復縁
その夜である。彦左衛門はひとりで酒を呑んでいた。
小久保家の縁側に座り、柱に凭れかかって春のおぼろ月を眺めている。
隣には酒と盃が2つ用意してあるが、このところ盃はひとつ使わずじまい。
それでも今日こそは、そう期待して待ってしまうのである。
池の蛙が鳴いていたが、それがピタリと止まった。
彦左衛門は「――おぉ」と声をあげ、玄関に向かって歩き出す。
些か千鳥足ではあったが、速足になる。
「夜分に失礼いたします」
彦左衛門は閂を開け、小春を招き入れた。煌びやかな衣装に簪、芸子姿は艶やかだ。薄く微笑む姿は美しい。ただ珍しく緊張している。
「座敷の帰りか」
「はい。着替えると怪しまれてしまいますので」
少し寂しくなった。置屋の女将は露骨には反対していなかった。だから、怪しむのは女将以外の相手で、自分の知らない誰か。
それが小春の答えなのだ。
「そうか」
誰であるかは追求しない。代わりに縁側まで招いた。いつものように盃を差し出す。
「一杯付き合ってくれ」
小春は困惑している。彦左衛門は、一人で立て続けに酒を呷って、酔いを求めた。
「息災であったか? 少し痩せたか?」
「いろいろとありましてご報告が遅れましたことお詫び申し上げます」
「最近我慢が効かなくてなぁ。何度か訪ねたが留守だった」
「小春もお会いしとうございました。彦さまが訪ねてくださったと聞き及び、それは嬉しゅうございました。ありがとうございました」
小春は深くお辞儀をしたまま動けないでいる。
頭を上げよとは言えなかった。
彦左衛門は小春の正面に座りなおした。固く握り締めた拳をそっと、小春の肩に置く。
細い肩。彦左衛門は迷った。
心の求めるままに引き寄せ、崩れるほどに抱きしめたい。
「よく来てくれた。永遠に放られたままかと思ったぞ」
小春も必死で覚悟を決めてきた。
「実は彦さま。――私、芸子を辞めざるを得なくなり……」
言葉に詰まる小春に、彦左衛門は相づちを打った。
「前川が死んだからな。俺は小春が芸子ではなくても大歓迎だ。芸子をやめて、うちに来るか?」
小春の精一杯の声が涙で震えて、かえってそれ以上話させるのは不憫だった。もとより初老の捕り手に一級品の芸子が惚れることさえ奇跡。
小春の肩を軽く叩いて、彦左衛門は月明かりの下に呼び出した。
「今宵は朧月……春だなぁ」
小春は惑う。幾多の男を目にしてきたのに、彦左衛門の微笑みが分からない。
「一献、いただきます」
名残惜しげに数度盃を交わした。
小春は満々と注いだ盃を、こともなく飲み干す。酔いに全てを消してしまいたい想いが盃いっぱいに満ち溢れている。
「前川がいないのだから仕方あるまい。下手に続けて芸子に手を出すような旦那を持つよりは、幸せだと思える方向にしなさい。俺はこのとおりだから、いつでも歓迎する。まったく歳月というのは男を駄目にする。あと十年早ければ、とっくに奪って誰にも渡さんと意気込んでいただろう」
「……彦さま!」
大きく暖かい手が小春を包む。胸中で強く固めた意思は日なたの氷のように溶け出す。それでも小春は唇を噛んで耐えた。
「年老いたのだ、小春の好きにしろ。ただし幸せになれよ」
小春はじっと見つめ返す。
「……。」
はいという返事はどこからも出てきそうになかった。
彦左衛門は消した囲炉裏の火のごとく、ジリジリとまだ熱い想いに焼け焦げそうになる。
「ではここに居れば良い」
小春の頬をほろりと涙がつたう。彦左衛門の優しさが苦しい。
「いつものように……」
彦左衛門は言葉を選びすぎて口を噤んだ。
「いつものように、啖呵を切ればいい。潔く出ていき、凛として二度と振り返らない。その方が辛くないというなら、そうしても良い」
小春の情念が湧き上がった。
「そのようなことできませぬ! 私はただ、彦さまにご迷惑がかかるので、このままでは……」
ありふれた言葉は聞き飽きた。二人の別れには相応しくない。
「他に好いた男ができたのなら諦めよう。しかしそういう答えでは認められん。男が廃るではないか」
月が隠れて、再び現われる間、静かに時が流れた。
「難しいことは言わぬ。ここに居たらどうだ?」
小春はなおも首を横に振った。
彦左衛門は手を顎にあてた。ならば理由を知りたいところだ。
春の月は朧に包まれて、はっきりと浮かび上がらない。そういうものなのか。
「所詮恋など遊びか。若ければ、遊ぶ自由もある」
小春は立ち上がった。
「違うっ、違うわよ。――違う! 彦さまのためです」
悲痛な叫びが静かな邸内に響きわたった。蛙の声も鳴き止んで、夜の帳に小春の白い顔が浮かんでいる。
彦左衛門は小春に背を向けて、肘をつき、庭を眺めつつ小春の言葉を待った。
それが真意ならば、言い訳が聞きたいものだ。
「気持ちは嬉しいが、本人の意向も入れさせてくれんか? 訳を申せ。俺に迷惑をかけられるのは前川以外にはおらん」
小春はようやく、ポツポツと語りだした。
「前川さまは旦那として、最後まで小春の安否を気にかけてくださいました。前川さまは芸子をやめて武家の妻になれと。その相手が梶原源次郎でした。復縁を断れば、彦さまに罪をかぶせて島流しにすることもできると……」
盃が砂地に弧を描いて、闇の中へ消えていく。
彦左衛門は小春を抱き寄せた。
「小春、すまなかった」
彦左衛門の言葉はあまりに弱い。
「前川は俺のことを恨んでいたかもしれん。志津を奪い、小春を奪った。出世に利用されるのも断った。前川のヤツめ……死んだら文句も仕返しもできんではないか」
彦左衛門は小春を撫でた。
「だがな、この世は生きている者のためにある。死人に口出しはさせん。案ずるな、俺が何とかする。だから――また酌をしてくれんか?」
彦左衛門は小春と一つの盃で、交互に酒を呷った。
「おお、これでは夫婦の契りのようだ」
小春は頬を染める。涼し気な表情の中に見え隠れする純情さに心惹かれる。
「喜んでお請けいたします」
彦左衛門が注いだ盃を飲み干す小春に惚れ惚れする。
「ところで総締という役割が出来たのを知っているか? 置屋の代わりに芸子を身請けさせ、荒稼ぎしているらしいのだ」
「聞いたことありません。このところずっと前川様のお屋敷にいたもので、女将ともあまり話をしておりませんの」
「ならば良いが、気をつけてほしい。調べでは、芸子を辞める話しが出た者にはもれなく声がかかるという噂だ。総締の正体はまだ掴めぬが、何やら危ない気がする」




