揉め事の災いになるならば、やはり親元に返すべきだと決まったぞ」
「本当か!」
彦左衛門は静かに狂気乱舞した。
「やはり持つべきものは友だな!」
野口は胸を張った。
「もっと褒めろ。これからは俺の世だ。俺が梶原と張り合う姿勢をみせたら、おおかたの者が賛同してくれたぞ。やはり天下一品の選択眼だな」
「もっと前からそうすれば前川も助かっただろうに」
「前川の邪魔はせん。いなくなったのは残念だが、残った家臣の面倒を看るのは俺しかできぬことだ。さすがに継いでやらんとな……小春も旦那を失って困っているだろう?」
彦左衛門は焦りまくっている。
「前から目をつけておったが……小春は実に美しい。今朝方、お主に呼び出された時は何のことかと思ったが、小春の親代わりとは一言も聞いていなかったぞ――それでその……旦那のあてはあるのか? できれば是非、ワシにだなぁ――」
彦左衛門は照れ笑いをした。
「ご親切にどうも。小春が芸妓を続けたいといえば、こちらからお願いに上がりますよ。――ただしあれは私にぞっこんですぞ?」
野口の顔が少し白けた。彦左衛門が女にもてるのは何年経ってもかわらないということか。
「してやられたな。――そうか。しかし酒は酌み交わしたいものじゃ」
「いいですよ。狭い屋敷ですが、どうぞ」
「いいや。広くしてやろう。いつまで意地を張って捕り手などやっておるのじゃ。そろそろ戻ってきてはどうじゃ。俺も腕がもう一本欲しくてなぁ」
「吉原も江戸も、庶民は面白いですよ。それに政は夜に行われるもんです」
「そういう道もあるかのう……お主ならいつでも歓迎だ」
彦左衛門は小春を呼んだ。
きっと雪のような白い頬を紅潮させて、微笑んでくれるだろう。これからは気がね無く、一緒に住む事もできる。芸妓がしたいならば続けることも可能だ。
「――小春?」
彦左衛門は唇を噛んだ。そして走り出した。
「梶原め!」




