淡雪のように・それから10日
あれからしばらく経つ。小春が姿を現さないのは一日、二日ならよくあることだが、そのままずるずると時が過ぎた。春は宴の季節で……忙しい。分かっているが、我慢も限界だ。
十日前の別れ際に小春は手を痛めていた。やもすると、仕事ができないほどの怪我であったかもしれない。
小久保彦左衛門は長屋を訪ねた。
だが、誰も居らず、隣に聞けば元気に仕事にでているという。
とりあえず無事で安心したが、逢えないのは寂しい。
さらに置屋に顔を出した。期待したが、ここも不在であった。
仕事が忙しくとも音信不通というのは今まで無かったことだ。事情が分かっていれば我慢ができる。分からないという状況が、一番我慢ならないと知っているだろうに、本人と直接連絡がつかない。それが一番納得いかないのだ。
小春の中から自分という存在が消えてしまったのか?
あの春の淡い雪のように?
深川の芸者なのに贔屓で吉原に出入りしている身だから、吉原でなくても仕事もあるだろう。まさか十日も大門を通らなかったということは無いはずだ。
――分からん。
吉原大門番所に戻った。
番所の戸をガラリと開けるだけで、中にいる者たちは怯えて空気が静まりかえった。顔の傷も笑顔であれば愛嬌だが、こうなると近寄りがたいのだろう。顔に出すなど、大人らしくないことは分かっている。だがこういうものは、なかなか抑えられるものではないのだ。
銀次だけが相手をしてくれるが、男では慰めにもならない。
「旦那ァ、そんな顔では近寄るもんも近寄れませんぜ? 男はドーーンと構えましょうや」
彦左衛門は季節外れの丸火鉢を足でぐいぐいと苛めながら部屋の端に寄せた。
「銀、俺はフラれたかもしれん」
考えた挙句、そういう答えに辿り着く。結局は年寄り。そこにしか原因が思い浮かばない。
「旦那、そりゃぁ悪ィ冗談のたぐいです………よね?」
銀次は笑って済まそうとした。傍から見た限り、失恋したようだが、そこは黙っていてほしい。今、口に出されても、自分には救いようのないことだ。
「確かに小春さんはお綺麗で色っぽいですけどね。平凡な男には取っ付きがたいような、神懸り的な美しさじゃないですか。大丈夫でしょう」
単なる慰めだ。
「小春が芸子の腕もいい。売れっ子だぞ。それが今まで、こんな爺を相手にしてくれた。分かっているのだ。今までが奇跡だった。若い男ができたのだろう」
銀次は彦左衛門がようやく認めたと思い、本心をさらけ出した。
「旦那の推理はよく当たりますし、若い者同士はねぇ。なにしろ勢いがありますよ。一気に燃え上がって、忘れられちまったんでしょう」
「小春が俺のことを忘れるものか!」
「どうだか。傍に置くだけで、手もつけないんじゃ、小春さんも欲求不満になりますよ。さっさと旦那だけのものにしちまえば良かったのに。離縁してからけっこう経つでしょう。なのにアッチの噂は全然無しでしたからね」
「そのように明け透けに。少しは否定してくれ」
銀次は頭を掻いた。これ以上情けない顔は見たくない。さっさと引導を下して終わりにしてやろう。
「分かりやした。あっしが小春さんから直接事情を聞いてきやす。それで決着をつけやしょう」
※ ※ ※
翌日の正午である。
狭い路地にある小さな茶色の無地の暖簾、そこが小春のいる置屋である。無地の暖簾とはわざわざ名を書かずとも良いが、そこで商売をしているということで、一見さんお断りの店だ。
小さな玄関を入ると下駄箱があり、源氏名の書いた手持ちの提灯が並んでいる。薄暗くて狭い場所に下足番の陣と名乗る男がいた。
足も人相も良くない男が訊ねてきたと、陣は思った。
「何の用だ?」
芸子を追いかけ、悪い男が乱入してくることもある。ここで留めるのが陣の仕事だ。銀次は問い詰められたが、しどろもどろの答えばかりで、どうも妖しい。
「女将さん! 宜しいでしょうか? 吉原から来た、妙な奴がいます」
「妙なヤツとは失敬だぞ 小春さんを出してくれって言っているんだ。小久保さまの名代できてんだよ」
「小久保?」
急な階段を降りて現われたのは小春ではなかった。やせ細って皮だらけの五拾過ぎの女将だ。やたらに背筋がピンとしていて、笑顔もない。
「小春は仕度中だけど。どのような御用でしょう?」
銀次の風体が妖しいと見えたのか、女将の対応が冷たい。
「それが……」
女将の前で捕り手の恋の末路を聞きに来たとも言えずにいると風のように誰かが通りすぎた。地味な鼠色の羽織を着た男の背中であるが、何かがおかしい。
「どうもしっくりこないのよ」
聞き覚えのある声としなやかな身の動き。女――小春である。
銀次は声も出なかった。
「女将。本当にこのような姿で宜しいのでしょうか?」
銀次はいけないもの見ている気がして、視線が合う前に背中を向けた。
「あら、お客様?」
「お馬鹿。言葉遣いが違いますよ。もっと男らしく、気風と粋を効かせるんでしょ!」
「どうも勝手が違ってやりづらくって」
小首を傾げる小春に女将は怒涛の勢いでバンと両肩に手を乗せた。
「あんたならやれる! これからの深川はこれが流行りなの。やり易いとかやりにくいとか、それは問題じゃない。とりあえず男の恰好で……(絶対にあの置屋には負けたくないもの!) 陣さん、この羽織におこぼじゃ合わないッ!」
「ヒッ、そうでした」
陣はまだ経験が浅く若い男だ。慌てて桐の下駄を出した。
「小春さん。あ、違った。今日から鳶吉さんでしたね。下駄をどうぞ。転びませんように」
「ありがとう、陣さん」
「慌てないで。みんなが繋いでいるし、籠も用意してあるからゆっくり落ちついてね。ほらお化粧、崩れちゃうわよ?」
「女将さん、本当にすみません。小春改め、鳶吉。行って参りやす!」
豹変する小春は銀次には目もくれず、火打ち石で追いたてられるように置屋を出ていく
――大ぇ変だ。小春さんが男おんなになっちまってる!
銀次は慌てて立ちあがり、混乱しながら籠を追いかけ外へ出た。
絶対訳ありだ。小春さんが男の恰好をして相手をする。女が女に? おかしいよな。女が酒を飲んで色恋の話などするはずない。ならば男? いや、男が男の恰好をした女などに喜ぶものか。
「何で男の恰好? しかも籠まで頼むなんて……」
――偽装だ!
幕府の探索から逃れるため。それなら納得できる。男のふりをして宴に呼ばれ、何か悪いことをする。しかし芸者の悪巧みといえば、ご法度の不見転(売春)しかない。
銀次は立ち止まった。
「小春さんが床芸者!?」
彦左衛門を遠ざけるのも納得がいく。人一倍不見転を嫌っていたのに。
「小春さん。可愛そうに……そっとしとくのが一番だな。だけど旦那にはどう説明したらいいんだ?」
銀次は困り果てながら、帰途を辿った。
春の残り雪と同じだ。
触れずにそっとしておけば、綺麗なまま消えてなくなるだろう。




