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吉原大門事件帳ー小春日和ー  作者: WAKICHI
江戸の花火 第一幕 酉の市、翌日
5/57

(5)梶原源次郎



 その男は飛び起きて草履を突っ掛け、小春の手を取りぐいぐい引っ張り茶屋を出た。

「行くぞ」

 往来の激しい吉原大門の前を引きずられるように進む。男と女が遊郭に戻るとなれば、することはひとつしかない。

「場を変えようや」

 小春は男の指を毟りとろうとして、三味線を落した。

「お侍さま、お許し下さいませ。――誰か! お助けくださいませ」

 小春の叫びを聞いて人は集まったが、相手は武士である。しかも見るからに素性の悪そうな浪人だ。立ち向かって斬られる可能性は大きい。男が刀をちらつかせれば尚更だった。


 ――ヒコさま、早く来て。お願い。


 小春は思いきり男の腕を噛んだ。

「痛ッ!」

 斬られるのを覚悟で懸命に小春は走った。坂の上の大門番所まで辿りつけば、彦左衛門に助けてもらえる。

 衣紋坂の上までは大した距離ではない。ただし女の着物の歩幅は侍の全力疾走の半分にも満たない。小春の帯に手がかかり、むんずと掴まれた。

「逃げられると思うな!」

 膝をついて前のめりに倒れると男は勝ち誇ったように小春の正面に立った。

 小春は周囲を見回して、立ち上がった。

 いろいろな人がいるが、小春の求める姿はない。小春は腹を決めた。

 シャンと立ち上がり、胸を張る。そして啖呵を切った。

「この青侍、金も払わずに芸妓を抱こうなんて百年早いんだよ。さっさと失せな。このすっとこどっこい!」

 言ってしまった。スッとしたが、それで引き下がるような男ではない。じっくり獲物を狙うように、男が刀に手をかけた。小春はじりじりと後ずさりした。


 ――こんなに騒ぎになっているのに、どうして彼は来ないの?


 男の刃が微かに風を切って振り下ろされる。もう駄目だと観念して小春は目を瞑った。

「!」

 最初は寸止めだった。結った髪がひと束、はらりと着物の上に落ちた。

「命乞いしろ。土下座して、泣いて詫びるがいい」

「……」

 女が男に逆らって、敵うはずがない。まして相手は侍である。刀を下げているからにはそれなりのプライドもあり、狙った獲物を逃がすはずもない。武士の特権は切り捨て御免、それがまかり通る世なのだ。

 小春は芸者である。ここで男に媚びて命乞いするのは常套手段。男もそれを期待していることは間違いない。もとよりこの男が知らぬ男というわけでもないのだから、商売だと割りきってしまえばいいのかもしれない。

「――嫌です」

「何と?」

 江戸時代の文化文政の頃、戦乱の世ではなく、すでに泰平な時である。日中、大通りで武士が人を斬るのは珍しい。男もそれが分かっているから、小春が拒否したのは意外だった。

「嫌いな男に媚びて身も心も売るくらいなら、死んだほうがマシ」

「何たる侮辱!」

 男は上段の構えから迷うことなく、その刃を振った。小春に向かって振り下ろされる鋭利な剣先。ただし同時に真横から手が伸び、侍の腕を叩いた。重い日本刀は遠心力でスポリと抜けて、小春のすぐ脇に突き刺さる。 

「む!? 何者」

 男は痛む腕を抱えてよろめいた。

「まだ明るいうちから血生臭いことをしおって、しかもこのように美しい女子(おなご)を斬るとは何と言う無頼者じゃ。何ならこの弦斎がお相手つかまつろう」

 弦斎と名乗った男、背は低いものの、逞しい筋肉の持ち主であった。士道館という道場で師範代を勤める名うての武士である。身なりもきちんとしていて凛々しい。

「弦斎だと?――知らぬ名だ」

 男は小春と弦斎を交互に睨みつけた。弦斎は黙って小春の脇に刺さった刀を抜いた。

「江戸に来て浅いな、主」

「江戸になぞ興味ないわ。小春を取り返したら、すぐに去ってやる――もともと小春は俺の女だ。他人のお前が口出しするな」

「なんと、恋仲か?」

 弦斎は細い目を見開いた。小春は首を横に振る。

「いいえ。桔梗楼のおテツさんの紹介で茶屋に呼ばれただけの間柄でございます! お断りしたところを強引に引っ張られまして」

 実はこの男を知っている。名は梶原源次郎。名を思い出すのも汚らわしい。まして知り合いだと思われるのも真っ平御免だ。恋仲などあり得ない。

「――だ、そうだ。田舎侍どの、刀を納められよ」


 弦斎は梶原源次郎の足元に刀を放り投げた。

 自信に満ちた弦斎の動きに隙はない。背の低い弦斎を源次郎は見下ろしているのに、圧力を感じてそれ以上前に進むことができなかった。

 威風堂々の弦斎に対して源次郎の腰はまるですわっていなかった。

 夕暮れが近づいて、空は暗くなりはじめている。

 暫し時が流れ、遠くで暮れ六つの鐘が鳴った。カラスがけたたましく鳴いて、飛び立っていく。

 梶原源次郎は乱暴に刀を掴んで手に取った。

「自信過剰だと、痛い目をみるぜぇ……」

 飢えた目つきで上唇をぺろりと舐めると、上段の構えで弦斎と合い対した。

 弦斎の草履が土を踏みしめて、じりりと音を立てた。

「自信過剰は、お主の方であろう」


 まず梶原源次郎が動いた。

 ――ひゅん。

 空を切る音。源次郎が弦斎の眉間を狙ったが、弧を描いた刀の軌跡は弦斎のひと薙ぎで消えた。

 ――ひゅっ。

 弦斎が喉もと半寸で刀を止めた。


 強い。

 獅子と猫が戦っているようなものである。


 小春は静かに笑みをたたえた。

「どうする? まだやるのか?」

 静かであるが挑発的な弦斎の言葉だ。小春からは見えないが、源次郎は弦斎の目を見て、背筋が凍った。

 ――こいつは殺人鬼だ。殺したくて仕方ねェって目をしてやがる。

 源次郎の足がゆっくり後ろに下がった。すると、その分だけ弦斎が前に出て、喉元を軽く突く。それが数度繰り返されて、源次郎は妙な脂汗をかいた。

 ――畜生。畜生!

 煮え繰り返るような腹立たしさと、負けた悔しさで、傷になるくらい激しく唇を噛んだ。


 その二人の対決を遮る男の声があった。

「これは弦斎さま。揉め事ですか?」

 戦いの緊張の糸がぷつりと切れ、穏やかで低い声が響いた。小久保彦左衛門が、落ちていた三味線を片手に持って歩いてきたのである。


 小久保彦左衛門の想いは複雑だった。

 小春が濃い化粧をして、美しく着飾っている。白塗りのうなじが妖しいほどに男心を擽る。一層磨きのかかった小春は江戸の誰よりも魅力的だ。それが自分のものであるかと思うと、とても嬉しいものである。

 だがそれは彦左衛門と遊興に出かける格好ではなく、仕事に出る格好ではないのか。しかも見るところによると、小春一人のために男二人が戦っている。


 ――小春はいったい、今まで何をしていたのだ。

 先ほど番所に顔を出した時はそんな格好ではなかったではないか。


「小久保殿、随分ご無沙汰ではないですか。――三年ぶりですかな」

「そうですな。剣を交えた昔が懐かしゅうございまする。して、弦斎殿こそ、かような場所で刀など抜いてどうされたのですか?」 

「大したことではございません。こちらの芸妓さんがそこの浪人に絡まれてお困りのようでしたので拙者が助けに出たまでのこと――小久保殿がおれば、私の出番はございませんな」

 弦斎は梶原源次郎に向けた刃を鞘に収めた。

「次は必ず勝つ。憶えてやがれ!」

 源次郎も役人姿の小久保彦左衛門が来たので、これ見よがしに逃げる算段を取り、負け犬の遠吠えで人ごみに消えた。

 弦斎と彦左衛門にとって梶原源次郎はただの厄介な浪人で興味はなかった。所詮二人の敵になるような強さは無い。久しぶりに出会えた友との再会を喜んでいたのである。

 小春だけは、難を逃れたことに、胸を撫で下ろした。

 誰にでも知って欲しくないことのひとつや二つはある。たとえ小春が好きな小久保彦左衛門といえども、全てを打ち明けることはまだできそうにない。

「弦斎どのもこれから吉原ですか」

「いいえ。頼まれたのですよ」

「頼まれた?」

 弦斎は右を見て、人を呼んだ。

 恰幅のいい、堂々と歩く男は町人であった。上等な着物は鼠色であった。その人を小春は知っている。

「旦那さま!」

 先日吉原から帰る折りに桟橋で助けてもらった恩人。江戸花火師、七代目鍵屋清七である。

「弦斎さまとたまたま近くを通りましたところ、お困りのようでしたのでお願いした次第でございます」

 小春は心の限り礼を言う。 

「有難うございました。二度も命を救われて、何とお礼を申したら良いやら……」

「運命ですなぁ。三度目には気をつけてください。では、失礼」

 弦斎と清七は二人に背を向けた。

 彦左衛門は丁寧にお辞儀をする。そして蔭では小春の手をしっかりと握る。

「もう離れるな」  

 小春の手を握り返した。源次郎に掴まれた荒々しい記憶を全て消してくれる、柔らかく大きい手。この手と心に包み込まれ、もう二度と離れたくないと思う。

 

 私にとって、かけがえのないひと。


 そんな小春の気持ちを彦左衛門は全く気付いていない。

 小春は初老の役人にはもったいないほど若く、華のように美しい。しかも芸妓となれば男も近づきやすいのだ。白髪混じりの中年では、若さや精悍さでは負けてしまう。若い男や強い男に小春が惹かれるのは自然なことで、仕事の恰好をしていても、寄ってくる男を選ぶ目はあるだろう。

 そうなると彦左衛門は勝ち目が低いのだから、気を張って小春を引き留めるしかない。

 彦左衛門も、小春がなにより大切だった。



 吉原大門番所は忙しく人が出払っていた。二人の他に誰かが戻る気配はない。小久保彦左衛門は番所の奥の座敷に小春を座らせた。

 もう外はすっかり暗くなっている。小春は常連の上客、井筒屋での宴に間にあうだろうか。本当ならすぐにでも出かけなければならない時刻だが。

「ひこさま。あの……」

「今日はこの俺と約束したはずだ。屋形船で新鮮な刺身と鱒の塩焼き。食わしてやりたかった」

 小春は口篭もって、断りの文句を言おうかと迷っている。

 彦左衛門が行き方知れずの帳面を捲って仕事をしているので、横から口を出すのは、何ともはなしづらい空気だ。

 番所の土間の入口には(むしろ)が被せられてこんもりした膨らみがある。普段は平和な番所にいちいち死体の置き場所なんてあるはずもない。莚が足らず、女の足首から先が出ているのが不気味だった。

「急なお仕事が入ったようですね」

「ああ。だから今日は、行っていい」

 この番所にずっと居ろと言わんばかりに小春を引き連れてきた彦左衛門だったが、今度は勝手に出ていけとばかりに仕事をして、小春の方を向かなかった。

 彦左衛門は小春がどうでるか、試しているのか。

「ひこさま……申し訳ごさいません!」

 小春は深く手をついて土下座した。今日の彦左衛門はいつもよりぶっきらぼうで、不機嫌だ。本当なら傍にいたいのだが、仕事が無くては生きていけない。

「……」

 彦左衛門はこちらに向き直り、小春に身を起こすよう促した。

「お互い仕事のある身だ」

 小春が顔をあげて彦左衛門を見ると、いつものように優しい目をしていた。

「あまり危ない橋は渡るなよ。今日だってお前の姿が見えないので、あのホトケが一瞬お前かと疑った」

 彦左衛門は軽く笑いながら、小春の手をしっかり握り締めた。暖かく肉感的にふわふわした手に小春の小さな手がすっぽり包まれる。

「無茶はするな。あんな浪人みたいのに絡まれるなよ」

「ひこさま」

 小春は胸が痛くなって彦左衛門の胸に頬を寄せた。

 それだけで、心の氷が溶けていった。


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