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吉原大門事件帳ー小春日和ー  作者: WAKICHI
ー雪見桜ー 序幕
36/57

雪と桜 

 ここしばらくの風を感じていると、冬は終わったかのようだった。

 梅や桃の花は見頃を過ぎ、桜が盛ろうとしている。

 吉原の仲ノ町通りも凍えた日々から解放され、人通りが増えてきた今日このごろ。


 そこに突然、雪が降った。

 今朝のことである。季節が戻ったように、あたり一面真っ白になるほど化粧をした。


 これでは美しい花もだいなしかと思われた。綿雪は桜に覆い被さり、花房で重くなった枝をしならせて、芸子の小春に袖を差し出したように見える。


 小春は桜を手に取ってみせた。

「せっかくの桜なのに……」


 ため息まじりに呟く、小春の色香。それは桜に劣らず美しい。小久保彦左衛門は後から眺め、腕組みして堪能している。


 冬の雪と春の桜はあい入れぬ。どちらも競って美しいが、月のように美しい小春の美貌の前にはどちらもひれ伏し、頭をたらす。雪月花、三大美の饗宴といったところであろう。


「やはり主が一番よ」

 小春は白塗りでも隠せぬほど桃色に頬を染めた。


「彦さまったら!」

「思うが侭に述べたまでのこと」

 小春が少女のような恥じらいを見せた。


 あぁ、勿体ない、そう思う。本当の小春を晒してしまった。その顔は彦左衛門のものだけにしたいのに。


 小春の後方にいた三味線持ちの男衆が呆気に取られている。

 気風の好い小春姐さんが?……何かの演技なのか?


 男衆の視線に小春は拗ね、何事もなかったような涼し気な仕事の顔に戻る。

「さて、お仕事、お仕事。では小春はこれにて。お座敷に参ります」

「おう、気を付けてな」

 彦左衛門の落ち着いた太い声が、小春は好きでたまらない。




 静寂を破り、女が走ってきた。

「殺してやる!」

 仲の町通りで人々を突き飛ばし、誰かを追いかけている。


 襦袢に素脚。二十歳前後の遊女は大きな目で、周囲をぎらぎらと睨みつけている。

「邪魔すんじゃないよ!」


「アッ」

 走ってきた女が追い越す際、肘が小春に当たった。後方からのことで、小春は振り返る間もなく突き飛ばされる。


 彦左衛門は激怒した。しかし小春の前ではなく、女郎の前に立ち塞がった。

「戻れ!」


 突如轟く雷のような激しさ。小春は痛みより驚きに震えた。普段ならば、優しく諫める彦左衛門が、どうしたことか。


「どうか道をあけてくださいまし。お役人さま、別に逃げようというのではござんせん。あいつだけは逃がしてならないのでございます!」

 女は牙をむいて睨んだ。


「戻れと言っておる」

 怒りに満ちた声。捕り手の威厳と顔の傷のおかげで、たいていの者はここで静かになる。しかし女は屈しない。殺されても良い覚悟がある。


 執念の瞳。吉原で生きる女でも、指折りだ。


 ――強い女だ。


 女は後方から来た遊廓の者に取り押さえられ、引きずられていく。彦左衛門が振り返ると、小春は男衆の手を借り、雪を払っている。男衆は憤慨している。


「大事無いですか。山吹楼の雛菊は気性が荒くて手に負えませんね! あとでとっちめてやります」


 小春は痛めた手を庇いながら、しばらく下唇を噛んでいた。

「仕事に参ります」

 健気な小春。心配は募るが、仕事の邪魔はしないのがお互いの約束ごと。


「本当に大丈夫なのか? 帰りも顔を出せ。待ってるからな」

「はい」

 嬉しそうに微笑み、小春は去っていく。




 雑踏の仲ノ町に降った淡雪は踏みしめられ、すぐに泥々になった。


 夜になり、客引きと宴の賑やかな音が廓から漏れてくる。そして“引け”の頃となれば吉原の本当の夜が始まり、女郎は手腕を発揮し、芸妓は帰り支度となる。

 吉原大門の番所は諍いさえなければ昼夜を問わず、仕事は少なめで平和だ。


 今日も小春の帰りを楽しみにしている彦左衛門である。

 ――今夜はどこで飲もう。寒いから熱燗がいい。


 夜もふけてきた。二人で酒を交わしつつ、今夜小春はどのような話をしてくれることだろうか。



 その期待が見事に外れた。

 小春が来ない。それが事件の始まりであった。



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