葉桜。変わりゆくもの
仲ノ町通りを歩いていると、桔梗楼の遣り手、おテツが走り寄ってきた。袖をぐいぐいと引っ張り、こっそり店の中に引き入れた。
「いったい何の用だ?」
「何の用もあったもんじゃない。うちの商売じゃまする気かい?」
「桔梗で事件でも起きたのか?」
おテツはさらに小声で彦左衛門に耳打ちした。
「そうじゃなくて。――いい加減に小春を座敷に上がらせてちょうだいよ」
小春が十日も吉原に顔を出さぬことなど、盆や正月でもありえない。
おテツも再三にわたり、置屋に手紙を送っていたのだ。芸妓選びには贔屓があるし、美貌に目をつけた客が指名してくることもある。断りを入れれば、座敷の盛り上がりも今ひとつで、ひいては商売に差し障る。
なのに置屋の女将にはやんわりと仕事を断られたり、違う芸子が回されてくる。女将も文句を言うくらいで、迷惑している。大門を通れないというなら、誰の仕業か悟ったところだ。
彦左衛門は心当たりな無いので返事がない。
「ちょっと待っておくれよ。――どういうことだい!」
おテツの大声が響いた。周囲の凍りつくような空気と反対に、怒りに燃えている。彦左衛門は冷や汗をかいた。仮にも自分は吉原を仕切る身である。
「小春のことは分からん。そのうち戻ってくるだろう。仕事が忙しいんだろうよ」
おテツは鼻で笑い、お手上げのようすで首を横に振った。
「捕り手がみすみす逃がすかねぇ。それはかなりの一大事だよ。小春が芸と恋のどちらを選ぶかなんてすぐ分かるでしょうが」
「それは俺だろう」
「これだから男って奴は幸せもんだね!」
「違うのか?」
「小春はここいらでは有名な芸子だよ? 座敷を休むからには辞める覚悟があるってこと。それも旦那に内緒でね。――どうして内緒なのかは、ご自分の胸にきいてごらん」
「俺は悪くない。小春を大事にしてきたぞ」
「だったら、さっさ様子を見に行って頂戴。それでもって、しっかりアタシに報告してくださいよ!」
おテツは彦左衛門の背中を勢いよく押した。
「そうもいかんのだ。所用が済んだら、もう一度山吹桜にも行かねばならない」
「山吹? あんな下っ端に何の用だい。放ッときゃいいんだよ、あんなトコ」
「山吹の店主は、このところ羽振りがいい。小判をざっくり持っている。その理由が知りたいのだ」
小判と聞けば、おテツの瞳がキラリと輝く。
「いい話だね!」
「いや。どうせ悪い話だろう。お前は手を出すなよ?」
手は出さなくても耳は地獄耳。それがおテツである。
彦左衛門が桔梗楼で茶をすすっていると、半時も経たないうちに行っておテツが戻ってきた。
「どうだ?」
「もうけ話なんて簡単に落ちてやしないもんだね。山吹は安値で女郎を身請けさせ、荒稼ぎしてる。まっとうな商売しているアタシには、もうけにならないよ」
「女郎を放出するとは慈善だな。しかし安値では赤字だろう。あの店主の肥え方からして、買値以上の値段で売れていることは確実だ。裏があるな」
「世間の水は辛いよ。女郎上がりの妾なんて吉原以下の扱いだよ。おおよそ裏の世界でボロボロになるまで利用されるのがオチさ。借金背負ったワケ有りの女郎に良い値段は付けれられないね」
「なら、何が売れているんだ?」
「そりゃあ、健康な女さ。女中でも、遣り手ババアでも芸子でも乳と尻が健康ならいいんだよ」
「おテツ! 今、何と言った?」
彦左衛門は迫った。
「乳と尻?」
「違う!」
「そんなに顔を近づけないでおくれ。頭をおかしくなったのかい。アタシは女中でも、遣り手ババアでもって言っただけだよ? 嫌だよ。アタシは……」
「芸子、芸子って言っただろう!」
「あぁ、芸子は裏ではよく売れているそうだよ」
「姉妹に芸子がいる。二人とも同じ顔をしているとしたら、お松を芸子として売ることも可能だと思わんか! 途端に値が張りあがる」
おテツは頷いた。
しかし彦左衛門はすぐに、顔を曇らせた。
――となると、あの言葉はいったい誰に向けられたのか。山吹の店主とは考えにくい。買い手の人間なのか? しかし初対面だとして、あれほどの恨みをさらけ出すものだろうか。
「旦那――そんなことよりホラホラ、小春の件をどうにかしておくれ」
彦左衛門はおテツに追い出され、仲ノ町通りの真ん中で立ちつくした。咲き終わりの桜の花弁が落ちてくる。
「すっかり葉桜になっちまいやがって」
小春と最期に会ったのはこの場所である。
あの時は雪も花も月もあったが、今は何もひとつない。
そう。季節が変わったのだ。
彦左衛門は拳を固く握り、置屋へ向かった。
※ ※ ※
昼間ならば、逢えるはず。女将が芸子の居場所を知らないはずがない。銀次なら言い逃れはできるだろうが、捕り手に逆らうようなことは無いだろうから、絶対に言い逃れはさせない。
お竹を直接この眼で確認しようと、置屋を訪ねた。
洗練された小春がいる純粋な置屋と違い、貧相で雑多な商売をしている店だ。三味線の音もするが、炊事や洗濯をする女の子供らがたくさんいる。
腫れ物を扱うように、部屋の奥へ案内された。若い女が茶を持ってきたが、礼儀作法は丁寧で、よく仕込まれている。
女将は機嫌も態度も雑であった。
「それで、どういったお話でしょう」
「ここは若い子がたくさんおりますな」
「えぇ。下は赤ん坊からおります。根っからの芸子に育てるのはたいへんなことです。親御さんから預かるからには、大事にさせてもらいます」
「ではお竹さんに逢わせていただけますね?」
「……。お竹はここにはおりません」
「どこへ行けば良いでしょうか」
「さぁ。私にもわかりません」
女将の不機嫌さが限界に達して、ボソリと呟いた。
「あの子は芸子をやめてしまいました」
「やめた?」
「半月ほど前に逃げました。ある旦那が声をかけてくださって、裕福な暮らしをさせてやると言っていたのに!」
「せっかく育てた芸子を妾にということですよね」
「そうです。うちは人数が多いですから、けっこうあることです」
「何故、本当のことを言わなかったのですか。身の危険があるから、うちの者が何度も確認をしに来たではないですか」
女将は言うに困っている。
「総締が調べにきたものかと」
「そうじめ?」
彦左衛門の復唱に女将の顔色が悪くなった。
「店と置屋の仲介を仕事にする役目が新しくできたんです。でもお竹が逃げたのが原因で、もめ事になったんですよ。うちがお竹可愛さに隠しているのではないかと疑われて大変だったんです」
彦左衛門は納得がいかない。店と御座敷の仲介をするのが置屋の仕事だ。置屋が置屋の仕事をしないで、この女は何をしているのか。お座敷でお竹が出られないなら、別の芸子を向かわせるだけのことなのに、誰にも交代できないという。つまり総締の仕事は、身請けの斡旋だ。
「お竹は逃げたんですね?」
「そうです。ですからうちは悪いことなどしていません。総締なんてもの、無くなればいいのに」
「それは深川の置屋にもいるのですか?」
「江戸一帯を取り仕切ると言っておりましたので、もれなく声は掛かることでしょう」
彦左衛門は硬直した。
「大丈夫ですか? お顔の色、真っ青ですよ?」
だから小春も逃げている。
小春を世話している女将は嘘をついていたに違いない。




