三五八飯屋
暮れ六つ、三五八飯屋でのことである。
小久保彦左衛門が暖簾をくぐるなり、「ほら来た」と店の女が笑って出迎えた。
「おう、そうだった。ツケと残りは前払いだな」
彦左衛門は小判を一枚渡すと、女が目を輝かせた。入口手前にあるいつもの席に座ろうとすると、「こちらへどうぞ」と二階に案内される。
「今日は上客扱いか」
亭主の三五八が店の奥でニヤニヤ笑って、こっそり小指を立てた。
「コレが御待ちですぜ」
年甲斐もなく、ときめいた。襟を正し、軽く咳払いした。初老と名がついていても男。落ちぶれてたまるものか。
「どうぞ。ごゆっくり」
店の女が襖を開け、こっそり陰で笑う。
四畳半に女の客が一人。すでに頭を下げて待っている。
「ご無沙汰しております。突然おじゃまして申し訳ございません」
女が顔を上げた瞬間、彦左衛門は何を言えば良いやら分からなくなった。
「志津ではないか。息災であったか」
「はい」
しとやかな返事だ。あれからかなり経つが実家に戻った状態で、正式に離縁状は渡していない。
「すこし痩せたようだな」
昔の志津に戻りつつある。皺は増えたが普通に化粧をし、瞳も優しくなっていた。
「旦那さまこそ。銀次さんから、ここに来れば会えると。――このような場所で毎日お食事を?」
「あぁ、ここは早いからな」
「でも、このおしながき、お茶漬けと山かけしかございませんわよ? これではお体に悪うございます。誰かに御食事の仕度ぐらい……あ、お節介なことを申しましたようで」
「……いや別に。確かに身体には良くないかもしれん。長生きしたいしな」
「前川様の御弔いもございますし、宜しければその折りにお漬物などお持ちしましょうか」
「それは有りがたい。少しうんざりしていたのだ。 そうか、前川の弔いには志津も行かなくてはな。一緒に行こう」
まだ夫婦であるのに別々で挨拶するのも世間体としていかがなものかと考えた末のことだ。
「はい」
志津の嬉しそうな顔を見るのは、まんざらでもない。同じ屋根の下にいた時には縁遠くなっていたが、笑顔の志津は年老いても可愛いらしさがある。
「前川は気前のいい奴だったな」
前川と小久保。二人は若い頃に志道館で剣を交えた仲だ。
その後、前川はその後豊臣秀吉ばりの大出世を果たし、一時は家老職にまで登りつめた。若い頃の志津も友人で、花嫁候補の話もあったという。前川が出世に忙しく駆け回っている間に、彦左衛門は志津の心を射止めた。
前川は残念がりながらも、最後は祝福してくれた。権力と名声を得ても、前川は彦左衛門を忘れなかった。友人として、巨大な屋敷に招き、酒と昔談義に華を咲かせた。
それが、先ごろ訃報の文が届いた。
「では明後日に」
志津と約束をし、山掛けを二人でずるずるとすすった。
途中で一度目が合って、思わず笑みがこぼれた。とても妙だ。そして懐かしい。どんな飯であっても、誰かと食う方が美味い。
彦左衛門は久しぶりに落ちついた気分で、先に飯屋を出た。
春とはいえ夜風はまだ寒いが、今は心地よかった。
――志津の飯、美味かったな。
昔は剣呑な空気で飯が不味いと思っていたが、今ではあの飯が懐かしく思える。それは、過去は美しくありたいと思う故だろうか。
※ ※ ※
暗闇に月の光がさしこんで、提灯がいらないほどになってきた。
魚河岸には数え切れないほど小舟が並んでいる。佐助が住む長屋の近くでもあり、定刻どおりに仕事に出ているようだが、時折、姿が見えなくなる。
「逃げている様子は無いですが、油断できませんね」
「あの調子なら逃げはしないだろうが……」
「そういえば、旦那のおっしゃるとおり山吹の店主が言うよりも、過去の雛菊は評判が良かったです」
「そうだろうと思った。山吹楼の店主は悪口叩いてたが、あの歳でけっこう稼いでいたようだし、そういうのは気も心も効く女でなきゃつとまらん」
「最近女を見るのに、お目が高くなったんじゃないですか」
「そりゃそうだ」
なにしろ小春がいるのだから、女の良し悪しは分かる。吉原でもあれほど別嬪な女は滅多にいない。外見の美しさは勿論だが、身のこなし、芸、女のしおらしさ。どれをとっても彦左衛門にはもったいない。
「最近会ってねぇなぁ」
銀次はビクリと怯えた。布団の中で誰かと喘ぐ姿を想像してしまった。
――口が裂けても言えねぇ……。
「どの遊郭でも、雛菊の才能は褒めていました。顔が知れていた客なら結構仕事も続いていましたね。ただ宴に呼び出されるとか、見知らぬ客が来るような座敷は敬遠していました。廓をたらい廻しされること二回、それで最期に山吹。どれもド派手に親方と喧嘩をしたそうで、どの原因もツラの割れない客は御断りだそうです」
身元を隠さなければいけないような偉い武士や大名級の客が大金を落としていく。それをみすみす蹴るようでは店の儲けにならない。そんな女郎を囲うくらいなら、多少ちんちくりんでもまっとうな女郎を選ぶ。
「どんな人間か分からないのに寝るのは誰だっていやでしょう。まぁ我侭だったんでしょうよ」
「気分の問題ではない。雛菊は狙われていることを知っていたのだろうよ。幼い頃から逃げ回っているとしか思えん。そうなると思い当たる節がひとつしかないのだ」
「もう目星がついているんで?」
「あぁ、だが合点がいかない。理由が分からないし、証拠も無い。お梅、お松、どちらも逃げられない場所にいるところを狙っている。だが雛菊も雛菊だ。長い間逃げてきて、何故最後に頭巾の客と寝たりしたのか」
「敵と分かっていて、逆に寝首を掻こうとしたとか?」
「十日前に、雛菊が必死に追った相手が頭巾の客だろう。雛菊はまた来ると予見していた。銀、お前だったら、殺したいほど憎い相手と寝れるか?」
「無理、無理!」
「俺も無理だ。完全に負けを認め、手首を縛られ素っ裸。身も心も命も差し出す。でも雛菊はそうした」
「何でですか? もうダメだと思ったから?」
「雛菊の亡骸には、恨みも執念も無かった。涙の跡がひとすじ。あの死に顔を見た時、俺は自分自身に問うことになった。こんな女だったか? あぁ、俺も年老いたのだと」
「?」
「分からんならいい。俺はここで何を待っていると思う?」
「佐助ではないんですか?」
「佐助以外の誰か。そろそろ動く頃なんだが……川沿いは寒いな」
河岸沿いに漁師らの姿が目立ってきた。すると後方で暗闇から爛々と光る眼で居抜かれ、彦左衛門は急ぎ振りかえった。
――殺気?
ゴキッ!
今朝、痛めた首をもう一度痛めた音だ。
「――!」
激痛に耐えて辺りを見回すと、漁師からお零れをもらっている猫がいた。それはそれで可愛い。夜中に光った目が、この猫だとしても殺気は別。どこから来たものか。
「そういや、あの件はどうした?」
「番所の牢に閉じ込めています」
「万全だろうな。しっかり見張っておけよ。絶対に逃がすなよ?」
彦左衛門はいつになく不安顔だ。
「大丈夫ですよ。しっかり囲ってありますから。しかし旦那、いくら好きだからといって、番所で猫を閉じ込めるのはどうかと思いますがね」
銀次の冷かしに彦左衛門は真顔だ。
「旦那?」
「……。まずいな、首が回らん」
彦左衛門は銀次に下がるように申しつけた。
「分からんか? 待った甲斐があった」
刀に手をかけた。
闇を貫く金属音は定期的で、歩みと共に堂々と近づいてくる。
小さな橋の袂。殺気に満ちた深編み笠。鋭利な杖を持ち、歩みを早めてくる。
「銀、下がれ」
闇に紛れて、亡霊のように動きは早い。猛然と錫杖を振りかざしてくる。わざと披露するかのような態度、派手好きと見える。彦左衛門は巧くかわしつつ、横一線に刀を閃かせた。
男は刃の手前で身を翻し、真横にずれた。
早さといい、恐れが無い。常時鍛えている者の動きだ。
彦左衛門は無意識に首を庇い、体ごと移動する。いつもより遅く、体勢も崩れた。際どく避けるだけで精一杯だ。居合も出せない。中途半端な居合など意味が無い。だからといっていつまでも受け身でいられない。刺されるなど御免だ。
接近戦。相手の懐に入るしかない。
錫杖の中ほどをぐいと掴み、手繰り寄せようとしたが、そういう動きには慣れていた。錫杖を逆手に回され、簡単に外される。体勢が緩んだ隙に真正面へ突かれる。
腹に穴が開く! 腹をへこませ、刀で受けてどうにか防いだ。キンと音がして、刀が根元から折れ、先端が弾け飛んで闇に消えた。
焦った。
十手と脇差一本でどうにかなる相手か?
じりじりと後退しながら、間合いの競り合いをする。不甲斐ない、追い詰められている。暗闇の静けさの中、彦左衛門の荒い息遣いだけが響いた。
彦左衛門は前へ走った。肉弾戦に持ち込む勢いで十手を振り翳した。
一歩を強く踏みしめて突っ込むと、土削る音と共に草履の鼻緒が切れた。
「! 不運」
体勢が崩れつつも攻め込む。それが功を奏した。相手も予想外だったようだ。ぎりぎりで錫杖の一撃を避け、肩先を掠める。それでもうまく懐に入り込んだ。
十手が深編み笠を裂く。顔が半分見え、男は怯んだ。そして顔を隠しながら後方に下がる。
もう一撃を繰り出すのに腕を振り上げたが、首の痛みに耐えられない。その隙に距離が開いた。
「逃すか!」
銀次が追うが闇に消える姿も早い。
彦左衛門が荒れた息を整えている。銀次はすぐに戻ってきた。被害はあって、手掛かりはひとつも得られずだ。
「厄除けでもいくか……そっちはいい。奴は佐助の家の方向から来た。それなりの証拠が出てくるはず。あと佐助を連れてこい。後は頼む」
切れた草履を持ち、痛めた首をさすった。
「旦那はどこへ?」
「仕切りなおしだ。子猫ちゃんが待ってるからな♪」
「はぁ?」




