置屋にて
「ただいま戻りました」
小春は愛しい人と会えた嬉しさで、声が弾む。
かなり遅れて戻ってきた。どのような言い訳をしよう。女将は厳しい人だから、皮肉や小言の十や二十も覚悟のうちだが、杞憂に終わった。
小春が玄関に入ると、客と思われる草履が三つある。
夜の静かな置屋に女将の声が響いている。
「そうはいいますけどね、総締なんて最近できた役で、私共も惑っているんです。だいたい吉原に芸妓が出入りしてるのは芸のためです。身請けのために汗水流して芸子を育てているわけじゃありませんよ!」
答えた男の低い声は傲慢だ。
「とにかく今度は絶対に通してもらう。噂は聞いているぞ。小春が芸子やめるそうじゃないか」
男は懐から小判の山を積み上げていく。鼻づらに餌を置けば何とかなるとでも思っているのだろう。なんともいやらしい客だ。
「小春は特別な子なんです。そこいらのと一緒にしないでおくれ。お辰さんだって、迷惑しているんですよ?」
「そうですよ。いないものはいないんですからね?」
もう一人の客は女で、お辰という。女将の友人だが今回は男の誘いでここに来た。
「私にも小春を送らせてくれんか」
安い価格で置屋から買い上げ、高値で売ろうというのである。何の下調べもせず、こちらの都合などお構いなしだ。小判を積み上げればどうにでもなるとでも思っているのだろうか。
お辰は咳払いをして、襟元を正した。
「置屋には置屋の心意気ってものがあるんですよ? それに他の置屋にまで口出しできません」
男は焦れた。
「一度は許しても二度目はありえぬ!」
女将は言う。
「第一に、その額ではこっちが赤字ですよ。舞妓にするまでに借金抱えて育てているのに、なんでうちが損しなければならないんです? 小春は天下一品、べっぴんの売れっ子ですよ? そんな“はした金”で、アタシを釣ろうってのかい!」
お辰は小判を羨ましい目で見て、言葉が出なくなった。女将は憤然として言う。
「お竹が逃げたのだって、あんたが仕組んだことじゃないのかい? 最後に見かけたのは吉原だっていうじゃないの」
剣呑な会話に小春は居たたまれない。しかし挨拶は必要で、顔は見せなければならない。そっと覗くと二人の女将が座卓を挟み、男と対峙している。
「こんばんは」
小春は愛想よく微笑むと、男は頬を染めた。太った強欲の姿そのままに、良い身なりをしている。
女将は小春には何も言わせず、二人の客を追い払った。
「この話は終わり。――ほら、もう帰って!」
そして小春には暖かい目を向けた。
「お疲れさま。今日は遅かったわね。心配したわよ。もう遅いから、朝までゆっくりしておいきなさい」
「? ありがとうございます」
簡単に挨拶をしただけで済んだのは良かったが、女将の態度が気になる。
気もそぞろに奥の支度部屋で帯を解いて薄着になった。すると物陰から男が出てきて抱きつかれた。
あまり驚かなかったのは草履が三つであったから。慣れた体臭と酒の匂いにまみれた。
「小春、遅いではないか」
「――あ!」
そのまま畳に転がされた。男が圧し掛かってくるのを必死で後退りした。
小春が支えていた手を弾かれ、再び畳の上に伏した。何をされるかと思いきや、そのまま小春を下敷きにふくよかな胸を枕に寝ている。
「源次郎、また酔っているわね?」
やっと精悍な武士になったのに、今日は些か乱れている。
「お前が待たせるから、馳走になったまでよ……」
「迎えに来なくても、ちゃんと帰ってあげるのに」
「そうか? どこぞの男とよろしくやってたんだろ?」
源次郎は小春の頬や首に指を這わせて、襟に手をかけるのでひやりとした。絡んでくるのをぞんざいに押し退け、鏡に向かって座る。
「仕事だから」
源次郎は意味不明な笑いをして、小春の背中を見ている。
「芸妓の仕事は好きか?」
「好きでなければやっていません。でも酔っ払いの相手はもう充分。さっさと化粧を落としたいわ」
簪を抜きながら、鏡に映る源次郎の様子を探った。源次郎は自由奔放だ。どっかりとあぐらをかいて小春をうっとり眺めている。
「ずっと芸妓でいたいのか?」
「そうね」
「では新しい旦那が見つかったら芸妓を続けるか?」
「当然。そうなると源次郎様の奥方にはなれませんわね」
「その旦那が生理的に好けねぇ奴で、寝なきゃならねぇとしたらどうする?」
小春の髪を直す手がピタリと止まった。
「そういう話があるの?」
「問いに答えろ。どうなのだ?」
「そんなぼやけた話では分からないわ。誰なの?」
「たとえ話さ」
「わかんないわよ。人柄とかあるでしょう。あと酒癖の強い人は嫌よ」
小春は芸妓を続けられるような気を持たされて、拗ねた顔をした。
「まぁ誰が旦那になっても無理だろう。前川さまだから稼業ができたんだ」
源次郎に無理だと言われれば、後先無しの意地だけが残る。
「……。できるわよ。きっと」
源次郎は馬鹿にしたように笑う。
「できない。お前の全部を奪えたのは最初で最期、俺だけだ」
小春は含み笑いで源次郎を見た。駆け落ち同然ですがりついたのは昔の話だ。
「どうかしらね。源次郎さま、上機嫌はいいですけど着替えたいの」
小春は立ち上がり、源次郎の腕を引っ張って部屋から追い出そうとした。
「待て。渡したい物がある」
源次郎が大きな包みを手渡した。風呂敷を開けると喪服が入っている。
「明日の弔いの?」
「そうだ。だから街着で帰る必要はない」
小春は硬直した。
「柳橋家の家紋。これは着れないわ。秀長さまに申し訳が立たない」
「柳橋家を再興するのがお前のつとめだろう。その家紋を背負って生きるのが報いだ。お前は柳橋の娘で、俺の妻だ。朝になったらそれを着て、ここを発つ。良いな?」
強い口調だ。源次郎は小春の腕を掴み引き寄せ、逃すまいと情熱的に抱きしめた。
この情熱が長い間、小春を迷わせ、惑わせている。
最初は無償の愛と思い、二度目は自分勝手な奢りだと思った。けれど今は裏も表もない。源次郎は実直だ。
「過去から逃げるな。二人でやり直そう」
源次郎の手が小春の腰にまわって引き寄せられ、吐息が重なるほどに近くなっていた。
「源次郎、やめて」
「いいではないか。そのような薄着で誘っておきながら、無事で済ませようとするのか」
そっと乱れ髪を直し、優しく小春の頬を指で撫でる。
薄い襦袢を一気に剥がすこともできる。けれど小春は蝶である。一時的に源次郎の胸に留まることがあっても、そっとしておかなければすぐに逃げられてしまう。だから源次郎はひたすら待った。
「勘違いしないで。アタシには好いた方がいるの。妻になってもアンタとは寝ないから」
「小久保はお前にとって都合のよい盾だ。俺といたら、簡単に丸裸だぜ。いつまで逃げるつもりだ」
死角でしゅるりと音がした。腰紐の一本が解け、襦袢が緩くなる。
「違う。あんたには分からないわよ」
「これ以上あの男の話をすると、どうなるか分かっているだろうな?」
源次郎の瞳は本気だ。小春は源次郎を押し退けた。
「……。逃げるならば仕方ない。また追わねばならんな」
「アタシのことは放っておいて!」
締まった足首を愛撫する手。隠されていた脹脛を曝け出す。手は太腿の内側を伝って、奥へ上がっていく。
「それはできぬ。俺はお前に身体を売らせた。あの時から俺はお前以外、誰も愛せなくなった。
お前を愛し、俺が幸せにせねば、俺は飢えたまま……」
「源次郎」
小春は逃げることができない。これほどまでに深く傷つき、悔いている。それが演技なのかどうかは判断できなかった。
「潤してくれ――お前ならできるだろう?」
身体は憶えていた。それを仕事にしなければならない時があったから。
否定したい唇に源次郎が唇を重ね、言葉も反抗する気も出てこない。
こうして他人と密接に繋がり合う行為が久しぶりだった。舌を絡めると敏感になり、胸や下腹部が疼いた。長い接吻のあとに出た吐息は甘いため息になる。
「だめよ。もう許して」
彦左衛門は、源次郎に勝つと言ってくれた。それは信じている。
けれど、それは源次郎が明日のその時まで何もしないことが前提だ。今ここで逆らえば、彦左衛門が危うい。どういう策に出るか分かったものではない。
小春は動けなかった。
嵐に沈む船のごとく、抗うこともできず溺れていく。
そして小春は朝を迎えた。
柳橋の紋を背負い、二人で江戸の町を歩いた。
たとえこの先に幸せがあるとしても、その幸福を掴んでも良いのだろうか。彦左衛門を裏切った。自分の気持ちも裏切った。誰と顔を会わすのも辛い。
小春は俯いた。
凛と咲いた百合の茎が、ポッキリと折れたかように。
「弔いが終わった後の集まりで、俺の妻として紹介されるだろう」
道すがら、源次郎は言ったが、小春の心には何ひとつ残らなかった。




