雪見桜。前川の遺言
小春は豪奢な屋敷の裏戸から一目散に飛び出した。
すべてから逃げ出したい。怒りと哀しみの滴を袖で拭きながら、闇の中に消えようとしていた。
遅れて侍が屋敷から出てきた。梶原源次郎である。軽い足取りで追いつくのは簡単だ。執拗な瞳は獲物を狙う肉食獣のようだ。
悩んで眠れずにいる女に少し優しくしただけのこと。それを飛び出すなど、何が気に入らないのか。呆れた声が通りに響く。
「もう決まっちまったことだろ」
小春は驚き、振り向いてその姿を捜した。逃げきれたと思っていた。
しつこさは相変わらずだ。
「――誰があんたなんかに!」
「でもな。前川様のご遺言だぜ? 恩人の最期の頼みを断れるはずなかろう。お前も前川様の前で頷いただろ」
「あんたが裏で手を回さないでいるわけがない!」
小脇の細道から太い腕が伸び、声をあげる隙もなく引き寄せられた。
「源次郎! 離して」
源次郎は小春の耳元で囁く。
「いつまでもそのような小細工をするように思われては心外。この件に関して、俺は嘘ついていないぜ? むしろ嘘をついたのはお前のほうだ。全部、自分が蒔いた種だろう?」
「仕方ないじゃない。どうしようもなかったのよ」
「巡り巡って元通り。俺らは結ばれた二人だ。運命としか思えんなぁ」
「違う! 前川様は人が良いから、あんたに騙されたの!」
小春は半玉の頃から可愛がってもらっていた。衣装や実入れに困ることがなかったのも、前川のおかげだ。芸妓を養うのは男の甲斐性で、色欲にも顕示欲にも溺れない。小春が芸子として良い腕と器量があることを認め、旦那であることを誇りにしていた。
ところが一年ほど前から源次郎は前川の家臣となっていた。小春は黙っていたのに、源次郎は前川に正直に話したそうだ。“元は夫婦だが、養う金が無いために別れた”と言った。消えかけた竈に薪をくべるような態度を取ったことだろう。
今に至っては小春には意中の相手がいることを、前川も承知している。そうこうしているうちに源次郎は陸奥に行くことになった。それで縁は切れたはずだった。
けれど源次郎は諦めなかった。都会の新参者は爪弾きされたが、源次郎はそれも利用した。揉め事にも強く、人を利用し、あれよといううちに江戸に戻ってきた。
そして前川は病におちて死を悟り、わずかな心残りを清算したくなった。小春の旦那としての最後の役目は、小春に安定した生活を与えることだ。死に瀕する者を前にして、小春は夫婦の誓いを立てざるを得なかった。それすらも源次郎の立てた策としか思えない。
「たとえそうだとしても恩を仇で返すつもりか? 夫婦になるのは決まったことだ。いつまでも芸子では、俺の過去まで露呈しかねない。罪滅ぼしさせてくれよ」
「芸妓を続けたいの」
一人で生きていく覚悟ならとっくにできている。
「金ヅルを失ってどうやって芸を売るつもりだ? できやしねぇだろ」
前川が病に伏してから、屋敷に顔を出すことが多くなった。その間に仕事を重ねたが、今までのような生活は成り立たなくなっている。にわか仕立てに流行りの辰巳芸者などしてみたが、儲けにならなかった。廃業の二文字が重くのしかかる。
「そういうところが嫌なの! 金ヅルなんて汚い呼び方をして。旦那さまに失礼よ」
「別れた夫婦の縁を取り持つなんて、前川さまもやってくれたものだ」
「前川様はあんたの汚い部分をこれっぽっちも知らないから! あんたが全部悪いのよ」
源次郎は小春を乱暴に引き寄せた。殴られるかと思いきや、源次郎は静かで冷静だ。
「可愛そうな女」
源次郎が哀れんでいる。
「確かに昔は汚いこともした。そうしなければ飢え死にするからだ。でも俺は立ち直った。お前はどうだ? 腐った世界にどっぷり浸かりすぎて、何も見えなくなっている。
まっとうな生活が一番。妙な夢見て、芸妓で生きようとしてるが、いつまでも若いわけじゃない。婆ぁなんて誰ゾ相手にするものか。それぐらい分かるだろ?」
「……。」
死刑宣告をされたような気分だった。体じゅうの力が抜けて、ふらふらする。源次郎は小春の身体を支え、優しく抱きしめた。
「俺がお前を追い落としたんだから、俺が救うのが筋。俺の妻に戻って、そこから始めればいい」
あぁ、源次郎は本当に変わったのだ。
「芸子はまっとうな仕事です。前川様は旦那。男の前で、芸子が嘘でも頷くのは、優しさで仕事のうち……」
源次郎は小春の唇を唇で封じた。若い頃によく交わした、優しさと貪りを交互に繰り返す、執拗な口づけだ。二人で一つであることを、思いださせるためだ。
「やめて。アタシはするって言ってない」
満たされない源次郎は簡単に止まらない。小春は耐えかね、振り解いた手で、平手うちで反した。
「まだ分らぬのか? お前は俺のもの。俺が好いておるからには決まったことなのだ。例え屋敷に閉じ込めてでも、俺はお前を妻にする。今は大事な時。他ならぬ前川様の願いだぞ!」
小春は叫んだ。
「――誰か! 誰か助けて下さい。ここに怪しい男が!」
その先は言えなかった。源次郎は刀を抜き、小春の喉元に突き当てたのだ。
「俺の出世の邪魔をするというなら、覚悟はできておろうな?」
脅しではなかった。小春は斬られてもいい覚悟で、源次郎を見据えた。
「それが本性なのでしょう? 結局、源次郎は私を道具としてしか見てくれないし、芸子の仕事はまともじゃないと思っているのよね」
源次郎はニヤリと笑う。
「そのような方とは添い遂げられません。私を大事にしてくれて、芸子でいることを受け容れてくれる人なら、とっくの昔にいるの。命を賭けても、その人を裏切りません」
「あんな爺ィに、まだ熱を上げているのか。じゃあ、いいよ」
「!?」
「その理屈、通してやろう。あの男を裏切れないんだろ? いいか、よく聞け。お前はよく知っているだろうが、世の中は金と権力だ。俺は下っ端役人など、理由なしで即、島流しにできるんだぜ」
「やめて。なんてこと! やめて……源次郎、お願い」
小春は力尽き、座り込んだ。
咲いた桜はその重みで枝をしならせた。季節はずれの雪が降ったあの日も、彦左衛門は優しかった。
あの時はもう二度と来ない。再び桜を二人で見ることはできない。
それでも彦左衛門を守ることができるなら。
「旦那さまだ」
小春は青白い顔で、唇を噛み締めた。
「――はい、旦那さま」




